希望と家族
洞窟から抜け出した時、エルリンは空の色を見上げた。
二日ぶりに見る青空は、あまりにも静かで、戦場とは別の世界のようだった。
隣ではリュイが膝に手をつき、ユーゴーは岩に寄りかかって荒い息を整えている。
三人とも泥だらけで、食料も尽き、瞳からは生気が失われかけていた。
それでも、生きていた。
本陣へ戻ると、周囲から安堵の声が上がった。
エルリンは何も言わず、リュイとユーゴーを強く抱きしめる。
「無事に帰れて本当によかった。しばらくゆっくり休んで」
二人は静かに頷き、医療班のテントへ歩いていく。
その背中を見送りながら、エルリンの胸には重い感情だけが残った。
自分は守れたのか。
もっと多くの命を救えたのではないか。
「ランディルの希望になる」、その言葉が鎧より重く肩にのしかかった。
家に帰ると、小さな灯りが窓から漏れていた。
扉を開けると、フレッドがいつもの穏やかな笑顔で迎える。
「おかえり、エルリン」
「ただい……ま」
その一言を口にした瞬間、張りつめていた心が崩れた。
エルリンはフレッドの胸に飛び込み、大きな声で泣き続ける。
「私にはランディルの希望になんか、なれない!」
「大丈夫だよ」
フレッドはそれ以上何も言わず、ただ静かに背中をさすった。
英雄ではなく、一人のエルフとして泣ける場所が、そこにはあった。
その後、エルリンは休職を申し出た。
剣を壁に掛け、朝は二人で市場へ行き、昼は庭の花に水をやり、夜は暖炉の前で語り合う。
戦場の匂いは少しずつ遠ざかり、穏やかな日々が流れていく。
そんなある朝。
エルリンは突然立ち止まり、自分のお腹にそっと手を当てた。
「これって……」
フレッドは驚いた顔をした後、ゆっくりと微笑む。
「本当か?」
「うん……きっと」
新しい命だった。
シュトラーダ王国の規律では、妊娠した傭兵は戦場を離れ、出産を最優先とする。
エルリンは迷うことなく剣を置いた。
そして季節が巡り――。
元気な産声が部屋いっぱいに響く。
「女の子ですよ」
エルリンは小さな命を胸に抱いた。
透き通るような肌と、柔らかな金色の髪。
フレッドは目を潤ませながら言う。
「ラミーナ……この子はラミーナだ」
その名前に、エルリンも静かに頷いた。
家には笑い声が絶えなくなった。
ラミーナが小さな指でエルリンの髪を掴めば、フレッドは大笑いし、エルリンも思わず笑顔になる。
ある夕暮れ。
揺り籠を見つめながらフレッドが口を開く。
「ラミーナも生まれた事だし、やっぱり安全な場所に引っ越さないか?」
エルリンは眠る娘を見つめ、優しく答えた。
「そうだね。ラミーナのためだもんね」
少し沈黙が流れる。
フレッドは窓の外を見ながら静かに尋ねた。
「まだ、諦められない?」
何を、と聞く必要はなかった。
ランディルを救うという誓い。
「ランディルの希望」になろうとする願い。
エルリンは少し考え、小さく笑った。
「どうだろう。最近わからなくなってきて……」
母になった今、自分が守りたいものは確かに変わっていた。
翌朝。
まだ朝露の残る庭に、一頭の軍馬が駆け込んできた。
使者は馬から降りると、封蝋の押された書簡を差し出す。
「シュトラーダ王国作戦本部より。エルリン・ファリル殿への召集命令です」
静まり返る家。
揺り籠ではラミーナが穏やかな寝息を立てている。
フレッドは何も言わず、エルリンの手を握った。
エルリンは書簡を開き、静かに目を閉じる。
戦場へ戻るべきか。
母として娘のそばにいるべきか。
ランドールの希望と、一人の家族の幸せ。
その二つは、同じ道を歩めるのだろうか。
エルリン・ファリル、三十一歳。
彼女の人生で、最も困難な選択の時が静かに幕を開けようとしていた。




