第7節 七夕
母親からお使いを頼まれてデパートへ行くと、一階のとある一画がやけに賑わっているのを見かけた。色々な年代の人たちが集まっていたけど一番多いのは小さな子供の姿で、何かの紙とペンを持ってあれやこれやと騒いでいる。
ちょっとしたイベントスペースらしきそこには長い机が置かれ、ケースの中には細長く切り分けられた色紙の束と様々な色のマジックペンが備え付けられている。そして机の横に立てられた笹を見て、それが何であるのかを理解した。
大きな笹のあちこちに結び付けられた色とりどりの紙片。誰かの願いが込められた短冊たちが、送風機の風に吹かれて揺れていた。
そう言えば今日は七月七日で七夕の当日だったと、今更ながらに思い出す。七夕は卒業式のように自分が参加しなければならないというということはなく、初詣のように家族ぐるみで何かを耐えしようという日でもない。ましてやハロウィンやクリスマス程に世間が騒ぎ立てるものでもなく、どちらかと言えば花見のように気が向けば参加するといった程度のものなのだ。だから気にしないままに過ごしていれば完全に忘れていて、今の今まで思い出せなかったのだった。
七夕だって立派な行事。もしかすると今日も彼女に会えるかもしれないという可能性に思い至る。正直なところお使いだなんて面倒臭いと思っていたけど、今日に限れば外出の切っ掛けを与えてくれたことに感謝しておくべきかもしれない。
そう心の中で両手を合わせながら、短冊が置いてある机に足を向ける。彼女がいつ現れるのかそもそも本当に現れるのかは分からないけど、このデパートの中で一番七夕らしいのはこの場所だ。だから暫くは此処から離れないで待っていようと思い、折角だから暇潰しも兼ねて一つくらい短冊を書いてみることにしたのだった。
ペンを持って紙と向き合い、いざ何を書こうかと悩む。願い事を書くと言っても将来の夢というのも特には無いし、今どうしても成し遂げたいことだとか欲しいものだとかも有りはしない。ならばどうすれば良いだろうと首を捻って、そうして最初に出てきたのは彼女についてのことだった。
出会ってから流れた月日に反してあまりにも知らないことの多すぎる彼女。気の置けない友人と呼べる程の間柄にまで進展したにも関わらず、僕は彼女の年齢も出身も名前すらもまだ知らない。名前については絶賛考察中で、前回のヒントを参考にしてもなお導き出せてはいないのだった。
八月六日で、最近ニュースになったような出来事。三百六十五日の中でたったの一日とはいえ何年前まで遡れば良いのかが分からなければ調べようにもキリがない。それにたった一日の中でもかなり多くのニュースが流れてくるのだから、関係なさそうなものを見出しの時点で省いていてもかなりの量になってしまうのだ。
調べようと思えばできないこともなかったけれど、相当辛い上に成果が無かったというオマケまで付いてきては幾らなんでも心が折れるというものだった。そうなればもう、今回貰えるだろう三つ目のヒントに期待するしか他にない。
それから、彼女について気になることがもう一つ。行事ごとのある日に現れるという法則は、本当に正しいのだろうかという疑問だった。今までの統計から見ても毎回何らかのイベントがある日に会っているのは疑いようがないけれど、現れる日と現れない日の違いはどこにあると言うのだろう。
例えば花見に行った時には現れたのに、節分や十五夜なんかには現れなかった。僕が参加しているかどうかと言う点で考えてもみたけど、ハロウィンやクリスマスという例もある。ついでに言えばその二つでは現れたくせに似たようなものに思えるバレンタインなんかには来なかった。それぞれの間に空く日数だってまちまちで、二ヶ月も空く時があれば一週間程度の時もあった。メジャーなイベントには比較的現れやすいとは思うけど、その選定基準は何なんだろう。
いや、それとも。
『どの日を選ぶか』という考え方そのものが間違いで、『何かの理由があって来れない日がある』という考え方もできるのではないだろうか。
──そこまで考えて、ため息を一つ吐く。これこそ考えたって仕方がない。人は自分の考えすらも満足に理解することはできなくて、他人のものともなれば尚更だ。
こうも材料が少なければ推察のしようもないのだし。彼女が隠そうとしているならば無理に暴きたてるべきではなく、気になっているのはどうしようもなくとも、いつか自分から話してくれるのを待つべきだろう。
そう自分の中で結論づけて、ああそうだと思い直した。短冊に書く願い事。今一番叶えたいことなら、『彼女のことを知りたい』だなんてピッタリなんじゃないだろうか。
どうせ笹に吊るしてしまえば誰が書いたものなのかなんて分からない。それにただ願うだけならどんな内容だって僕の自由だろうと、短冊へとペンを走らせる。流石に飾っている最中を押さえられてしまっては弁明のしようがないので、内容に対する羞恥心からなるべく周りに人がいないタイミングを見計らって紐を枝へと括り付ける。それから次いでとばかりに書いた面が見えにくいように内側を向けて、誰にもが見付かってはいないと安堵して、よしっと一仕事終えたように声に出そうとして。
──からん。
「どうしたの? そんなにコソコソして」
「うわあ!?」
ひょっこりと脇から顔を覗かせた彼女に驚いて跳び跳ねた。
「わ、何よ。そんなに驚く?」
思わず大声を出してしまった僕に彼女もまた目を丸くして、次いで怪訝な顔を向けてくる。
「ああいや、ごめん。あんまりいきなりだったから、つい」
「ふうん? まあ良いけど。それより短冊、何書いたの?」
一番内容を見られるとマズイ人が出てきたから、とは言えなくて適当に誤魔化す。曖昧な言い訳じみた気はするけど一応は彼女も納得してくれたらしく、直ぐに話題を別のことへと切り替えた。よりにもよって彼女に、よりにもよって短冊に書いた願い事を、訊かれてしまった。
「いや、えぇと…………そう、君の名前を速く当てたいって書いた」
「えー、そんなこと? 何それ詰まんない。もっとこう、世界征服! みたいなことは書かないの?」
「むしろそっちの方が書かないと思うけどな……」
まさか『君のことを知りたいって書いたんだ』なんて正直に言える度胸もない。言うこと自体も躊躇われるし、言った後にどんな反応をされるかと考えるのもまた怖い。それで大急ぎで思考を巡らせて、一番言っても問題なさそうな内容をでっち上げて口にした。
僕がそれを願い事として掲げるのは自然の流れだし、それに実際の願い事からしてもあながち嘘とも言い切れない。名前だって立派な『彼女のこと』なのだから。
完全に偽った訳ではないのが幸いしてか、口を尖らせて勝手な文句を言ってくる彼女に言い返す心の余裕まで生まれてくれた。それもあってか彼女も僕の言い分を疑うことなく信じてくれたらしい。
「あれ、でもそんなこと書くってことは、もしかしてまだ私の名前分かってない?」
「う、それはゴメン。まだ思い付かないや」
まさか彼女の中ではもう答えが出ても良いような頃合いだったのか。彼女は予想外だと言わんばかりに驚いてみせる。
「そっかぁ。次のヒント考えてなかったんだけどな……まあ後でいっか。今日の内には考えておくから、ちょっと待っててね」
そう言って彼女は、まだ悩みながらも一旦この話を切り上げた。
後にしようと言っても、ならその間はどうしよう。何となく彼女とはその日の行事に関連した話をするのが恒例となっていて、そうと決まっている訳ではないにしてもその例から外れることには妙な抵抗を感じてしまう。
七夕らしい話題はないかと周囲を見渡して、目についたものはやはりと言うべきか沢山の短冊が吊るされた笹だった。
「短冊、君も何か書いてくる?」
ちょっとした話題提供くらいのつもりで訊いてみる。彼女は僕が指差す先に視線を向けて、また子供たちが集まってきている短冊の置かれたコーナーを眺めると、静かに首を横へと振った。一瞬だけ、その瞳が苦々しげに細められる。
「やめとく。願い事はあるけど、私にはそれを書く権利はないだろうから」
それだけ言って彼女は七夕飾りから視線を外した。見たくないものに蓋をするように、それきり彼女は数多の祈りの吊るされた笹を見ようとはしなかった。
一方で僕は、前回花見をした時の別れ際を思い出していた。逃げるように立ち去る彼女。伸ばした手。そして掴んだ筈がすり抜けた、彼女の指。
──権利がない、なんて。
今さっき彼女が言った言葉を頭の中で再生する。短冊を書かない理由。そしてそれが『書かない』のではなく『書けない』が故なのだとすれば。
──つまり、ペンも短冊も持てないんじゃないか?
思わず口から溢れそうになった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
これはきっと訊いてはいけない。訊いては色々なことが終わってしまう予感がした。曖昧にしているからこそ保たれていた平穏が崩れてしまう。深入りしないからこそ見ないで済んでいた不吉が暴かれてしまう。
あぁ、だとすれば。
彼女のことを知りたいだなんて僕の願いは、根本からして間違っていたんじゃないだろうか。
「ねえ、外に出ない? 七夕だし、天の川とか見てみたい」
重くなりかけた空気を、沈む前に彼女の明るい声が浚っていく。表情はもう普段よく見る楽しげなものに変わっていて、さっきほんの一瞬だけ見えた苦しさはもう影も形も見当たらない。まるで夢か気のせいだったとでも言うかのように、彼女の表情に浮かんでいたのは言葉通りの星に対する好奇だった。
デパートの外に出て空を見上げる。空は幸いにも晴れていたけど、そこに散りばめられた光点は数少ない。地上の眩い光に負けて遠い彼方の光が霞んでしまっているのだろう。こんな町中ではとてもではないけど肉眼で天の川なんて望むことはできないのだった。
それでも全く星が見えないということはなく、特に一等星で構成されている夏の大三角ならよく見えた。ああして他の明かりには負けじと輝いている織姫と彦星からすれば、彼らの間に天の川がないのはむしろ良い状況だと言えるのだろうか。
隣で同じように空を見上げる彼女は、それをどんな気持ちで見ているんだろう。自分の願いを何かに祈ることを頑なに拒み、桜を苦手だと言って、卒業式を魅力的だと語った彼女。
なら星は。あの遠く遠くからこんな地上にまで自身の存在を知らしめている星々に、彼女は何を感じているのだろう。
「織姫と彦星ってさ、一年に一度しか会えないでしょ。それって結構ヒドいと思わない? お互いに大好きな二人なのに」
そんな僕の疑問が届いたのか、星を見上げながら彼女は自分から口を開いた。星について、とは違ったけれどそれよりももっと七夕らしい題材。七夕伝説。それを彼女は、酷い話だと感じるらしい。
遊んでばかりいて仕事をしなかったせいで分かたれてしまった織姫と彦星。それは自業自得と頷かざるを得ない理由で、けれど何より愛し合う二人が離ればなれになってしまう悲恋の物語だと捉えれば、酷いという感想もあながち否定できるものでもない。
「まあ確かに、それもそうだよね」
「じゃあさ、もしもこれから会える機会の全部を前借りして、一年間好きなだけ一緒にいても良いって言われたら、二人はどう思うのかな」
そうして彼女が口にした例え話は、物語を根底から大きく揺さぶるようなものだった。
年に一度、再開しては別離してを繰り返すのが良いか。それとも一度きりの永遠の別離だけで終わらせるのか。一見すれば後のない後者の方には利がないように感じるだろう。けれど実のところ、この二つの選択肢はじ存外に釣り合っているように思うのだ。
毎年出会っては別れてを繰り返すということは、同じだけ仲を分かたれる苦しさや寂しさを味わい続けなければいけないということだ。如何なる時も再開の瞬間を待ち望んで、やっとその日が来たと思えばあっという間に再び別れさせられる。たった一日の幸福と三百六十四日の空虚。そんなものを繰り返していれば、きっといつか限界が来るに決まっている。
対して彼女が示す方はといえば、最後に二人に待ち受けているのは二度と再開することの叶わないという取り返しの付かない別れだけだ。確かにそう考えればこの場合の二人は不幸に向かうだけだと思えてしまうかもしれないけど、違う見方をすることもできる。ようは思う存分一緒の時間を過ごしてしまって、その後にはきっぱりと離れてしまえるのだ。これならばいつかまた会えるからと期待して一人でいる時の空しさに苦しむ必要もない。もう会えないものだと割り切って忘れてしまえればそれが一番苦痛を感じないで済むやり方だ。
だからこそ、この二択は等価として並んでいる。どちらを選んでもそちらであるが故の幸せがあって、同時にそちらであるが故の辛さがある。どちらを是としてどちらを否とするかは、それこそ考え方次第だろう。そこに正解なんてきっと無いし、正しさも間違いも平等に振り分けられていて一方のみを選び取ることは難しい。
そしてそれに、僕は暫く考えた末に僕自身の考えを導いた。
「一年間一緒に過ごして後は二度と会えないっていうのは、やっぱり辛いんじゃないかな」
こう、僕は彼女の提示した案を否定した。
「だってそうしたら、好きな相手に二度と会えないってことになる。好きな気持ちは変わらないのに、もう絶対に会えないってことだけが決まってるなんて。それなら一年に一回だけの方がマシなんじゃないかな」
仮に全てが終わった後にキッパリと相手のことを忘れてしまえるのであれば、その選択肢も良いだろう。けれど、もしそれが出来なければ。いつまでも心に残って離れないというのであれば、その結果残るのは永遠に続く苦しみだけだ。ましてや彼らは三百六十四日の寂寥に何百年何千年と耐えてこれたのだ。それだけの愛があるのならば、まず間違いなく互いを忘れて諦めるなんてできっこない。
だから僕が思うにこの二択では従来どおりの一年に一回の再開の方が二人にとっては幸せだろうと、そう結論づけて言葉にして。
ふと、あれと首を傾げた。
似たような話をいつだったかもしたような気がする。『一年に一回だけ』。この言葉を、前にも言ったんじゃなかったろうか。
「そうだよね」
僕からの返答に、彼女は納得したように頷く。まるで言ってほしかった答えを返してくれたと言わんばかりに、嬉しそうな笑みを浮かべている。
「うん、やっぱりキミは私と気が合うね。キミはちゃんと、私が欲しい答えをくれるんだ」
ああそうだ。思い出した。
盆祭りのあの日。彼女と初めて出会った日。川原で線香花火をする彼女と、そんな話をしたんだっけ。
お盆に帰ってくる魂が、一年に一回帰ってくるだけで満足できるのかという疑問。思い返してみれば、あの時の問いと今回の問いは酷く似ている。無意識に似たのかわざと同じような質問を繰り出したのか。どちらにせよ、どうして彼女はそんなことを訊くんだろうと、今更ながら不思議に思う。
「ねえ、次の八月十六日。初めて会ったあのお盆祭りの日なんだけど。会えるかな。一緒に来て欲しいところがあるの」
今のやり取りに何を思ったのか。彼女は急に、何の前触れも無しにそんなことを言い出した。
今までずっと交わしたことがなかった約束。僕が会えそうだと感じてそこに彼女が現れるという関係性には不要だった待ち合わせ。ずっと続いてきた当たり前から外れるそれは、何だかしの当たり前を壊してしまいそうな、言い知れない不安を感じさせた。
そうして彼女は、待ち合わせの場所を告げて立ち去った。
「あ、三つ目のヒントね。ありえないと思えることでもちゃんと確かめること。この世界は意外と有り得ないことが起こったりするみたいだからさ、もしかしたらそういう溝に真実は落ちてるかもしれないよ」
最後の最後に、思い出したように名前当てのヒントだけを残していった。
その後家に帰ってから、僕は改めて八月六日のニュースについて調べてみた。今度は前に調べた時に流していた、関係ないだろうと思えたものまで全部。そして僕は、彼女の名前に行き着いたのだった。
意外なことにそこに至るまでに大して時間はかからなかった。成る程確かに、まだ正解に辿り着けていなかったことを彼女驚いた訳だ。それはほんの二年前のニュースで、去年にも『あれから一年』と題してもう一度大々的にニュースに流れていたのだから。
その記事を見て、僕は一目でそれこそが彼女の名前なのだろうと確信できた。それは彼女の出したヒントの全てに当てはまるし、彼女が指定した次の待ち合わせ場所から考えても間違いない。それにそうであれば、色々なことに説明が付けられるのだ。
だからこれこそが疑いようのない真実なのだろうと、僕はその事実を携えて約束の日、僕たちが出逢ってからちょうど一年になる日を待ったのだった。




