第6節 花見
四月に入って、予想通りに入学式の頃合いに桜は満開を迎えていた。
川沿いに何処までも立ち並ぶ桜の木々。伸ばした枝いっぱいに薄紅の花弁を抱き抱えて、風が吹く度にその一部だけを溢している。強くは吹かないが穏やかな風は花の全部を浚ってしまうこともなく、派手すぎることもない適度な加減の桜吹雪を演出している。
そんな花吹雪を浴びながら。
──からん。
彼女は、桜の木の下で僕が来るのを待っていた。
今日はいつものような行事ごととは少し違う。行事と言えないこともないけれど、明確な日にちが設定されている訳ではない。ハロウィンやクリスマスみたいに僕が参加しようとしなくとも否応なしに訪れるものでもない。
だけどきっと居るだろうと。花見に来ればきっと彼女は現れるだろうと、根拠のない予感がして、そうしてそれは外れることなく今日もまた彼女と会うことができたのだった。
「どうかな。一ヶ月経った訳だけど、私の名前は分かった?」
顔を合わせて挨拶を交わして直ぐに、彼女はその話題に切り込んできた。
彼女から出題された名前当て。この謎掛けを言い渡された最初は当てて欲しいのか欲しくないのかで悩んだけれど、今になって思えばきっと当てて欲しいのではないかと思えてしまう。仮に教えない為の言い訳として謎掛けの形式を取ったのだとすればこうも積極的に訊いてこないだろうし、何よりヒントなんて出そうとしない。彼女の口振りは速く正解に行き着いて欲しいと言っているようなもので、だけど残念ながら、僕に進展はないのだった。
「全然分からなかった。八月六日の出来事で調べてみたけど、名前に関係ありそうには見えなかったし」
前回出されたヒントである日付については調べるには調べてみたのだ。その結果見付かったのは、語呂合わせの記念日で『ハムの日』とか『バルーンの日』とかが設定されているということや、昔の出来事で言えばアメリカの水泳選手がドーバー海峡を泳ぎ切ったこととか新続古今和歌集が完成したとかで、どう考えても彼女の名前に結びつけられないのだった。
「あー、なるほど。そういう風に考えちゃったかー」
とりあえずは調べた成果を報告した僕に、彼女は苦笑いを浮かべながらそう呟いた。
「まさか、そもそも考え方が違ったとか?」
「まぁ、そだね。そんな何十年も何百年も昔のことじゃなくてさ、もっと最近のことだから」
「最近のこと?」
それでもあまり良く分かっていない僕に対して、彼女はそうと頷いてから指を二本立てた手を突き出してきた。
「じゃあこれがヒントその二ね。キミはもっとニュースを見た方が良いよ」
「ニュース? まあ確かに、あんまり見ないけど……」
最近のニュース。過去の出来事を調べるというよりは、ここ数年分の八月六日についての新聞記事を漁るとかすれば良いのだろうか。正直なところ、それでも分かるとは思えない。調べること自体はネットを使えばどうとでもなるだろう。だけど昔の出来事を調べてみた後だと余計に、起きた事と名前との関係性が分からなくなる。
とは言え調べてみないことには何も話は進まない。もしかすると本当に見れば分かるようなことがあるのかもしれないし。どちらにせよ、いまこの場ではこれ以上考えを深めることはできないだろう。
「じゃあ続きはまた今度と言うことで。折角のお花見なんだから、桜を見ないと勿体ないよ」
彼女がぱちんと手を叩いてこの話を打ち切って、桜並木に沿って歩き出す。
もはや言うまでもないけれど彼女の格好は緋色の浴衣。西洋ではなく日本の行事である花見の場なら、その和装も似合っている。祭りと違ってわざわざ浴衣を着ている人が多い訳ではないから珍しくはあるけれど、奇異の視線を気に掛ける必要はない。
大きく伸びた枝とそこに咲き誇る花々によって半分だけのトンネルみたいになっている下をゆっくり歩く。目的地も定めずに、強いて言えばこの並木が途切れるところを目指して歩いていく。今日は花を眺めることが主題だからか、二人揃って口数は少ない。周囲の人々に目を向けることなく、他愛もない雑談も鳴りを潜めて、どこまでもどこまでも続いていくかのような同じ風景を飽きもせずに眺めている。
「ねぇ。キミは、桜は好き?」
そんな静かに流れる時間の中で、静寂の薄膜を破られないような静かな声音で彼女はそんなことを問うてきた。
「桜? まあ人並みには好きかな。綺麗だし、木にこれだけ花が付いてるのも圧巻だし」
見ていて綺麗だと感じるものはそれだけで良いものだと思う。日本人が桜に惹かれる理由というので考えればもっとそれらしいことも思い付くのかもしれないけど、そんな深い理由なんて無くとも桜は好きだ。逆に桜が嫌いな人なんてどれくらい居るんだろうかとすらも思う。
そう考えての僕の答えを聞いて、彼女はそっかと頷いた。やっぱり普通はそうだよねと、小さく霞むような声で口にする。
「でも、私は苦手かな。前は好きだったんだけどね。今見たら、何かダメだなって思っちゃった」
そうして彼女が返してきたのは、僕が思う少数派の意見だった。
「苦手って、どの辺りが?」
「自分でもあんまりはっきりしてないんだけど、多分すぐに散っちゃうところかな。あの短い間しか生きていられない儚さが、ダメなんだと思う」
桜の儚さは、一般的には桜という花が持つ魅力として語られる。ずっとずっと待ち望んで、漸く満開を迎えたと思えばあっという間に散ってしまう。その命の儚さこそが日本人の美学に合っているとか、人生の短さと重ね合わされたりとかで、好ましいものとして扱われる。
けれど彼女は、それこそを良くないものだと断じてのけた。
「でも、散ってもまた来年には咲くんだから。それを嫌う必要はないと思うけど」
「だから、だよ。直ぐに消えるのは私と同じくせに、また一年経てば同じ様に戻ってこれるなんて、そんなのズルい。どうせ消えるなら、私と一緒に完全に消えてくれたら良いのに」
彼女は意味の分からないことを言う。奥歯を噛んで何かを耐え凌ぎながら、それでも溢れてしまうかのように言葉と声音に感情を乗せる。思ったままに言葉にして、込み上げるままに吐き出して。そうして彼女は、俯いていた顔をキッと上げた。滲んだ瞳で頭上を覆い尽くさんと枝を広げる木々を、弱い風に吹かれるだけで簡単に命を散らす花弁たちを睨み付けて、はぁっと苦しげな吐息を口から漏らす。
「ごめん、やっぱり耐えられそうにないや。今日はもう行くね」
「え? あ、ちょっと!」
最後に取り繕うような、涙を隠せていない下手くそな笑みを浮かべてから、急に彼女は駆け出した。カラカラと下駄を鳴らして、走りにくいだろうに転ぶこともなく、逃げるように離れていこうとする。
それがあまりに唐突なことだったから、僕は慌てて引き留めようと手を伸ばした。指先が走り去ろうとする彼女に触れて──けれど間に合わず、彼女の手は掴もうとした僕の手からするりと抜けるように逃れていく。
遠ざかっていく背中。僕はそれを追いかけることもなく、ただ呆然と立ち尽くしている。やがて人波に紛れて彼女の姿が見えなくなっても、まだ僕は動き出すことが出来ずにいる。
いきなり去ってしまった彼女に驚いたから、というだけではない。もちろん理由の一つにそれもあるけど、一番重要な理由はそれじゃない。
なんで、と心の中で誰かが言った。心臓がドクドクと早鐘を打っている。視覚も聴覚も、全部の感覚が他人事みたいに遠いところで揺蕩っている。それを僕は、やっぱり他人事みたいに眺めている。
視界に映っているのは僕の右手。引き留めるべく彼女へ伸ばした、寸前で届かなかった指先。
──違う。あの時、確かに指は届いた筈だったのに。
動悸じみた鼓動を胸を掴んで誤魔化そうとする。
だって有り得ない。そんなのは、絶対に有り得ない。
──彼女に触れた指先が、まるで其処には何も無いかのようにすり抜けただなんて。
そんなこと、有り得てはいけないんだから。




