第5節 卒業式
穏やかな風に、まだ花の咲いていない桜の木が揺れている。ちらほらと蕾の見えるだけの段階では花見には程遠い。見頃はきっと四月に入ってからで、まだ三月も頭の今の内では望めない。桜が飾るのはどちらかと言えば入学式であって、卒業式である今日ではない。
式も終わり、教室でのホームルームも終わって、僕は三年間を過ごした校舎から外へ出た。友人との話や別れを済ませてしまって、まだ教室で騒いだり部活仲間で集まったりしてまだ当分は冷めないだろう賑わいから、一足先に退散する。
早々に家に帰ろうと訳ではない。他のクラスにまで友人が何人もいるとかいう事はないにしても、僕にだって普通に仲の良い相手は居たのだし、そういった次はいつ会えるとも分からない人たちと話をしているのも悪くはなかった。むしろ今日はそれくらいしておくべきだろうとも思っていた。思っていながら、それを選ばないで背を向けた。
たぶん今日なのだろうなと、またぞろ予感がしたのだった。だからこそこうして一人外に出て、喧騒の中心地から離れて校舎裏へと足を運ぶ。天気の良い晴れた空のお陰で明るく賑やかな処から、校舎に遮られて陽射しの届かず薄暗くてひっそりとした処へと移動する。
今日はいつもと違って、周りにいるのは見知らぬ誰かではなく見知った同級生たちなのだ。もし浴衣なんて着た目立つ異性と一緒に居るところなんて見られれば、何と思われるのかとつい悪い想像をしてしまう。
それに、校舎裏を選んだ理由にはもう一つ。あそこであれば、いつも神出鬼没な彼女が現れる瞬間も見ることができるのではという悪戯心もあったのだ。校舎裏なら人気もなくて狭いとは言え見晴らしも良くて、壁に背中を付けていれば近付く人間を見逃すことは有り得ない。だからそこで待っていれば彼女が現れるところを拝むことができるだろうと、そんな事を考えたのだ。
結論から言えば、浅い考えでしかなかったのだけど。
──からん。
校舎裏へと足を踏み入れてその足音を聞いた瞬間に、あっと声を上げそうになった。彼女がやってくるところを見ようなんてそんなのは僕が待っている側である時だけの話だ。逆の場合がある可能性を全く考えに入れていなかった。
「あ、やっと来た。遅いってばー」
さながら僕がしようとしていたことを再現するみたいに校舎に背中を付けて待っていた彼女を視認して、僕はがっくりと肩を落とした。
「ん、どうかしたの? 何でちょっと残念そう?」
「何でもない。ちょっと思い通りにいかなかっただけだから気にしないで」
不思議そうに首を傾げる彼女へと、何でもないと答えながら隣へ並ぶ。それでも彼女は納得いかないような目をしていたけれど、僕が持っていた卒業証書の筒を見て直ぐに話題をそちらへ移した。
「キミ、三年生だったんだ。知らなかったや」
「それはおあいこ。僕だって君の年どころか名前だって知らないんだから」
「あはは、それもそっか」
聞いても教えてくれなかったし、とは口には出さずに言葉の裏に潜ませる。彼女もまたそれに気付いて軽やかに笑ってから、不意にあれっと呟いた。
「てことはキミ、受験生だったの?」
「そうだけど」
「え、私と会う時、いつも全然そんな風じゃなくなかった!? 勉強してる素振りなんて見せなかったじゃん!」
心底意外だとでも言いたげに彼女は声を上げて詰め寄ってくる。けれどその驚きは心外だ。こっちだって年がら年中遊び歩いていた訳ではなくて、実際にちゃんと進学もできているんだからとやかく言われる筋合いはない。
「してたよ。会った時って言っても何かしらの行事ごとの日ばっかりだったし、しかも大抵は塾からの帰り道で夜だったしさ」
「…………あ、ホントだ」
顎に指を添えて記憶を辿り、やがて納得したようにポンと手を打った。
「あー、じゃあ私の名前当ても進んでないか」
「それはごめん。あんまり詳しく考える余裕は無かったかな」
そちらに関しては彼女の言うとおりだった。ただでさえ手掛かりも取っ掛かりもない手探りの謎解きだったのだ。それを受験勉強との並行で解き明かせる程に、僕は器用ではなかったのだ。
「まあ仕方ないや。元はと言えば私の勘違いのせいだしね」
そう言って、彼女は壁から背を離して数歩前へと歩み出る。
「だから、ヒントをあげる。このままだと何も思い付いてくれなさそうだし、これからが会う度に一つずつヒントをあげましょう」
一歩二歩三歩と前に出てから、くるりと回って振り返る。緋色の浴衣と黒い長髪が風に靡いて、何度か揺れてから元の形に収まっていく。初めて出会った盆祭りから少しも変わらないその姿。何度会っても何処で見てもあの川原で彼岸花片手にしゃがみこんでいた姿を彷彿とさせる彼女は、こんな言葉で自分で被った『謎』という名のヴェールの一部分を切り落とした。
「八月六日って、何があった日か知ってる?」
「八月六日?」
何だろう。何かの祝日か記念日でも設定されていただろうか。もしそうなら調べてみないことには分からないし、そもそも記念日だとしてそれが彼女の名前とどんな関係があるんだろうか。名前の由来になった? もしくは関係があるのは制定者の名前の方なのか?
ああいや、そもそも祝日や記念日というのが間違いなのかもしれない。彼女はさっき、『何があった日か』という言い方をした。ならば重要なのは『その日』についてではなく、その日に『何が起きたか』になる筈だ。とは言えそうなると余計に分からないことになる。出来事となると、更に名前とどう関連してくるのか分からなくなってしまう。
そんな風にあれやこれやを考えては否定してを繰り返す。そうやって困惑する僕を見て、当の彼女はと言うととても愉しそうな顔をしているのだった。愉快ではなく、どちらかと言えば悪戯を仕掛けた子供のように。ターゲットが四苦八苦している様を見て楽しんでいる。
「ねえ」
ふと。
また没頭して更に考え込んでしまっていた僕に、彼女が声をかけてきた。
「高校の卒業式って、どんな感じだった?」
そんなことを彼女は思い出したように問うてくる。呼び掛けられて僕は沈んでいた思索から浮上した。彼女はじっと僕の握っている卒業証書の入った筒を見詰めている。その顔からはさっきのような楽しげな色は抜け落ちていて、残っているのはそこに何を潜めているかが読み取れない無表情だけだった。
「別に大して何かがあった訳ではなかったかな。先生とかの話は長くて正直退屈だったし、普段の朝礼なんかとあまり変わらない気はした。生徒の式辞なら面白くしようとしてくれてたみたいだからそこは良かったけど」
総評としては、この式典が必要ではあれど良いものだとは思えなかった。あくまで個人的な意見だけど。そもそもは式なんて楽しませることが本題ではないのだから、どうと訊かれても楽しかったなんて肯定的な意見は出てこないだろう。
「ううん、そうじゃなくて。内容の話じゃなくて、気持ちの話」
ただ、今回の場合は僕が言葉の意味を取り違えていただけらしかった。彼女は小さく首を振って、僕の間違いを訂正する。
「卒業式を終えて、高校を卒業して、どんな感覚?」
「……ああ、そういう意味」
彼女が訊きたかったことを捉え直して、改めて何を答えるべきかと悩む。気持ちの話、つまりは精神的感情的な話ということで、そうなれば答えるのは難しい。人間誰しも常に自分の感じたことを明文化しながら生きてはいない。時には何も考えず、自分が何を考えたかすらも考えずに行動する。だからこそ自分の気持ちについて話すには幾らか深く考える必要がある。当時のことを思い出して、そこで自分が何を感じていたかを思い出して、それを今の自分にも重ね合わせてみて只の妄想が流入しているのではないことを確かめる。その過程を経た上で、漸く僕は口を開いた。
「たぶん、寂しいんだと思う。単に仲の良い友達とかと会えなくなるからってだけじゃなくて、今日を境目に日常の形が完全に変わっちゃうから。今まで当たり前だったことが、当たり前じゃなくなるのが淋しいんだ」
ずっと続く筈の日常。いつまでも繰り返す筈のルーチンワーク。それらはよっぽどの事でもない限りは途切れることのないもので、そして卒業式というのは最もありふれた『よっぽどの事』なのだ。
もう過去には戻れない。時間というのは不可逆で、過ぎ去ったものも置いてきてしまったものも二度と取り返すことは叶わない。だから、今日あの教室に置き去りにして来た『当たり前』は、もうどうあっても決して僕の手に戻ってくることは有り得ないのだ。
「…………寂しい、寂しいかぁ」
話し終えた僕の言葉を、彼女は自分の言葉として繰り返す。その意味を噛み砕いて、自分の中に落とし込もうとするように反芻する。そしてそれを終えてから、うんと一度頷いて。
「それはちょっと、楽しそうかな」
なんて、そこはかとなくズレた感想を口にした。
「あ、えっとね。楽しそうって言うか、魅力的、みたいな意味ね」
「いや、それでもちょっと違う気がするけど……」
心底から怪訝な目を向けてしまった僕を見て、彼女は慌てて手を振りながら訂正してくる。どういう意味でそんな印象を抱いたのか。それについて補足されようとも、根本として普通は卒業式に楽しいなんてイメージは持たないだろう。僕自身もさっき退屈だと口にして、式は楽しませる為のものじゃないと言ったばかりだ。
だからその話を聞いた上での感想が『楽しそう』というのはどうなんだろう。
「むぅ、別に良いでしょ。私はキミみたいに卒業式なんて経験ないんだから、どんな風に思ったって。………………まあ、確かに変なこと言ってるのは自分でも分かってるけどさ」
最初は眉を寄せて反発ぎみに、けれど後になればなる程段々萎んで、最後は弱々しく口にする。人に話せばきっと大半の人が首を傾げるだろうその感慨を、彼女自身もズレたものだと認めた上で。
それでも、と彼女は言葉を続ける。ズレていようとも、訝られようとも、それが自分自身の偽らざる本心なんだと宣言する。
「やっぱり、そういうのも良いなぁって思っちゃうかな」
そう言って彼女は、とてもとても羨ましそうに僕の後ろにある校舎を眺めていた。




