第8節 盆祭り(結)
八月十六日。四日間続くお盆の期間の最終日。送り盆として先祖の魂を送り出すこの日に、毎年僕の家の近所では盆祭りが催される。祭りの本質的な意味合いとしてはご先祖様を盛大に見送る為の儀式であり、中心地である神社では送り火が炊かれている。地域によってはその火を川に流したりするそうだけど、此処ではそこまで本格的なことは行われていない。あくまで本来の役割は神社の中だけで完結していて、一歩外に出ればそんなことなんて関係無しに大勢の人々がお祭り騒ぎを楽しんでいる。
屋台が並び、提灯の灯りが夜を照らし、祭り囃子が鳴り響く。毎年飽きもせずに繰り返される同じ光景。道を埋め尽くさんばかりの人間の濁流から、僕は辛うじて抜け出した。
時計を確かめて、もう少しで時間になってしまうことを知って少し焦る。余裕をもって出てきたつもりだったけど、人混みを抜けるのに思った以上に手間取ってしまったらしい。だからこんなに混みあっている場所は苦手なんだと胸の中で悪態をつきながら小走りでどんどん人気の減っていく道を進んでいく。
別に、待ち合わせの時間が指定されている訳ではない。言われたのは日にちと場所だけで、何時そこに行けば良いのかまでは決まっていなかった。だけど、きっとその時間なのだろうと確信していた。午後の八時よりも少し前、一年前に彼女と初めてと出逢った時間帯。何となく、その時間でなければいけないような気がしたのだった。
歩を進めるにつれて人の数はどんどん減って、明るさも賑やかさも失せていく。祭り会場から遠ざかっているのだから当然だ。その上僕の目的地は、恐らく夜になれば誰も寄り付かないだろう場所なのだから。
もう一度時計を見る。走ったお陰か時間には少しだけ余裕が生まれている。そうして僕は目的地、待ち合わせ場所として彼女が指定した、この街の墓地へと辿り着いた。
夜の墓地には独特のひんやりとした空気が流れている。暑い夏夜に、けれど冷や汗に吹き付ける涼風は異様に冷たく感じられる。光源は月と、調子が悪いのかチカチカと明滅を繰り返す街灯が一つだけ。街灯はあまり電灯としての役割は果たせておらず墓地の雰囲気をより一層気味の悪いものへと演出しているだけだけど、月の方が眩しく照ってくれているお陰である程度は不自由なく視界が利いている。
その中で僕は彼女の姿を探す。あの緋色の浴衣を纏った少女を見付けようと首を巡らせて。
──からん。
石畳にぶつかる軽い木の音に、ばっと勢いよく振り返った。
「うん、良かった。ちゃんと来てくれて」
視線を向けた先で、彼女は墓石の一つに腰を預けるようにして立っていた。
墓地で墓石に座るなんて行為は故人に失礼だと非難されるものだろう。けれど彼女の場合だけは話が違う。彼女なら、そのお墓にだけは、何をする権利だって持っている。
何故なら。彼女が腰かけている、その墓碑は──。
「ねえ。私の名前、そろそろ分かった?」
そっと、囁くように彼女が言った。自分が出した謎は解けたのかと訊いてくる。まるでこれが最後だとでも言わんばかりに、とても静かな声音で問いかける。
もしも、ここで首を振ればどうなるんだろうと思った。まだ気付いていない振りをすれば、これまでの当たり前が続くんだろうか。彼女は困りながらも四つ目のヒントをくれて、また次は二ヶ月後のハロウィンに会うんだろうか。
そんな妄想を、戯れ言を、あって欲しいと願う期待を、僕は纏めて頭の隅へと追いやった。
「うん、やっと分かった。かなり時間がかかっちゃったけどね」
僕の独り善がりな願望を全部無視して頷いた。そうして僕は、彼女の纏う謎を取り払う。
「二年前、この近くで事故があったらしいんだ。歩道橋の鉄柵が壊れて、歩行者が落ちてしまったっていう転落事故」
老朽化していたのが整備されずに放置され、錆びて脆くなったところに誰かが手を掛けてしまったことがトドメとなったのだろう。少し体重を乗せただけで耐えきれない程に朽ちていた柵は、それだけで簡単に壊れてしまったのだ。
その日は盆祭りとはまた違う祭りが催されていたらしく、件の歩道橋もかなりの人数が利用していたらしい。その中で起きた事故。その場に居合わせた人数は多かったにも関わらず、幸いにも被害を被った人々は少なかったという。それはほとんど奇跡と呼べるもので、一介の地方で起きた事故だったにも関わらず連日ニュースに取りざたされていた。現場を目撃した人々や助かった人々へのインタビューや、老朽化を看過していた自治体や整備会社への非難は多くの人々の関心を集めていた。
そして勿論、助かった人々が大多数を占める中で、唯一犠牲になった少女への追悼も。
そして、その少女の名前こそが──
「紫波優姫。これが君の名前だよね」
「うん、大正解。それが私の名前で、君が考えてる通りが私の正体」
僕が示した回答を、もう居ない筈の少女の名前を、彼女はその通りだと受け入れた。やっと真相に行き着けたことを喜びながら、ついに真相に行き着いてしまったことを悲しみながら。彼女は正反対の感情を混ぜた顔で自分の座っている墓石を眺める。『紫波優姫』と、刻まれているその文字になぞるように指を這わせている。
「死んだら魂はあの世へ行って、そこで地上を忘れて生活するの。唯一お盆の日にだけは生きてた頃の故郷に帰って懐かしんで、四日間の帰省を済ませたら満足して戻っていく。けど私の場合、たぶん死んだ時期がマズかったのかな。死んでから一週間と少し経っただけの、自分が死んだってことを自覚して、一番受け入れられないって時にお盆でまた此処に帰ってきた。それで久し振りに家族とか友達とかを見てたらさ、つい思っちゃったんだよね。もっと此処に居たい、あの世になんて戻りたくない、って」
本当にバカなことだった、と。彼女は自分自身を嘲笑するように頬を歪めた。
大人しく戻っておけば良かったのに、と。死人は死人らしく、在るべき処に還るべきだったのにと。いつだって先に立たない後悔を後になって嘆いている。
「それでさ、頼んじゃったの。それこそ一生のお願いってやつ。私はどうなっても良いから、もう一年だけ居させてくださいーって。頼み込んですがり付いて、みっともなく泣きじゃくってさ。それで何とか叶えてもらったんだけど。その後、どうなったと思う?」
彼女が言葉通りの神頼みで勝ち取った一年の猶予。その間の出来事を僕は知らない。時期から考えれば僕が彼女と出会った日こそがその一年の最終日で、その間に彼女が何を見て何を感じてきたのかを知る術なんて僕には無い。
「……いや、分からない」
予想を立てるくらいはできるけど、それを口にすることはできなかった。今のこの空気を不正解で台無しにしてしまうなんてできなくて、確証もない事柄は全部捨てて首を振る。だからと言って続きを促すこともできないで、声は喉に詰まって曖昧なままに言葉が切れた。
「どうにもならなかったよ。何も変わらないし何もできないまま、辛い四日間が辛い一年間に変わっただけだった」
そんな僕の態度は気にも留めず、彼女は自分から話の続きを語っていった。決定的に間違えたまま取り返しの付かなくなった彼女の物語を、まるで喜劇にでもしたいみたいな口ぶりで語り聞かせる。
「普通の人に死んだ人の魂なんて見えないから。よっぽど霊感が強いか強い縁でもなければダメみたい。だから私が会いたかった人たちには私のことは見えなくて、話すことも触れることもできなかった。そんなの、もっと早くに気付けていても良かったのにね。それで私の一年間はおしまい。もう二度とこっちに帰れないことを条件にした一年は、意味もなく終わっちゃいましたとさ」
最後は暗くなりすぎた空気を気遣ってか、少し茶化したような口調で締め括る。鼻の詰まって喉につっかえたような声で、口調だけは無理に明るく取り繕う。それがむしろ彼女が感じてきた苦しみを際立たせていることには、きっと彼女自身は気付いてはいない。
その話を聞き終えて、僕には何も言うことはできなかった。彼女の苦難は僕が想像できる範囲を越えていて、きっとまだ一度も死んだことのない僕がとやかく言って良いことでもないだろう。だから僕は彼女に何と言葉をかければ良いのか分からなくて。
「でも、最後の日。キミが私に話しかけてくれた」
けれど、彼女の話はまだ終わってはいなかった。
「何処に行っても誰と会っても一人ぼっちだった私に、キミだけは私を見て私に声をかけてくれたんだよ。もうほんっとうに、奇跡だと思っちゃった。これは運命なんだって、きっと私はこの為にこの一年を使ったんだって、本気で思った。それでね、私は決めたの。もう少しだけ、あとほんの少しだけ、この人と一緒にいようって。そうしたらきっと満足できるだろうから。満足して、あの世に戻れるんだって」
それはきっと、本当に無茶なことだったんだろう。一年だけと定められていた期限から逸脱して、更に重ねてしまった時間の重み。それが彼女にのし掛かってきた時、どうなってしまうのかは予想すらもつけられない。元からこの世には戻ってこれないという約束だったのだ。それ以上の罰がどのようなものなのかは、考えることすらおぞましい。
「……それで。この一年はどうだった?」
すぅはぁと深呼吸して気持ちを落ち着けてから、僕は彼女にそう訊いた。無為に消えた一年の更に先。果てに何が待ち受けているのか分からない時間を、彼女は何を感じて過ごしたのだろう。僕と共にいた一年が彼女に苦しみを上乗せするだけのものにはならなかったかと、恐怖を抱きながらも問わないではいられなかった。
そうして戦々恐々と口を開いた僕へと、彼女は僕とは正反対のとびきりの笑顔で以て答えていた。
「それはもう、すっごく楽しかった! この選択をして良かったって、会う度に思い直してたくらいだもん!」
そう、彼女は最大級の賛辞を送ってくれた。
その答えに心の底から安堵する。あの日々が僕にとってだけでなく、彼女にとっても輝かしいものであってくれたことを嬉しく思う。織り上げられてきた緊迫の糸が切れ、はらはらとほどけていくように脱力した。
「あ、でも一つだけ分かんないことがあってさ」
不意に、彼女が思い出したようにとある疑問を差し挟んだ。諸々の根本。この一年間にまつわる一番最初の疑問点を、最後になって形にする。
「何でキミには私のことが見えたんだろ? 別に霊感が強いって訳でもないよね。他の人たちは見えてないみたいだし」
何気に怖いことを言う彼女に一瞬顔がひきつりそうになったのを寸前で堪えて、ああそれならと、背筋を伝う冷たい汗に耐えながら口を開く。
「たぶん縁の方。強い縁があっても見えるってさっきも言ってたし」
「縁? 縁って言っても…………去年の今日が初対面だったよね?」
悩むように目を閉じて首を傾げて、少しの黙考の末にやはり思い出せなかったのか、彼女はおずおずと確かめるように訊いてきた。
無論その認識は間違いない。昔に既に出会っていたとか、生き別れの兄妹だとか、そんなドラマチックな展開も待ってはいない。事実は小説よりも奇なれども、現実とは得てしてつまらないものなのだ。
それは本当に単純な話だ。全部分かればそんなことかと笑ってしまうようなこと。彼女が気付いていないのは、単に彼女が僕のことを知らなさすぎるが故なのだ。
「僕の名前。司馬佑樹。ほら、読み方が一緒なんだよ」
紫波優姫。
司馬佑樹。
しばゆうき。
偶然にも僕と彼女は、読みが同じ同姓同名だったのだ。
「……………………え、ホントに? それが理由?」
彼女は呆然と、信じられないと言いたげな目で僕を見てくる。同姓同名というかなり珍しいケースに対する驚きと、そんなことが理由で僕に彼女のことが見えていたのだという事実に対する驚きと。二重の驚きに頭が処理落ちを起こしている。
友人よりも、家族よりも深い縁。そんなのは関係性で探す限りは有り得ない。けれど、名前は。名前だけは、その例外に当たるらしい。
『名前はこの世で最も短い呪』という言葉もあるそうだし。名前というのが霊的に特別な意味を持っていて、それによって僕にだけ彼女が見えていても不思議ではない。
その辺りの考えもかいつまんで説明すると、彼女は「名前が」だとか「しばゆうき」だとか呟いて。それから堰を切ったように笑い出した。
「あっはははは! それ、ホントに只の偶然じゃん! 運命とかじゃ全然ないし、ちょっとはしゃいじゃってた私が馬鹿みたいじゃん!」
笑って笑って、面白味のない現実を何よりも愉快だと心の底から笑い転げる。そのあまりの爆笑ぶりに僕もまた釣られて声を上げて笑った。二人して、薄暗い墓地でお腹を抱えて笑い続ける。それはとても楽しい時間で、僕と彼女が素晴らしいと感じたこの一年間の、まるで集大成のようだった。
だからきっと、そのせいだろう。こんな時間がもっと続けば良いのにと、そんな有り得ないことを思ってしまったのは。
「君は、本当にいなくなるんだよね」
「うん。元から私は、ここには居ない存在なんだから」
「もう二度と、会えないんだよね」
「うん。莫迦な私が、莫迦なことを望んじゃったから」
お互いに、とっくに決まっている先の無い関係を確かめ合う。諦め悪く足掻くのではなく、それを間違いないものとして受け入れる為に、声に出して頷き合う。
「この一年間、私なんかの為に無駄にさせて、ごめんね」
不意に、彼女が僕の目を見てそう言った。顔は笑っていながらも瞳には真摯な謝意を込めて、僕の時間を居もしない死人の為に使わせてしまったと謝ってくる。
「無駄、なんかじゃない」
だけどそれだけは許せない。謝られたら、まるで彼女が悪いみたいじゃないか。まるで僕が、それを無為だったと吐き捨てているみたいじゃないか。僕だって楽しかったんだ。僕だって素晴らしいと感じていたんだ。僕だって彼女と居られて良かったと、一年前のあの日に偶然隣に居合わせただけの少女に話しかけて良かったと、会う度に思い返していたんだから。
だからそれを謝ることだけは、許さない。
「無駄にしない。君のことだって絶対に忘れない。忘れないで、いつまでだって覚えたままで生きていく」
そう、生きていくんだ。死者にとらわれることなく。後を追うことも、そのせいで後に続く全てを台無しにしてしまうことも、決してせずに。
彼女がいたこの一年は。ずっとという訳ではなかったけれど、彼女と過ごした一年は。無駄にはしない。無かったことにもしない。輝かしい思い出として、尊いものの一つとして、積み重ねていく。
「キミはさ。本当に、いつも私が欲しい言葉をくれるんだね」
彼女は胸に手を置いて、込み上げてくるものを堪えるように目を伏せた。この場に涙は相応しくない。涙は未練を残してしまうから。もっと此処に残っていたいという感情の結晶を、流してしまう訳にはいかないから。
だから。次に顔を上げた時、彼女は笑顔を浮かべていた。赤い目尻も震える唇もそのままで、けれど何よりも眩しい笑みを湛えていた。
「ありがとう、一緒に色んなことをしてくれて」
彼女が告げる。謝意の言葉を。今度は謝罪ではなく感謝として。
「ありがとう、色んな話をしてくれて」
ふと、彼女と過ごした日々の記憶が甦ってきた。一緒に星や花を見上げた記憶。お祭り騒ぎの賑わいの中を二人で一緒に歩いた記憶。そして、喧騒から離れた川原で柳の木の下にしゃがみこんでいた彼女と出会った記憶。
一年と言っても、実際の日数としてはほんの七日程度。三百六十五日と比べるととても短い時間でしかないけれど、この一年間は間違いなく彼女と共にあったのだ。
「ありがとう、私に──」
どうしてだろう。それが最後だと分かってしまった。その言葉を言えば彼女はもう戻ってこないと、感じてしまった。
遠くの方からひゅるるるる、と間の抜けたような音が聞こえてくる。いつの間にか花火の上がる時間になっていたらしい。そんなことにも気付かないで僕たちは言葉を交わしていて、そんなことにも気を留めないで僕は彼女の言葉を待っている。
回想がもたらすのは別れへの悲しみ。もっと此処に居て欲しいという感情だ。だけどそれを形にすることはあってはならない。他でもない彼女がそれに耐えているのだから、僕がその決意を貶めるなんてことは絶対にあってはならないのだ。
だから僕も笑い返す。彼女に負けないくらい晴れやかに、別れが苦にならないように全力で、笑顔の形に表情筋を動かした。
そして彼女は躊躇わないように。止まってしまわないように、一番綺麗な形で幕を下ろせるように。笑ったまま、今にも崩れそうになりながらも笑ったまま、本当の本当に最後となる感謝を紡ぎ出した。
「私に、恋を教えてくれて、ありがとう」
ぱあんと、音を立てて花火が夜空を染め上げた。色とりどりの火花を散らし、黒いキャンバスを背景に大輪の花を咲かせている。
眩い光。祭り会場からは離れたこの場所にまで届く光が、僕たちを照らし上げる。そして──
「──────あ」
彼女の姿は、いつの間にか消えていた。一瞬たりとも目は離していなかったのに。最期の瞬間まで見落とさないよう、ずっと見詰めていた筈だったのに。花火の光に目が眩んだ瞬間か、それとも瞬きをしてしまった一刹那か。そこには初めから何も無かったかのように、彼女の姿は消失していた。
聞こえてくるのは遠くからの花火の音。音源からは離れているが故に隔たって感じられるその音は、余計に周囲の静けさを際立たせる。まだ耳に残っている笑い声はもうこの世界の何処にも存在しないのだと、知りたくもない事実を知らしめてくる。
胸が苦しい。息ができない。心臓はゆっくりと落ち着いているくせに嫌に力強い拍動で血液を全身へと送り出している。
「……帰ろう」
誰にともなくポツリと呟く。発した声は静謐な空気を微かに震わせ空しく消える。
最後にちらと彼女が腰かけていた墓石を見てから、空を見上げながら立ち去った。上を向いていれば涙が溢れることはない。そこに彼女は居ないと分かっていても、彼女の墓の前では泣きたくはなかったから。
その日。家に帰って部屋に戻れば、一年間咲き続けていた彼岸花はまるで本来の時間を取り戻したかのように、未練も残さず一輪ひっそりと枯れていた。




