(五)
下男に案内された晁家の客間は、清潔ではあるがどこか殺風景で、まるで大木から削り出したままであるかのようにささくれだった大きな卓が置かれているところなどは、家主の豪快さに通ずるものがある。
これまでの人生で家というものがなかった劉唐にとっては、たとえ女子供の気配のない、飾り気のない部屋であっても、誰かの家というのは多少の居心地の悪さと不思議な温かさを感じる場所だった。
だが、名を聞いて憧れ続けた好漢に出会い、持ち込んだ計略を聞き入れられ、喜ばしいばかりのはずなのに、どこか気は晴れず胸がくすぶっている。
所在なく部屋の中を歩き回っているうちに、ふと心中に浮かび上がってきたのは、朝方去って行った衙門の犬の顔だった。
「あの野郎、いったいなんで俺をあんな目に遭わせやがった。晁蓋兄貴のとりなしで助かったが、雷横とかいうあの男、まんまと兄貴から金をせしめたばかりか、俺を一晩じゅう豚肉のように吊り下げやがるたぁ、我慢ならねえ……」
ろくに人の話も聞かずに無実の者を捕まえるなど、あの男も他の役人の例にもれず、民を苦しめるくそ野郎に違いない。
「まだそう遠くへは行ってねえはずだな……よし、ちょいと棒を持って追っかけて、叩きのめしてやるか。銀子を取り返して兄貴に返してやりゃあ、きっとこの腹立ちもまぎれてせいせいするに違いない」
下男たちに引き留められないよう、体を丸めて窓から外に出た劉唐は、屋敷の裏手の稽古場から朴刀を一本拝借すると、屋敷の塀を軽々乗り越え、大股に南の方へと雷横の一行を追いかけ始めた。
昨夜は泥酔していたので気が付かなかったが、日の光が降り注ぐ朝の東渓村は、なんとも穏やかな景色であった。
抜けるような青空の向こうに遠く山々がかすみ、その向こうで輝く朝日が畑仕事に精を出す人々を優しく照らし、子供たちの笑い声がどこかから響いてくる。
江湖を渡り歩き、血なまぐさい光景ばかり見てきた劉唐には、この平和な景色を作り上げたのが晁蓋の功績であることがよく分かった。
それなのに、義の人である晁蓋に、あんなけしからん犬が近づくのは我慢がならない――執念深く五、六里ほど追いかけていくと、ようやく雷横の一行がのたりのたりと街道を歩いていく後ろ姿が見えてきた。
「おい、そこのくそ都頭、待ちやがれ!」
紅の稲光のごとく怒鳴り込んだ劉唐の気迫に、間の抜けた顔で雷横が振り返る。
「なっ……お、お前、何しに来たんだよ?」
「何しに来た、だあ? そんなこともわからねえのか、お偉い衙門の都頭さまは。さっさと叔父貴からぶんどった銀子十両をこっちに返しな。そうすれば見逃してやる」
「……はは、何を言うのかと思えば」
明らかに失笑した雷横が、憐れむようにこちらを見つめてくるのが腹立たしい。
「これはお前の叔父上が俺によこしてくれたもの。どうしてお前なんかが首を突っ込むんだ? それ以前に、叔父上の温情がなければ、お前なんか、今頃あの世に行っていたかもしれないんだぞ。それを、偶然とは言え叔父上の屋敷に立ち寄った俺たちが感謝されこそすれ、金を返せと脅されるなんてな」
「黙れ! 泥棒でもなんでもない無実の人間を一晩じゅう豚みてえに吊り下げやがったうえに、叔父貴からまんまと金を巻き上げやがった分際で! どうしても返さねえってんなら、この辺をてめえの血で染めてやってもいいんだぜ」
声を凄ませ、朴刀を構えて睨みつける。都頭などとのたまうくせに、ぺろりとしたどこか呑気な顔をぶらさげた男も、これにはさすがに細い眉をしかめて口尻をひくつかせた。
「おいおい、面倒臭い上に恥知らずな男だなあ……わかった、お前がそこまで無礼を働くというなら、こちらも承知はしないからな」
「ハッ、民をいじめる薄汚い野郎に何を言われたって、痛くもかゆくもねえよ」
「頭のおかしいけだものめ、こんな考えなしのことをしでかすお前は、いずれ晁蓋殿まで巻き添えにして不幸にするに違いない。今ここで成敗してやる!」
「ふざけるな!」
二人が刀を振り上げたのは、ほぼ同時だった。
鷹が獲物を狙って急降下するが如く一直線に突っ込む劉唐の、その横なぎに走らせた切っ先を、鳳凰のごとき鷹揚さで身をひるがえして躱した雷横があっけらかんと笑う。
「はは、勢いだけじゃないか」
「うるせえんだ、よ!」
「っ……!」
その腑抜け顔をかち割らんと繰り出した頭突きはわずかに目標を逸れ、予想外の攻撃に一瞬戸惑ったもののすぐに体勢を立て直した雷横が軽やかに飛び上がり、たたらを踏んだ劉唐の背後に舞い降りる。
気配で位置を察した劉唐がぐるりと宙返りながら突き出した刀をはじき返した雷横が、その重さにかかとを沈めながら応戦すること十数合、早々と二人の間から怒りが消え、代わりに湧き上がってきたのは、手練れの男と刃を交える愉快さだった。
「まぬけ面のくせに、やるじゃねえか」
「そっちこそ、けだものかと思えばなかなか筋があるね」
「はは、ほざけ」
体勢を整え、今度は真正面からぶつかり合えば、刃がこすれ合う耳障りな音が絶え間なく響き渡るのに耐えられなくなった鳥たちが、一斉に空へと飛び上がる。
それをふと目で追った劉唐に余所見などさせぬと言うかの如く、再び跳躍した雷横が振り下ろした切っ先は、劉唐の緋色の髪を数本道連れにしただけで、乾いた地面に叩きつけられる。
舞い上がる砂ぼこりの中を突っ切り、目にもとまらぬ我流の太刀筋で続けざまに刃を振れば、翻弄されているはずの雷横が瞳を細めて笑う。
「ら、雷都頭をお助けしろ!」
なかなか決さぬ勝負に焦れた衙門の犬たちが、めいめい武器を手にしたその時、
「待たれよ!」
傍らの生垣の背後から、凛とした声が響き渡った。




