第97話 正しいから負ける
【豊臣家滅亡まで 残り5,424日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り85日】
三日後、佐和山から、島左近が来た。
荷車を一台、引いていた。荷台には、箱が七つ、積まれていた。
「主より、拾様へ。お預けいたしたく」
左近は、五十を過ぎた、背の高い男だった。顔に古い傷が二つあった。三成が、自分の禄の半分を割いて召し抱えたという。主人に内緒で、謝罪文の下書きを送ってきた家老だった。
箱を一つずつ、開けていった。
米の帳面。蔵の書き留め。諸大名への書状の控え。朝鮮で死んだ者の名簿。帰れなかった荷運びの者の記録。十二人の遺族の、仮名で書き取った紙。
誰にも褒められなかった仕事が、七つの箱を、埋めていた。
「……これ、ぜんぶ」
「豊臣家の、政の書き留めにございます。主が、奉行に就いてからの、すべて」
「どうして、もっていかないの」
「主が申すには」
左近は、少しだけ、困ったように笑った。
「拙者が死んでも、仕事が残るように、と」
嫌な言葉だった。
左近は、懐から、一通の書状を出した。三成の字だった。
《拾様
長政殿は、西に勝ちの形なし、と申されたと伺いました。
長政殿らしい。
そして、事実にございます。
されど、内府殿は、正しき手続きを経ずに、天下を動かしておられる。勝てぬやもしれぬからと言うて、誤りを誤りと呼ぶのをやめれば、この国に、誤りを誤りと呼ぶ者が、おらぬようになりまする。
正しいことと、勝てることは、違いまする。
正しいことと、人が従うことも、違いまする。
それも、学びました。
学んだうえで、最後まで、正しくあろうと、思い定め申した。
石田治部少輔》
俺は、書状を膝に置いた。
前の世の俺なら、怒っていた。営業力が足りない。柔軟さがない。経営者の目がない。そう評価していた。
だが、今は分かる。三成が正しさを捨てたら、この家には、書き残す者がいなくなる。不正を不正と呼ぶ者がいなくなる。勝った者の都合で、過ぎたことが書き換えられる。
「……さこん。ふでを、かして」
左近が、自分の矢立を差し出した。
俺は、祐筆を通さず、自分の手で書いた。六つの子供の字は、ひどく曲がっていた。
《みつなり
しなないで
めいれい》
左近が、それを読んだ。
「……拾様。主は、きっと、こう申しまする」
「なんて」
「難しき御命にございます、と」
「じゃあ、どりょく、して」
「努力目標にございますか、と」
「ひったつ」
左近が、吹き出した。声を立てて笑った。笑って、それから、顔を背けた。
「……必ず、お伝えいたしまする」
左近は、俺の書いた紙を、丁寧に四つに折って、懐にしまった。
「さこんは、どうして、みつなりに、つかえてるの」
前にも、同じことを聞いた気がした。三成が、答えていた。
左近は、少し考えた。
「殿が、危なっかしいゆえにございます」
三成が言った通りの答えだった。
「……それだけ?」
「それだけでは、ございませぬが」
左近は、七つの箱を見た。
「拙者は、戦しか知らぬ男でございました。数を数えるのも、字を書くのも、得手ではございませぬ。殿は、拙者に、帳面の付け方を、一から教えてくださった。三年かかり申した。三年、一度も、怒鳴られませなんだ」
「……いちども?」
「殿は、人を怒鳴るのではなく、間違いを指さされるお方でございます。指をさされた方は、怒鳴られた方より痛い。されど、殿は、拙者が覚えるまで、何度でも、同じところを指さしてくださった」
左近は、箱の一つを、手のひらで撫でた。
「殿は、正しい。正しすぎて、人に嫌われる。……嫌われる殿の横に、誰か一人くらい、おらねばなりますまい」
七つの箱の前で、俺は、しばらく何も言えなかった。
「……さこん。みつなりは、さわやまで、なにを、してる」
左近は、少し考えてから、笑った。
「雑談の、稽古を」
「……いまも?」
「朝餉のたびに、家来を一人ずつ呼んで、天気の話をなさいまする。雲の量は、割で申されますが、近頃は、割のあとに、一言付け足されるようになり申した」
「なんて」
「……本日は、雲が三割。されど、昼からは晴れよう、と」
左近は、目を細めた。
「晴れるかどうか、殿には分からぬはずでございます。分からぬことを、言うようになられた。……それが、雑談というものなのでございましょう」
俺は、しばらく、何も言えなかった。
「さこん。みつなりを、まもって」
左近は、急に、真顔になった。
「拙者の役目は、殿より先に、死ぬことにございます」
「……それ、まもるって、いわない」
「戦の世では、そう申しまする」
「いわない」
左近は、困ったように、頭を掻いた。
「……では、殿より、一日でも長く、生きることにいたしまする。殿の書き物を、誰かが読み上げねばなりますまい」
左近が帰ったあと、三成の書状を、もう一度読んだ。最後の行の下に、小さな字で、もう一行、書き足してあった。さっきは、気づかなかった。
《この帳面には、誰が何を決め、誰が異を唱え、何が行われなかったかを、記しておりまする。拙者に不利なことも、すべて》
自分に不利なことも。
三成にとって、それは、当たり前のことなのだ。書き残すというのは、そういうものだと、三成は思っている。
正しかった。正しすぎた。
だから、この男は、負ける。
人は、正しさだけでは動かない。勝った者は、自分に都合のいい正しさを作る。三成には、それができない。
その夜、数字が開いた。
【人物評価:石田三成】
政務 100
人望 18
相談できる度合い 17 → 21
書き残して継ぐ力 100
自分を守る気持ち 9
生き延びようとする気持ち 46
最後の数字が、前より、上がっていた。少しだけ、ほっとした。
そして、次の数字が出た。
【石田三成】
負ける見込み 78%
処刑される見込み 61%
俺は、数字に、手を伸ばした。
消えなかった。変えることも、できなかった。
正しいから、負ける。その理不尽を、俺は、まだ、変えられていなかった。
その夜、七つの箱の前で、帳面を一冊だけ、読んだ。
朝鮮の役の兵糧の帳面だった。一枚目から、細かい字が、びっしりと並んでいた。俵の数。船の名。着いた日。
途中に、一か所だけ、三成の字で、朱の書き込みがあった。
《福島隊 五十俵 拙者の禄より 帳外》
帳面の外、と書いてあった。正則が言っていた五十俵だった。三成は、帳面に載せなかった米を、自分の帳面の余白にだけ、書き残していたのだ。
誰にも見せるつもりのない、書き残しだった。朱の色が、少しだけ、薄かった。
俺は、その朱の一行を、指でなぞった。正則は、これを知っている。三成は、正則が知っていることを、知らない。
二人とも、礼を言わないまま、戦場で向かい合う。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.1% → 97.2%
左近は、帰り際に、荷車の上から、振り返った。
「拾様。殿は、拾様の書状を、毎回、三度、読まれまする」
「……さんど」
「一度目は、中身を。二度目は、字の癖を。三度目は、何も読まずに、ただ、眺めておられまする」
七つの箱は、その夜のうちに、本丸の納戸にしまわれた。清正の石と、三成の干し飯の袋と、同じ部屋に。
眠れなかった。起き出して、納戸まで行った。弥七が、灯明を持ってついてきた。
箱の一つを開けた。一冊だけ、表紙に何も書いていない、薄い帳面があった。めくった。
一行目に、三成の字で、こう書いてあった。
《慶長三年八月十八日 太閤殿下御逝去 伏見》
その次の行。
《同日 拾様 御無事》
三成は、秀吉が死んだ日、最初に、それを書いたのだ。天下の一大事の、その次の行に。六つにもならない子供が、無事であることを。




