第96話 長政の答え
【豊臣家滅亡まで 残り5,427日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り88日】
黒田長政は、呼ぶ前に来た。
正則とは違った。声を上げず、廊下を鳴らさず、襖を蹴らず。静かに、広間に入ってきた。
「お呼びと、承りました」
「……まだ、よんでない」
「いずれ、お呼びになるかと」
怖かった。理に適う判断、百。こういうところで働く数字だった。
長政も、家康の行列について東へ向かうはずだった。大坂の屋敷の片付けのために、一日だけ遅れて発つのだという。
「ながまさは、いえやすどのに、つくんだね」
「はい」
即答だった。清正も正則も、答える前に苦しんだ。長政には、それがないように見えた。
「どうして」
「内府殿が、勝つからにございます」
もっと、即答だった。
「みつなりに、かちめは、ない?」
「勝ち目は、ございまする」
長政は言った。
「されど、勝ちの形が、ございませぬ」
俺は、顔を上げた。
「……どういう、いみ」
「内府殿を退けたのち、誰が天下を治めまするか」
三成ではない。毛利輝元か。宇喜多秀家か。上杉景勝か。あるいは、幼い秀頼か。
三成の屋敷で、白紙を前に筆を止めた三成の顔が、浮かんだ。
「西が勝てば、戦は、終わりませぬ」
長政は、淡々と続けた。
「ひがしが、かったら、おわる?」
「内府殿なら、終わらせられまする」
「……とよとみけを、ほろぼして?」
一瞬、長政の目が、止まった。
「それを防ぐために、拙者は、内府殿の側へ、参るのでございます」
思っていた答えと、違った。
「とくがわに、はいって。とよとみけを、まもる?」
「外から叫んでも、勝った者には、届きませぬ」
長政は、膝を正した。
「勝った者の座の近くにおってこそ、負けた者を、残せまする」
歴史の書物は、勝ち負けを、忠義か裏切りかに書き換える。だが、生き残った家族は、誰が、何を、どう話し合ったかを、知っている。
「……おとうさまの、おしえ?」
長政の顔が、わずかに変わった。
「父は、勝つ側へ行け、とは申しておりませぬ」
「じゃあ」
「負けたあとを、考えよ、と」
【人物評価:黒田長政】
理に適う判断 100
忠義 74
家来を守る 97
家族を守る 99
負けたあとの設計 100
新しい項目が、増えていた。
俺は、長政を誤解していた。筋が通っているから、人を切れるのではない。人を残したいから、勝ち負けの熱から、距離を取っているのだ。
「……ながまさ。ひとつ、きいて、いい?」
「何なりと」
「どうして、まけた、ひとの、かぞくを、そんなに、まもるの」
長政は、少しだけ、黙った。
「……拙者は、殺されるはずだった子供に、ございます」
「……え」
「十の頃でございます。父が、敵の城に捕らわれ、戻らなかった。信長公は、父が寝返ったと思われ、人質として預けておった拙者を、殺せと命じられた」
長政の声は、少しも揺れていなかった。
「竹中半兵衛殿が、拙者を、こっそり、御自分の国に匿ってくださった。信長公には、殺しました、と偽って。……父が一年後に、足の立たぬ体で城から救い出され、寝返っておらなんだと分かったときには、半兵衛殿は、もう、病で亡くなっておられた」
長政は、膝の上の手を、組み直した。
「負けた者の子は、殺される。それが、この世の決まりでござる。拙者は、その決まりの、隙間で、生き残った。……一人の方が、決まりに背いてくださったゆえ」
俺は、何も言えなかった。
「決まりに背く者を、待っておっては、間に合いませぬ。ゆえに、決まりの方を、変えとうございます」
「みつなりを、どうする」
「命乞いを、いたしまする」
「いえやすどのが、ことわったら」
「罰の範囲を、狭めまする」
「それも、ことわられたら」
「家族を、残しまする」
「それも」
「一人でも多く、新しい奉公先を、探しまする」
長政の答えには、英雄の言葉がなかった。勝つ。討つ。義を示す。そういう言葉は、一つもなかった。ただ、次の朝を迎える者の数を、増やす。そのための答えだった。
「拾様。一つ、お願いが、ございまする」
「なに」
「豊臣家の名で、敵方となった大名の妻子を、敵とせぬ、とお出しくださいませ」
「……いま?」
「戦が始まってからでは、遅うございます」
俺は、三成を守りたい。家康を止めたい。関ヶ原を起こしたくない。だが、長政は、もう、その先を見ていた。
「戦を止める努力をしながら、戦が起きたときに死ぬ者を、減らす」
「まけを、みとめるみたいで、みんな、いやがる」
「だから、今しか、できませぬ」
正しかった。正しかったから、腹が立った。少しだけ、三成の気持ちが分かった。
その日のうちに、祐筆を呼んだ。
《戦に加わった大名の妻子、家来の妻子、奉公人を、戦の咎によって罰してはならぬ》
効き目は、薄いかもしれない。家康が従う保証もない。三成が従う保証もない。だが、豊臣家が、誰を敵としないかを、先に示すことはできた。
長政は、書き付けを受け取ると、深く頭を下げた。
「これで、救える者が、増えまする」
「みつなりは、すくえる?」
長政は、すぐには答えなかった。
「……分かりませぬ」
理に適う判断、百の男が、分からないと言った。
「されど、分からぬゆえ、備えまする」
長政は、そう言って、立ち上がりかけた。そして、立ち上がる途中で、動きを止めた。
「拾様。……もう一つだけ」
「うん」
「拙者の母と、妻が、大坂の屋敷に残りまする」
長政の声が、ほんの少しだけ、揺れた。
長政の妻は、この春に嫁いできたばかりだった。家康の養女。そして母は、黒田官兵衛の妻。長政が東へ向かえば、二人は、大坂に取り残される。もし、三成が挙兵すれば。大坂にいる諸大名の妻子は、真っ先に、人質として押さえられる。
「……わかった」
「何も、お願いは、いたしませぬ」
長政は、首を横に振った。
「今の御触れを、お出しいただいた。それで、十分にございます」
十分ではないことを、長政は分かっていた。俺も、分かっていた。
長政は、立ち上がる前に、一度だけ、広間の天井を見上げた。
「……この城の天井は、高うございますな」
「うん」
「太閤殿下は、高い天井がお好きでございました。見上げると、自分が小さく見える。小さく見えれば、大きく笑える、と」
長政は、少しだけ、口元を緩めた。
「父は、低い天井が好きでございます。見上げる暇があれば、足元を見よ、と」
長政が出ていったあと、俺は、長政が座っていた座布団を、しばらく見ていた。
座布団の横の畳に、爪の跡が、四つ、残っていた。長政が、話している間、ずっと、畳を掴んでいたのだ。表情は、一度も変わらなかったのに。
俺は、その爪の跡を、指でなぞった。四つとも、深かった。
【人物評価:黒田長政】
徳川方に付く見込み 96%
豊臣家の滅びを許す気持ち 4%
負けた家の家族を救う動き 98%
長政は、豊臣家の味方ではない。三成の味方でもない。家康の忠臣ですらない。
生き残る者の、味方だった。そして、その中に、自分の母と妻が、含まれていた。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.3% → 97.1%
その夜、片桐且元を呼んだ。
「かつもと。くろだの、やしきの、まわりの、みちを、しらべて」
「黒田殿の屋敷の、でございますか」
「うん。こめだわらを、はこぶ、くるまが、とおれる、みち」
且元は、首をかしげた。
「米俵を、なぜ」
「……なんとなく」
且元は、それ以上、聞かなかった。黙って紙を受け取り、道の名を、一つずつ、声に出さずに唇だけで読んでいた。天満。川沿い。蔵の裏。心労耐性、十八の男は、聞かない方がいいことを、よく知っていた。




