第92話 母の読み
【豊臣家滅亡まで 残り5,431日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り92日】
淀殿の部屋には、大きな国の絵図が広げてあった。
いつからあったのだろう。俺の部屋にある札の地図と違って、淀殿の絵図には、ほとんど何も書き込まれていなかった。城の印だけが、いくつか、墨で丸く囲まれていた。
淀殿は、家康の返書の写しを読み終えると、静かに畳んだ。
怒鳴らなかった。家康を罵らなかった。三成を止めろとも言わなかった。
それが、一番、怖かった。
「……家康は、戻って参ります」
「うえすぎどのが、じょうらく、したら」
「上洛しても、しなくても」
淀殿は、絵図の上に、指を置いた。伏見。大坂。佐和山。岐阜。清洲。江戸。会津。墨の丸を、一つずつ、なぞっていった。
「家康が東へ行けば、治部は動きます」
「うん」
「治部が動けば、家康は、豊臣家を守るため、と申して、西へ戻ります」
「うん」
「治部が動かなければ、家康は上杉を従えて、もっと大きくなって、戻ります」
「うん」
「どちらでも」
淀殿は、指を止めた。
「家康が、勝ちます」
答えられなかった。俺の読みと、同じだった。
「……じゃあ、どうすれば」
「何もしなければ、豊臣家は、名だけになりまする」
淀殿は、三成と同じことを言った。
「うごけば、いくさに、なる」
「どちらを、選びまする」
淀殿は、俺を見た。
「それを、秀頼が、決めねばなりませぬ」
六つの子供に、国じゅうの戦か、静かな力の移り変わりかを、選ばせるな。そう言いたかった。だが、俺は、六つではない。前の世で、傾いた会社を立て直した。それでも、答えられなかった。
「……ははうえなら、どうする」
淀殿は、すぐには答えなかった。灯明の火が、絵図の上で揺れた。
「わたくしなら、治部を、止めませぬ」
「いくさに、なる」
「はい」
「とよとみけが、まけるかも、しれない」
「はい」
「それでも?」
「何もせず、家が消えるのを、待つよりは」
淀殿の声は、静かだった。
この人は、何度も、家が滅びるのを見てきた。小谷。北ノ庄。そして、秀吉が死んだあとの、この大坂。
何もしなかったから、滅びたのではない。戦ったから、滅びたのでもない。だが、淀殿の記憶の中では、動かなかった者は、選ぶことさえできなくなった。
「ははうえは、いえやすどのが、かならず、とよとみけを、ほろぼすと、おもってる?」
「必ずでは、ございませぬ」
意外だった。
「家康が、豊臣家を残す方が得だと思えば、残しましょう」
「じゃあ、のこすほうが、とくだと、おもわせれば」
「今の豊臣家に、何の得が、ございまする」
威光。財。大坂。人。だが、家康から見れば、それは同時に、恐れでもあった。
「秀頼」
「うん」
「家康が恐れておるのは、治部では、ございませぬ」
「じゃあ」
「あなたです」
胸が、冷えた。
「……拾、むっつ」
「だからです」
六つ。これから育つ。死なない限り、時が味方をする。
「治部が負けても、あなたは残りまする。清正が家康に付いても、あなたへの忠義は残りまする。正則も、長政も、毛利も、島津も。豊臣の名を、すっかり捨てることは、できませぬ」
家康が、本当に恐れているもの。三成の軍ではない。豊臣という、いつでも人がもう一度集まれる旗だった。
「……せきがはらを、とめても、もんだいは、のこる」
「止めなくても、残りまする」
「じゃあ」
「秀頼。戦を止めることと、豊臣家を残すことを、同じものと、お考えになっては、なりませぬ」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は、関ヶ原を止めることを、目的にしていた。だが、関ヶ原は、熱のようなものかもしれない。病は、別にある。豊臣家の、中心が二つあること。秀吉に頼りきっていたこと。決める者がいないこと。家康に実務が集まっていること。三成と清正たちが割れていること。
熱を下げても、病は治らない。
「ははうえ」
「何です」
「拾は、みつなりを、とめる」
淀殿の目が、鋭くなった。
「そのうえで、いえやすどのにも、とまって、もらう」
「できまするか」
「わからない。でも、ふたりに、おなじ、じょうけんを、だす」
「どのような」
「とよとみけの、なまえを、じぶんの、へいを、あつめるために、つかわないこと」
三成にも。家康にも。
淀殿は、俺を見ていた。
「……どちらも、従いますまい」
「うん。それでも、したがわなかった、ことを、かきのこす」
書き残す。正しさの証。先の話し合いの材料。今夜、戦を止められなくても、誰が、何を拒んだかを、残す。
淀殿は、小さく、息を吐いた。
「……あなたは、殿下とは、違いますね」
「がっかり、した?」
「いいえ」
淀殿は、少しだけ、笑った。
「殿下なら、二人とも呼びつけて、怒鳴って、終わらせました」
「べんりだね」
「便利でございました」
「まねできない」
「存じております」
悲しい話なのに、少し笑った。
淀殿は、絵図の上の、大坂城の墨の丸を、指でそっと撫でた。
「……わたくしは、この城が、三度目です」
「さんどめ」
「城の中で、外の戦を待つのが。小谷。北ノ庄。……三度目は、待つだけには、いたしませぬ」
淀殿は、しばらく、絵図の上の、北ノ庄の城の印を見ていた。
「……北ノ庄が落ちる前の晩、母は、わたくしたち三人の髪を、一人ずつ、梳いてくれました」
初めて聞く話だった。
「わたくしの髪を梳きながら、母は、茶々、と一度だけ呼びました。それだけでした。何も、申しませなんだ」
淀殿は、自分の髪に、そっと手をやった。
「何か、申してくれればよかったのにと、ずっと思うておりました。……今なら、分かりまする。何を申しても、足りなかったのでしょう」
灯明の火が、揺れた。
「秀頼。わたくしは、母とは違う道を選びとうございます。……何も申さずに、髪を梳くだけの母には、なりとうございませぬ」
淀殿は、そう言って、俺の髪に、ほんの一瞬だけ、手を置いた。
「……ははうえ」
「何です」
「拾、ははうえの、こで、よかった」
淀殿は、答えなかった。扇を開いて、顔を隠した。扇の端が、少しだけ、震えていた。
その直後、廊下を、使いの者が駆けてきた。
「佐和山より、急ぎの知らせにございます!」
「なに」
「治部少輔殿、諸方へ、使いを、出されました!」
一日と一夜、待つと言った。だが、支度を止めるとは、言っていなかった。
【石田三成 挙兵の支度】
進み具合 31%
【関ヶ原級全国内戦 発生見込み】
94% → 97%
【関ヶ原級全国内戦阻止 成功率】
6% → 3%
「……ははうえ」
「何です」
「みつなりは、ことばの、きまりが、きびしすぎる」
淀殿は、真顔で言った。
「今さらでございます」
その通りだった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.4% → 97.8%
俺は、絵図の上の、佐和山の墨の丸を見ていた。三成は、今、あそこにはいない。大坂の屋敷で、明日の朝を待っている。使いだけが、あの丸から、四方に散っていく。
絵図の上に、見えない線が、一本ずつ、伸びていく気がした。毛利へ。宇喜多へ。上杉へ。島津へ。線が増えるたびに、戦が、一歩ずつ、近づいてくる。
淀殿が、立ち上がった。
「秀頼。治部に会いに、行きなさい」
「……いいの」
「使いより、書状より、あなたが行く方が、早うございます」
淀殿は、侍女に、駕籠の支度を命じた。夜明け前に、城を出る。三成の大坂屋敷は、城から近い。夜が明ければ、三成は、佐和山へ発ってしまう。
「ははうえは、とめないの」
「止めても、行くでしょう」
淀殿は、俺の襟を直した。夜中なのに。
「行って、直接、お話しなさい」
それだけだった。襟は、もう、どこも曲がっていなかったのに。




