第90話 一夜ください
【豊臣家滅亡まで 残り5,432日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り93日】
春が過ぎ、梅雨が明けた。
その三月の間に、いくつものことが起きた。
会津の上杉は、上洛の求めを、断った。直江兼続が、家康の咎めに、長い返書を送った。上杉に謀反の心なし。咎めるなら、讒言した者を先に調べよ。筋は通っていた。通りすぎていた。家康の家臣たちは、それを読んで、顔色を変えたという。
前田のまつが、江戸へ下った。人質として。前田家が、徳川と戦わないという、しるしとして。発つ前に、まつは、三成に、干し飯の新しい袋を届けさせた。三成は、それを、古い空の袋と一緒に、懐の一番奥にしまった。
そして、大老衆の評議は、一度も開かれなかった。
【大老衆という仕組みが、働かなくなるまで】
残り0日
数字の通りだった。
家康は、会津を討つと決めた。諸大名に、兵を出せと命じた。清正にも、正則にも、長政にも。
城の中も、変わった。
家康の家臣が、大坂の屋敷を引き払い始めた。荷車が、毎日、東へ出ていった。代わりに、見慣れない西国の侍が、城下に増えた。どこの家の者か、名乗らない者も多かった。
台所の女たちの噂話も、変わった。干し柿の話も、味噌の話も、しなくなった。どこの家の殿様が、どちらに付くのか。そればかりを、声を潜めて話していた。
弥七が、ある朝、青い顔で言った。
「拾様。町で、米の値が、倍になっております」
「……いつから」
「昨日から」
米は、戦の匂いを、人より先に嗅ぐ。長政が言った通りだった。
俺は、長政と作った逃げる決まりの紙を、文箱から出した。火事の逃げ先。大水の高台。病人の小屋。そして、表には書かなかった四つ目。
使う日が、来てほしくなかった。
誰も、戦を始めるとは、言っていなかった。だが、戦の支度だけが、先に始まっていた。
俺は、清正の石垣の話を思い出していた。水の道を誤れば、雨で壊れる。豊臣家の水の道は、とうに、誤っていた。
佐和山の三成から、書状が届いたのは、その頃だった。
《内府殿の会津御出陣につき、急ぎ、御目通り願いたく候》
御目通り。相談。知らせ。そのはずだった。
だが、書状の端に、三成の癖ではない、折り目があった。一度開いて、閉じて、また開いた跡だった。
迷ったのだ。三成が、書状を出すのを。
それだけで、嫌な予感がした。
俺は、その折り目を、指でなぞった。三回、開いて、閉じた跡。
三成は、この書状を、何日、机の上に置いていたのだろう。出すか、出さないか。出せば、秀頼を巻き込む。出さなければ、秀頼に黙って動くことになる。
三成は、黙って動く方を、選ばなかった。それだけは、救いだった。
相談しやすさ、十七。一年前は、九だった。九のままの三成なら、たぶん、この書状は来なかった。何も言わずに、佐和山で兵を挙げていた。
「とおして」
その日の夕方、三成は、城の小座敷に入ってきた。
いつも通りだった。着物は整っていた。書き物も整っていた。声も、落ち着いていた。
数字だけが、落ち着いていなかった。
【人物評価:石田三成】
決めねばならぬ重圧 94
独りだという思い 88
相談できる度合い 17
先に動こうとする心 81
全部、高かった。高すぎた。
「内府殿は、上杉討伐のため、諸大名を率いて、東へ向かわれまする」
「しってる」
「これは、好機にございます」
来た。
俺は、手元の湯呑みを置いた。
「なんの」
三成は、一つ、息を吸った。
「豊臣の政を、本来の形へ、戻す好機にございます」
本来の形。便利な言葉だった。誰にとっての本来かで、中身が変わる。
「いえやすどのが、おおさかを、はなれたあいだに、なにを、するの」
「内府殿の専横を、諸大名へ、示しまする」
三成は、書き物を広げた。
勝手な縁組み。領地の処分への口出し。諸大名の訴えの独り占め。奉行を通さない命。上杉への咎め。会津征伐の大動員。
一つ一つ、正確だった。本当に、家康は、豊臣の政の権を、少しずつ、自分の手に集めていた。
「罪状を諸大名に示し、大坂への参集を求めまする」
「それは、けっき」
「違いまする」
三成は、すぐに言った。
「政を、正しい形に戻すことにございます」
前の世でも、戦を始める者は、戦を始めるとは言わなかった。秩序を取り戻す。自分を守る。正常に戻す。正しさを取り戻す。言葉が、刀を包む。
「へいを、あつめる?」
「要るならば」
「いえやすどのが、もどったら」
「その前に、諸大名の心を、明らかにいたしまする」
「したがわない、だいみょうは」
三成は、少し、黙った。
「……豊臣家への忠節を、問い直すことに、なりまする」
敵と味方を分ける、という意味だった。
俺は、三成が持ってきた紙を見た。大名の名。兵の数。領地。縁組み。関ヶ原の前の、関ヶ原の一覧だった。
「みつなり。かてる?」
三成の目が、わずかに揺れた。
「……勝てるか、ではございませぬ」
「じゃあ」
「今、動かねば、二度と、動けなくなりまする」
それが、三成の本当の心だった。
家康は、日ごとに強くなる。三成は、日ごとに独りになる。今なら、まだ、豊臣の名で人を集められる。一年後には、集められないかもしれない。三成にとって、今日動くことは、一番いい手ではない。最後の手だった。
「拾の、なまえを、つかうの」
三成は、頭を下げた。
「拾様の御名なくして、豊臣のためとは、申せませぬ」
「拾が、ゆるさなかったら」
長い沈黙だった。
「……それでも」
三成が言った。
「内府殿を止めねば、豊臣家は、名だけになりまする」
つまり、俺の命より、豊臣家を守るという自分の判断を、先にする。
忠臣だった。だから、危なかった。
「こんやは、へいを、うごかさないで」
「一夜で、何が変わりまする」
「なにも、かわらないかも、しれない」
「ならば」
「それでも。ひとばん、ちょうだい」
利家に教わった。仲が悪くても、話せる道を残せ。
三成は、目を閉じた。
長いこと、閉じていた。
その間に、三成の手が、無意識に、懐に伸びた。干し飯の袋の、あるあたりだった。新しい袋と、空の袋。二つの袋を、着物の上から、指で確かめるように押さえていた。
「……一日と、一夜だけに、ございます」
「うん」
「明後日の朝、御返答を」
「やくそく、する」
三成は、下がっていった。
襖が閉まったすぐあとに、数字が開いた。
【石田三成 挙兵まで】
二十四刻
【拾による引き延ばし】
二十二刻
減っていた。
「……いちにちと、ひとばん、くれたんじゃ、ないの」
声に出た。廊下の小姓が、驚いて振り返った。弥七だった。
「拾様?」
「なんでも、ない」
一日と一夜でできること。家康に書状を出す。清正に聞く。正則に聞く。淀殿に相談する。奉行衆を集める。大老衆を集める。
だが、距離がある。時がない。そして、誰も、同じ先を見ていない。
【関ヶ原級全国内戦 発生見込み】
86% → 94%
【関ヶ原級全国内戦阻止 成功率】
11% → 6%
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.0% → 97.2%
「……ひとばんで、あがりすぎ」
歴史は、ゆっくり動くように見える。本当は、誰か一人が、もう待てないと決めた夜に、一気に動く。
その夜、弥七が、灯明の油を足しに来た。いつもより、多めに足していった。
「……どうして、おおめ」
「今夜は、お休みにならぬと思いましたので」
弥七は、そう言って、座布団を一枚、俺の後ろに置いていった。眠くなったら、すぐに横になれるように。
眠るつもりは、なかった。座布団は、朝まで、誰にも使われないまま、俺の後ろに、ずっと置かれていた。
封印スキルの空欄が、灯明の火の向こうで、かすかに瞬いた気がした。




