第89話 誰も太閤ではない
【豊臣家滅亡まで 残り5,525日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り186日】
晩春、新しい評議の決まりを、試す日が来た。
議題は、西国の二つの大名の争いだった。境の山林をめぐって、揉めていた。材木。炭。水の源。寺の権。村の入会地。ただの土地争いではなかった。放っておけば、兵が動く。
家康は、すぐに裁くべきだと言った。
三成は、古い検地帳と朱印状を確かめるべきだと言った。
清正は、現地を見ずに決めるな、と言った。
正則は、両方の当主を呼んで、酒を飲ませろ、と言った。
最後だけ、決まりではなかった。だが、時には効く。
「太閤殿下ならば――」
誰かが、言いかけた。
全員が、三成を見た。三成は、黙って、紙を一枚、出した。
言いかけた者が、口を閉じた。
決まりが、根付き始めていた。
俺は、四つの案を、紙に並べさせた。
家康の案。すぐに裁く。良いところ、早い。悪いところ、誤れば不満が残る。
三成の案。書き物を確かめる。良いところ、根拠がはっきりする。悪いところ、時がかかる。
清正の案。現地を見る。良いところ、本当のことが分かる。悪いところ、見ている間にぶつかるかもしれない。
正則の案。酒宴。良いところ、本音が出る。悪いところ、殴り合いになる。
正則が、最後の行を、じっと見た。
「……なぜ、わしの案だけ、悪いところが、やけに詳しいのじゃ」
「これまでの、じっせき」
言い返せなかったらしい。
「くみあわせる」
すぐに、仮の境を決める。兵が入ることを禁じる。三十日のうちに、書き物を確かめ、現地を見る。両家の代表の話を聞く。そして、最後に裁く。正則の酒宴は、話を聞いたあと、望む者だけ。
「望む者だけ、とは」
正則は不満そうだった。だが、承知した。
ここまでは、よかった。
問題は、誰が最後に裁くか、だった。
「大老の筆頭として、わしが」
家康が言った。
「奉行衆が」
三成が言った。
「拾様が」
清正が言った。
「わし以外なら、誰でも」
正則が言った。最後だけ、逃げた。
俺は、全員を見た。
誰も、秀吉ではなかった。
家康は、国じゅうを見られる。だが、豊臣家の当主ではない。三成は、決まりと書き物を扱える。だが、大名たちの上に立つ主ではない。清正は、現場を知っている。だが、よその家を裁く権はない。俺は、正しい名を持っている。だが、六つで、現地も決まりも知らない。
一人では、足りない。
ならば、一人を秀吉の代わりにするのではない。足りないところを、組み合わせる。
「さいごの、さばきは、拾の、なまえで、だす」
清正が、頷いた。三成が、少し眉を寄せた。家康は、顔を変えなかった。
「でも。あんを、つくるのは、みつなり。げんちを、みるのは、きよまさが、えらんだ、ひと。だいみょうどうしの、ちょうせいは、いえやすどの。拾は、みっつの、あんの、ちがいと、はんたいの、いけんを、よんで、さばく」
家康が、聞いた。
「拾様が、誤られた場合は」
「さいしんを、みとめる」
「主の裁きを、覆すと」
「あたらしい、あかしが、でたとき。てつづきが、まちがってたとき。おおきな、えいきょうを、みおとしてたとき。この、みっつだけ」
三成の目が、少し輝いた。やり直しの条件。この男は、決まりを見ると、元気になる。
正則が、小声で清正に言った。
「治部は、面倒な決まりが増えるほど、顔色が良うなるな」
「病ではないか」
「なおらない」
俺が答えた。三成は、聞こえている顔をした。だが、言い返さなかった。少し、大人になっていた。
評議のあと、家康が残った。二人きりではない。本多正信がいた。三成もいた。正式な話の形だった。
「拾様は、御自身で全部を決めようとは、なさらぬのですな」
「できない」
「太閤殿下は、なさいました」
「とうさまは、とうさま。拾は、とうさまじゃ、ない」
初めて、家康の前で、はっきり言った。
家康は、俺を見た。その目が、少し変わった。子供を見る目ではなかった。敵を見る目でもなかった。測る目だった。
「では、何に、なられる」
答えは、まだなかった。だが、前とは違った。
「だれも、とうさまの、かわりに、ならなくて、いい、くにを、つくる」
三成が、息を止めた。正信が、わずかに眉を上げた。
家康は、長いこと、黙っていた。
「……それは、国と、呼べまするかな」
「ひとりが、いないと、うごかない、ものよりは。くにに、ちかいと、おもう」
家康の口元が、ほんの少し動いた。笑ったのか、呆れたのか、分からなかった。
「難しいことを、仰せになりますな」
「いえやすどのも、おなじことを、かんがえてる?」
家康の顔が、止まった。
徳川家。家康も、年を取る。秀忠に渡さなければならない。家康自身が、替えのきかない人になっている。豊臣家だけの話ではなかった。家を興した人。英雄。天下人。大きな人のあとに、家を残す話だった。
家康は、答えなかった。
「失礼、いたしまする」
そう言って、立ち上がった。去り際に、一度だけ、振り返った。
「拾様。誰も、太閤殿下ではない。そのとおりにござる」
「うん」
「されど、皆、太閤殿下が、要ったのでござる」
「……うん」
「要ったものを、要らぬものにするとき。人は、裏切られたと、思いまする」
家康は、それだけ言って、去っていった。
重い言葉だった。決まりを変えることは、筋が通っていれば進むものではない。皆、秀吉が要ったのだ。命を出す者。褒美をくれる者。責めを引き受けてくれる者。夢を見せてくれる者。その役を分ければ、仕事は速くなる。だが、喪ったさみしさは、消えない。
俺は、評議の書き留めに、一行、足させた。
《太閤殿下の役目を、人と決まりに分ける》
三成が、横から見た。
「役目を、分けるのでございますか」
「うん」
「誰へ」
「まだ、ぜんぶは、わからない」
国を治めるのは、家康。書き物と決まりは、三成。現場は、清正。人の心は、正則。正しい名は、俺。危うさを嗅ぎ取るのは、淀殿。
一人では、秀吉に届かない。だが、一人で届く必要は、ない。
【豊臣家の政の働き】
決める力 E → D
相談が豊臣家に届く割合 46% → 51%
小さい。だが、上がった。
【関ヶ原級全国内戦 発生見込み】
88% → 86%
【豊臣家が残る見込み】
15% → 17%
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.1% → 96.0%
それでも、俺は、白紙だった「きめる けんの いちらん」に、初めて、線を一本、引いた。
誰も、秀吉ではない。だから、皆で、秀吉が背負っていたものを、持つ。それが、秀吉が死んだあとに、豊臣家が初めて始める政だった。
評議のあと、正則が、俺の袖を引いた。
「拾様。先ほどの、役目の分け方でございますが」
「うん」
「人の心は、わし、と申されましたな」
「うん」
正則は、少し照れたように、頭を掻いた。
「……太閤殿下の役目を、わしが一つ、預かるのでございますな」
「うん。まさのりが、いちばん、にあう」
正則は、何も言わなかった。黙って、大きく頷いて、廊下を歩いていった。いつもより、背中が、少しだけ伸びていた。
その夕方、堺の商人の代表が、慌てた様子で、城に上がってきた。
「若様。豊後の浦に、異国の大船が、流れ着いたとの噂にございます。乗っておったのは、南蛮でも、見たことのない国の者どもで」
南蛮人ではない。紅毛の者たち。
この先を、俺は知っている。その船に乗っていた男は、やがて家康のもとに呼ばれ、家康の相談役になる。海の向こうの話を、家康に教える。
家康は、また一つ、人を拾う。
「……みつなり。その、ふねの、はなし。かきとめて」
「承知。……何の国の船か、不明、と」
三成は、不明と書いた。
その「不明」が、やがて、家康の海の地図を書き換えることになる。




