第9話 最後の重石
【豊臣家滅亡まで 残り6,100日】
秀吉が死んで、三日が過ぎた。
それでも城の外では、太閤殿下はまだ生きていることになっていた。御静養中。御容体は安定。政務は大老と奉行が滞りなく執っている。そう伝えられている。
城の中では香が絶えず焚かれ、廊下を走る者はいなくなった。泣く者は声を殺し、使者はいつもより短い言葉で報告した。死を隠すという仕事にも、多くの人手が要る。
死者には、もう意思がない。それでも、死者の情報にはまだ権力がある。
「拾様。前田利家様がお越しにございます」
来た。俺は立ち上がろうとして、小袖の裾を踏んだ。淀殿が素早く腕を取る。
「走ってはなりませぬ」
「はしってません」
「今、走ろうとなさいました」
「あるこうとしただけです」
「勢いがありました」
五歳児には、歩行速度にまで監査が入るらしい。
対面の間で、前田利家が深く頭を下げていた。
「拾様におかれましては、御機嫌麗しゅう」
声はまだ太い。姿勢も崩れていない。だが、頬が落ちている。目の下に影がある。顔を上げるとき、右手が一瞬、畳についた。
【人物評価:前田利家】
統率 94 | 戦術 86 | 政務実務 82 | 兵站財務 81
交渉外交 91 | 人望 97 | 学習適応 86 | 制度理解 72
固定スキル:仲裁/旧友ネットワーク/武断抑止/面子調整
重大リスク:本人の健康状態が調停機能の期限
「寿命」ではなく、「調停機能の期限」。この男が死ぬこと自体より、この男にしかできない仕事が残っていることが問題なのだ。
光秀だったころ、あの世界の利家には、北ノ庄で一度会ったきりだった。柴田殿の配下の、照れくさそうな男。若い頃、書付を読み違えて兵を無駄に歩かせたことがある、それゆえ絵にする、と言っていた。《絵は、読み違え申さぬ》。
だが、この世界の利家が知っている明智光秀は、本能寺で主君を討ち、山崎で死んだ男だ。俺の知る利家と、目の前の利家は、同じ顔をした別人なのかもしれない。
過去を覚えているのは、俺だけだ。それが、少しだけ寂しかった。
利家は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「殿下のことは、治部から聞き申した」
声が、わずかに掠れた。
「藤吉郎とは、清洲の長屋で隣同士でございましてな。あやつは口ばかり達者で、わしは槍ばかり達者で。まつとねね殿が、井戸端でわしらの悪口を言い合っておったものです」
利家は、遠くを見るような目をした。
「あれが天下人になるとは、あのころは誰も思わなんだ。わしも思わなんだ。……先に逝きおって」
最後の一言だけが、小さかった。
五大老の顔ではなかった。古い友を亡くした、一人の老人の顔だった。
俺は、利家の膝に手を置いた。
「としいえ。ながく、いきてください」
利家が顔を上げた。淀殿の指が、俺の肩へそっと触れる。五歳児が病人に言うには、あまりに直接的だった。
だが利家は怒らなかった。笑いもしなかった。
「それは、難しい御命令にございますな」
「おいしゃに、みてもらってください。それから、やすんでください」
利家の口元が少し緩んだ。
「殿下も、似たようなことを申されました」
「ちちうえが?」
「何度も」
「やすみました?」
利家は間を置いた。
「一度も」
駄目ではないか。他人には休めと言いながら、自分は最後まで働く。創業者にありがちだ。いや、俺も笑えない。人は、自分の過労には鈍い。
利家は淀殿へ向き直った。
「御方様。拾様は、どこまで御存じにございます。わしの身体のことを」
「顔を見て、疲れていると申しただけです」
利家は、もう一度俺を見た。
「拾様には、疲れた顔と、死の近い顔の違いがお分かりになりますかな」
鋭い。三成のように理屈を積む人ではない。だが、人を見る。長く戦場と家中を生きた者の勘だった。
俺は視線を下げた。
「ちちうえが、しにました。としいえも、しぬ?」
淀殿が小さく息を呑んだ。利家はすぐには答えなかった。子供に嘘をつくか。重臣として安心させるか。病人として本当のことを言うか。
「人は、皆、死にまする。いつかは、仏のみが御存じにございましょう」
正しい答えだった。
「されど、まだ、わしには仕事がございます」
「なにをするのですか」
「殿下が残された者たちを、同じ座敷へ座らせることにございます」
それだけ、と言えばそれだけだ。だが今の豊臣政権では、日本で一番難しい仕事だった。家康と三成。奉行衆と武断派。全員がそれぞれの正しさを持っている。仲良くさせる必要はない。同じ部屋で話を続けさせればいい。決裂を一日遅らせれば、その一日で別の道を作れることがある。
「医師は、わしに薬を飲ませます。まつは、酒を減らせと申します。家臣どもは、休めと言うた次の日には仕事を持ってまいります」
「それは、だめです」
「どれがでございます」
「ぜんぶです」
利家が、声を立てて笑った。その直後、小さく咳き込んで、袖で口を覆った。
俺は反射的に、その袖を見た。血は見えない。現代医学の知識があっても、診察も検査もできない五歳児に病名など分かるはずがない。分かるのは一つだけ。健康ではない。
「大事ございませぬ」
まただ。大丈夫。問題ない。人は、希望を事実のように話す。
「だいじ、あります。おいしゃにみてもらう。やすむ。それから、きろくする。なにをたべたか。ねたか。せきがでたか。くすりをのんだか」
利家が黙った。淀殿も俺を見る。具体的すぎた。
「……わすれないように」
慌てて付け足す。子供の発想に見える。たぶん。淀殿が助け船を出した。
「玄朔をお呼びいたしましょう」
利家が露骨に嫌な顔をした。
「曲直瀬殿は、薬を出すより先に説教をなさる」
「きいてください」
「拾様も一緒にお聞きになりますかな」
「ぼくじゃなくて、としいえが、ききます」
「これは、逃げられませぬな」
利家が立ち上がろうとした。また一瞬、手が畳についた。若いころには槍を握り、秀吉と喧嘩をし、仲間の肩を叩いてきた大きな手が、わずかに震えていた。
「としいえ。できるだけ、ながく、いきてください」
利家は、深く頭を下げた。
「できる限り」
政治家の答えではなかった。病人としての答えだった。
少しして、俺は淀殿の手を離れ、縁側へ出た。庭の向こうの渡り廊下を、利家が側近に支えられて歩いていくのが見えた。
途中で、利家は足を止めた。奥の方角――秀吉の亡骸が安置されている部屋の方を向き、しばらく動かなかった。それから、支えの手を払い、一人で背筋を伸ばして、深く頭を下げた。
長い礼だった。側近たちも、声をかけられずに立ち尽くしていた。
清洲の長屋で隣同士だった二人。口の達者な男と、槍の達者な男。片方は天下人になって先に逝き、片方はその後始末を背負って、病んだ身体で立っている。
利家が頭を上げ、また側近の肩を借りて歩き出すまで、俺はずっと見ていた。
利家が退出したあと、視界に表示が現れた。
【前田利家 対応目標】
健康状態の把握/休養の確保/服薬・食事・睡眠の記録
【組織側 必須対応】
利家不在でも機能する調停手続の整備
大老間協議ルールの明文化
緊急時の意思決定代行
利家を救え。だが、利家に頼るな。
以前なら矛盾だと思っただろう。今は違う。人を大切にすることと、その人がいなくても動く組織を作ることは、矛盾しない。
問題は、どう作るかだった。利家の人望を、そのまま紙に移すことはできない。家康に遠慮しろと頼んでも、三成に柔らかく話せと言っても足りない。人の性格を変えるのではなく、違う性格のままでも衝突を処理できる順番を作る必要がある。
そのためには、まず一人ずつ、何を守りたいのかを知らなければならない。
「ははうえ。みんなが、なにをまもりたいか、しりたいです。いえやすも、みつなりも、きよまさも」
「それを知って、どうするのです」
「けんかするまえに、わかるように、します」
淀殿はしばらく俺を見ていた。
「拾は、忙しゅうございますね」
「はい」
思わず即答した。淀殿が笑い、俺も笑った。
だが、笑っていられる時間は短い。秀吉の死を秘している間にも、各大名は情報を集めている。利家の身体も、永遠にはもたない。
小さな手を開いた。この手だけでは、何も支えられない。だからこそ、人と仕組みに分けて持たせる。三つの人生で学んだことを、今度こそ忘れない。
【本日の豊臣家滅亡確率】
99.2% → 98.9%
〇・三。利家に、長生きしてくださいと言っただけで。……いや、「ぜんぶだめです」と言ったからかもしれない。
翌日、秀吉亡きあと最初の評定が開かれる。家康も来る。三成も来る。そして、朝から酒を飲んだ福島正則も来る。




