第10話 日本最高の調停者
【豊臣家滅亡まで 残り6,099日】
会議を成立させるのは、正論ではなかった。
利家の診察の前日、秀吉亡きあとの最初の評定が開かれた。死をいつ公表するか。朝鮮にいる軍勢を、誰の命令で、どう引き揚げさせるか。豊臣政権が最初に越えなければならない山である。
俺は淀殿の隣に座った。発言権はない。だが全員が、まず俺に頭を下げる。発言権はないのに、存在そのものが議題だった。居心地が悪い。
徳川家康。前田利家。毛利輝元。宇喜多秀家。上杉景勝の名代。五奉行。そして福島正則ら、国内に残っていた有力な武将たち。
加藤清正の姿はなかった。まだ海の向こう、朝鮮の城で戦っている。この広間にいる多くの者の息子や兄弟や家臣も、同じ海の向こうにいた。
全員が礼儀正しかった。そして全員が、互いを信用していなかった。
「殿下御他界のことは、在陣の諸将が撤収に着手するまで、厳に秘すべきと存じます」
三成が口を開いた。正しい。漏れれば撤退は混乱し、追撃を招く。
「異議はござらぬ」
正則が言った。開始早々の合意である。少し安心した。
「ただし、撤退の指図を治部少輔一人が出すことには、異議がある」
安心した俺が間違いだった。
「拙者一人ではございませぬ。奉行衆の連署にて」
「名が並んでも、書くのはおぬしであろう」
「書状は、誰かが書かねば届きませぬ」
「その言い方が気に入らぬ」
「どの言い方であれば、中身が変わるのです」
奉行の浅野長政が、低い声で割って入った。
「船と道を、誰が決める。兵站の報せは遅いぞ」
「遅いのではございませぬ。数字が届かぬのです」
「数字が届くまで、兵に腹を空かせて待てと申すか」
三成の正論。長政の現実。正則の感情。混ぜると爆発する。
家康は何も言わなかった。膝に手を置き、少し目を細めている。この会議が壊れるのを、止める気がない。壊れたあとで、自分がまとめればよいと考えているように見えた。
利家が、咳をした。大きな咳ではない。だが、全員が黙った。
「治部。そなたが恐れておるのは、何じゃ」
三成は、質問の意味を測った。
「……殿下の御他界が敵方へ漏れ、撤収中の軍が討たれることにございます」
「兵が死ぬな」
「はい」
利家は長政を見た。
「弾正。そなたは」
長政は一瞬、言葉に詰まった。それから、絞り出すように言った。
「……倅の幸長が、蔚山におり申す。命令が現場を知らぬまま変わり、置き去りにされることを、恐れております」
広間が静まった。奉行としてではなく、父親として口にした言葉だった。
「兵が死ぬな」
「……はい」
利家は正則を見た。
「左衛門大夫は」
「治部が、また勝手に決めることにござる」
「それで、何が起こる」
正則は口を閉じた。利家は待った。急かさなかった。正則の怒りが言葉に変わるまで、じっと待った。
「……兵が、自分らは捨てられたと思う。殿下が死んだら、わしらはもう要らぬのかと」
最後の一言で、正則の声がわずかに揺れた。この男も、尾張の桶屋の倅から秀吉に拾われた一人だった。
「兵が離れるな」
「……はい」
利家は、ゆっくりと三人を見回した。
「三人とも、兵を生きて帰したいのじゃな」
誰も返事をしなかった。反対しようがない。
「撤退の大枠は奉行衆が書く。道と順は現地の諸将が定める。変更があれば、理由をつけて、全員へ同じ書状を送る。これでどうじゃ」
「実行可能にございます」
「現地の判断を止めぬなら」
「同じ書状が届くなら、よい」
一つ目の議題が終わった。
利家は誰が正しいかを決めていない。誰の面子も潰していない。三人が同じものを恐れていることを言葉にし、権限を分け、情報を同時に渡すと決めただけだ。教科書にも図表にも頼らず、三人の顔と声だけでそれをやってのけた。
二つ目の議題、死の公表時期では、全員の恐れがばらばらだった。利家は、誰の意見もまとめなかった。
「一刻、休もう」
「まだ結論が」
三成が顔を上げる。
「腹の減った者に、よい結論は出せぬ。治部、今朝は何を食うた」
三成が黙る。
「食うておらぬな。左衛門大夫は」
「酒を少々」
朝から飲んだのか。
「酒は禁止じゃ」
「少々にござる」
「少々でも酒じゃ。黙れ」
正則が黙った。この会議で初めて、誰も言い返さなかった。
膳が運ばれた。粥、味噌、干した魚、漬物。利家は三成と正則の間に座り、長政を向かいに置いた。家康は少し離れた上座で、静かに箸を動かしている。
俺にも小さな椀が出た。淀殿が息を吹きかけて冷ましてくれる。国家存亡の評定の真ん中で、母に粥を吹いてもらう。威厳が育たない。
「熱いものは、熱いうちに召し上がるべきにございます」
三成が言った。
「拾様はお幼いのだ。舌を焼くよりよかろう」
正則が返す。
「冷ましすぎれば、味が落ちます」
「食い物に理屈を持ち込むな」
「持ち込んでおるのは、そちらでは」
「二人とも、黙って食え」
利家が止めた。俺の粥一杯で議論が始まる。この二人は、たぶん天気でも対立できる。
だが、利家は二人を叱ったあと、ぽつりと言った。
「おぬしら、長浜の台所で、ねね殿に同じ釜の飯を食わせてもろうた仲であろう」
三成と正則が、同時に箸を止めた。
「市松は、いつも一番に飯をかき込んで、二杯目を取りに走った。佐吉は、いつも最後に食うて、皆の椀を数えておった。虎之助は、その間に佐吉の漬物を取った」
正則が、ぶっと吹き出した。三成は顔をしかめたが、耳の先が赤かった。
「……漬物の件は、今でも許しておりませぬ」
「虎之助に言え。帰ってきたらな」
利家はそれ以上、政治の話をしなかった。正則の子の話、長政の倅の話、三成の母の体調の話、家康が近ごろ自分で薬を調合している話。ただの雑談に見えた。
だが、膳が下げられたとき、広間の空気は変わっていた。互いが役職ではなく、家族と腹と身体を持つ人間に戻っていた。
二つ目の議題は、朝鮮の主力の撤収が始まってから公表することで、まとまった。日が傾くころ、最初の合意書に全員の名が並んだ。完璧ではない。曖昧な箇所も多い。だが、席を立つ者はいなかった。
「さすが、又左殿。皆を、よくおまとめになる」
家康が利家に頭を下げた。穏やかな笑顔だった。褒めている。同時に、利家がいなければまとまらないと、全員に知らせている。
「内府殿も、よう黙っておられた」
「年寄りは、若い者の話を聞くものにございます」
「わしが死ねば、そなたも黙ってはおれまい」
広間の空気が凍った。家康の笑顔が、少しだけ薄くなった。
「又左殿は、長生きなされませ」
「そのつもりじゃ」
二人は笑った。誰も笑えなかった。
退出する大名たちの列の中で、家康が俺の前で足を止めた。
「拾君。粥は、うまく冷めましたかな」
「……はい」
家康は、少しだけ笑った。それから、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「わしも、父を早うに亡くしましてな。八つの年でした。そのころ、わしは尾張に人質として留め置かれておって、父の死に目には会えなんだ」
俺は、家康を見上げた。
「拾君は、お会いになれた。それは、よいことにございます」
穏やかな声だった。探る目ではなかった。少なくとも、そう見えた。
家康は一礼して去っていった。その背中を見ながら、俺は分からなくなった。今のは、情か。それとも、情を使った一手か。
たぶん、両方なのだ。人間は、どちらか一つだけで動くほど単純ではない。この人もまた、父を失い、家を失いかけ、人質として育った子供だった。待てる男になったのは、待つしかなかったからなのかもしれない。
全員が退出したあと、利家は立てなかった。側近が両側から支える。俺は駆け寄った。今度は裾を踏まなかった。成長である。
「としいえ。かいぎは、としいえが、いないと、できない?」
「今は」
「ずっと?」
「それでは、困りまする」
利家は、苦しそうに息を吐いた。
「拾様。わしを長く生かすことと、わしがおらずとも皆が話せるようにすることは、同じではございませぬ」
分かっている。それでも、今は利家が必要だ。
利家の背を見送ったあと、俺は三成を呼び、今日の合意書の横に、もう一枚紙を置かせた。
「だれが、きいた。だれが、まとめた。だれが、きめた。もめたら、どうした」
三成は少し考え、それから筆を取った。
「評議の手順を残すのでございますな」
「うん。としいえが、いなくても、できるように」
口にすると、胸が痛んだ。
三成は、しばらく筆を止めていた。やがて、紙の端に小さく書き足した。
――食を先にすること。
俺は、その一行を見て、少しだけ笑った。
【本日の豊臣家滅亡確率】
98.9% → 98.1%
これまでで一番大きな下げ幅だった。効いたのは、制度でも正論でもなく、粥だった。
翌朝、利家の屋敷に医師が六人集まった。意見は、七つ出た。




