第77話 退き道の帳面
【豊臣家滅亡まで 残り5,646日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り307日】
三日後、長政は、また来た。
今度は、分厚い帳面を抱えていた。
「なに、それ」
「退き道にございます」
帳面には、諸国の城と、街道と、川と、兵糧蔵と、渡し場と、寺と、逃げ込める村が、びっしりと書き込まれていた。戦になったら、どこへ逃げるか。どこで兵を解くか。どこに傷ついた者を預けるか。どの家の妻子が、どこにいるか。
三成が、帳面をめくった。速かった。一枚めくるごとに、目の色が深くなっていった。
「……何のために、お作りになった」
「戦を止められなんだときに、死ぬ者を、減らすためにございます」
「負けることを、前に置いておられる」
「勝つことも、負けることも、両方、前に置いておりまする」
「縁起が悪い」
清正が言った。今日は、清正も正則もいた。
正則が、横から帳面をのぞき込んだ。
「酒蔵まで書いてあるぞ」
「傷の手当てに使いまする」
長政が答えた。
「飲む分ではないのか」
「それも、少しは」
正則が、深く頷いた。納得するところではなかった。
「ながまさ。どうして、これを、おれに、みせるの」
「拾様が、戦を止めようとしておられるゆえ」
「とめられないと、おもってる?」
「止める努力と、止められなんだときの備えは、両立いたしまする」
筋が通っていた。どこまでも、筋が通っていた。
【人物評価:黒田長政】
理に適う判断 100
気持ちを合わせる力 42
損を早く切る判断 98
面子より実益 96
清正の眉が、動いた。数字は見えないはずだった。だが、空気で感じるらしい。
「お主」
正則が言った。
「負ける前から、負けたあとを、考えるのか」
「はい」
「腹が立つ」
「承知しておりまする」
「承知して、直さぬのか」
「直せば、家来が死にまする」
正則が、言葉を失った。
長政は、好かれようとしない。嫌われる理由を、分かっている。分かったうえで、変えない。三成に似ていた。だが、違った。三成は、正しさを説明する。長政は、相手が納得しなくても、選べる道を残しておく。
「この帳面を、豊臣家で預かりとうございます」
三成が言った。
「条件が、ございます」
「何でございましょう」
「戦の支度に、使わぬこと」
三成が、長政を見た。
「街道と蔵の書き物は、戦に使えまする」
「使えまする」
「だからこそ、条件を」
「守られる保証は」
「ございませぬ」
「では」
長政は、帳面を閉じた。
「お渡しいたしませぬ」
沈黙が落ちた。
三成は、預かる権を求めた。長政は、使い道を限ることを求めた。前の世なら、情報の取り扱い規程と呼ぶものだった。この世で、そんな話をしている。
「みるひとを、きめる」
二人が、俺を見た。
「みつなり。おれ。それと、げんさく」
「なぜ、医師が」
清正が聞いた。
曲直瀬玄朔。太閤の病を最後まで診た医師で、今は俺の脈も取っている。穏やかな顔の老人だった。
「にげる、ばしょと、けがにんを、はこぶのに、くすしの、はんだんが、いる」
「戦に使わせぬのは、いかにして」
長政が聞いた。
「みたひとを、かきのこす。だれが。いつ。なんのために、みたか」
三成の目が、光った。書き残せると聞くと、元気になる男だった。
「破った者は」
「つぎから、みられない」
長政が、少し考えた。
「拾様も、でございますか」
「うん。おれも、やぶったら、みない」
三成が、俺を見た。太閤の子。豊臣家の当主。六つ。その子が、自分に縛りをかけている。
「……拾様。本当に、お守りになれまするか」
「とめて」
「誰が」
「みつなりが」
三成が、黙った。
この城には、まだ、秀頼を止める役がなかった。家康には、本多忠勝がいる。本多正信がいる。止める者と、止まる形を作る者が。豊臣家には、秀頼が間違えたとき、それを口に出せる者が、正式にはいなかった。
「かりに、みつなりを、かきものの、ばんにんにする。おれが、まちがえたら、とめる」
清正が、嫌そうな顔をした。
「石田殿が、拾様を、止めるのでございますか」
「うん」
「止まりますか」
正則が聞いた。
「……がんばる」
「不安じゃ」
正直だった。
長政が、帳面を半分に分けた。
「試しに、一部を、お預けいたしまする」
全部ではなかった。だが、信用は、全部か無かではない。範囲を決める。長政の教えを、そのまま使った。
そのあと、長政は、大名の家を一つずつ説明した。
毛利。家中の考えが、割れている。上杉。徳川への用心が強い。宇喜多。秀家殿は豊臣への恩が深い。だが、家中が落ち着かない。島津。大坂の命より、国の事情を先にする。前田。利長殿は、母君と家を守らねばならぬ。小早川。秀秋殿は、立場が弱く、誰かに認められたがっている。
「ひとを、かずで、みてるの?」
長政は、首を横に振った。
「数で見られるところだけを、数で見ておりまする」
「みえないところは」
「怖がりまする」
意外な答えだった。
「分からぬものを、分かったことにする方が、危うございます」
俺の数字と、同じだった。数字は見える。だが、心の全部は見えない。
「……理に適うとは、何でございましょう」
三成が聞いた。
長政は、少し考えた。
「冷たいことでは、ございませぬ」
「では」
「誰に、どの痛みを負わせるか。先に、数えることにございます」
部屋が、静かになった。
「一人を救うために、百人を死なせることもある。百人を救うために、一人を見捨てることもある。どちらも、正しいとは申しませぬ。ただ、選ばぬことも、選んだことになりまする」
利家が死んだあと、豊臣家は、選ばなかった。だから、家康が選んだ。長政は、それを見ていた。
「ながまさは、きらわれるの、きにしない?」
「気にいたしまする」
即答だった。
「嫌われぬよう、できるだけ、説明いたしまする。それでも、要るときは、嫌われまする」
正則が、腕を組んだ。
「わしは、嫌われとうない」
全員が、正則を見た。
「何じゃ」
「しょうじきで、いい」
俺が言った。
「石田殿は」
長政が、聞いた。
三成は、少し考えた。
「以前は、気にしておりませなんだ。今は、要る相手に、要る以上には嫌われぬよう、努めておりまする」
清正が、小さく笑った。
「要る相手とは」
「加藤殿にございます」
清正の笑いが、止まった。正則が、盛大に噴き出した。長政も、少しだけ笑った。三成だけが、真面目な顔のままだった。
部屋の空気が、ゆるんだ。長政は、それを、じっと見ていた。見て、何かを帳面に書き足していた。
帰り際、長政は、俺の前で膝をついた。
「拾様。理に適う者を、信じすぎてはなりませぬ」
「ながまさの、こと?」
「はい」
「どうして」
「前提が変われば、答えも変わりまする」
今日の味方が、明日の敵になる。裏切りではない。前提が、変わるのだ。
「じゃあ、どう、しんじるの」
「前提を、分かち合うてくださいませ」
分かりやすかった。そして、怖かった。だが、扱えた。
【人物評価:黒田長政】
前提を分かち合えたとき 92
前提が見えないとき 31
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.7% → 96.5%
帰り際、玄朔が呼ばれて、帳面の閲覧の決まりを聞かされた。老医師は、目を細めて聞いていた。
「逃げ道と、傷ついた者を運ぶ道。……太閤殿下の枕元では、誰も、そのような話をなさいませなんだ」
玄朔は、そう言って、帳面の表紙に、そっと手を置いた。
その夜、俺は、半分だけ預かった帳面を開いた。逃げる道。傷ついた者の道。負けた者の道。
豊臣家では、勝つ道ばかりが語られてきた。だが、国を残すのは、負けたときにも、人が帰れる道なのかもしれなかった。
帳面を閉じる前に、三成の字で、最初の一行が書き込まれていた。
《閲覧 拾様 子の刻 目的:学び》
子の刻、と書いてあった。三成は、もう、俺を止め始めていた。
子の刻は、午後11時〜午前1時のことのことである。




