第75話 内府と将棋
【豊臣家滅亡まで 残り5,650日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り311日】
家康から、将棋の誘いが届いた。
冬の挨拶に大坂城へ上がるついでに、拾様と一局、指しとうござる。書状には、そう書いてあった。
俺は、書状を三度読んだ。
「将棋、でございますか」
三成が言った。
「うん」
「なぜ、でございましょう」
「将棋がしたいからであろう」
正則が答えた。
三成は、正則を見た。
「内府殿が、拾様と、ただ遊びたいと。本気で思うておられますか」
「思うておらぬ」
正則は、即答した。
成長だった。少しだけ、正則が物を考えるようになったことを、たぶん喜ぶべきなのだろう。
「断りまするか」
清正が聞いた。
「ううん。さす」
淀殿の書状が、まだ文箱にあった。家康を悪人と思うな。敵を知るのは、兵法の常だ。だが、家康を知ることは、家康の弱みを探すことではない。家康が何を勝ちと考えているかを、知ることだった。
当日、本丸の書院に、盤が置かれた。
家康は、約束の刻限より先に来て、座っていた。俺を待たせない。それだけで、もう政だった。
「拾様。今日は、天下の話は、いたしませぬ」
家康は、深々と頭を下げた。
絶対にする。
「将棋だけで、ござる」
絶対に違う。
家康の後ろには、二人が控えていた。一人は、痩せた、目の細い老人。本多正信。もう一人は、岩のような体の武将。本多忠勝。こちらは、三成と清正。
正則は、連れて来なかった。理由は、盤をひっくり返すかもしれないから。本人には、言っていない。
そして、書院の隅には、松と鶴の屏風が立っていた。その下から、見覚えのある裾が、少しだけはみ出していた。
家康は、屏風を一度だけ見て、何も言わなかった。
「拾様は、将棋を、なさいまするか」
「すこし」
前の世では、取引先の役員と指した。だが、この世の将棋は、俺の知っているものと、少しだけ違った。
家康が、駒の動きを説明し始めた。丁寧だった。丁寧すぎた。説明しながら、俺が何を知っていて、何を知らないかを、測っている。
【人物評価:徳川家康】
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嫌な百だった。
「では、拾様から」
先手をもらった。年下への心遣い。同時に、俺が何を攻めるかを見る手だった。
最初の一手を、真ん中に指した。
家康は、受けた。速くもなく、遅くもなく。俺が前に出ると、少し引く。引いた先には、別の駒がいる。駒を取れば、こちらも取られる。得をしたようで、盤全体では、家康の形が整っていく。
政と同じだった。
「拾様」
家康が、駒を動かしながら言った。
「豊臣家は、この先、何をなさるおつもりで」
天下の話はしない、と言った。十四手で破った。
「いきのこる」
家康の指が、止まった。ほんの一瞬だった。
「勝つ、ではなく。生き残る、と」
「うん」
「……誰に、でございますかな」
良い問いだった。家康に。時代に。内側の崩れに。太閤の遺したものの重さに。答えはいくつもあった。
「だれかに、かつことを、もくてきに、しない」
家康は、小さく笑った。
「それは、難しゅうござる」
「かつほうが、かんたん?」
「敵を決めれば、皆が、同じ方を向きまする」
家康の駒が、俺の前に出てきた。攻めではない。道を塞ぐ手だった。
「敵をなくした家は、内を見まする。内を見れば、違いが見える。違いが見えれば、争いまする」
太閤が死んでから、豊臣家で起きていることだった。
「とくがわけは、なにを、てきに、してるの」
正信の細い目が、さらに細くなった。忠勝は、盤を見たまま動かなかった。
家康は、すぐには答えなかった。一手、駒を引いた。
「戦乱に、ござる」
模範の答えだった。だが、嘘ではなかった。
「せんらんを、ふせぐためなら。とよとみけを、ほろぼす?」
書院の空気が、止まった。
三成が、息を吸った。清正の手が、膝の上で固まった。正信が、俺を見た。忠勝が、家康を見た。屏風の下の裾が、ぴくりと動いた。
家康だけが、盤を見ていた。
「拾様。将棋では、王を取れば、終わりまする」
「うん」
「国は、王を取っても、終わりませぬ」
家康は、駒を一つ、盤に置いた。
「残った者が、次の王を、作りまする」
「じゃあ、ぜんぶ、とるの」
「全部取れば、国が、なくなりまする」
家康は、少し疲れた顔をした。一瞬だけだった。天下の内府ではなく、六十年近く戦い続けてきた老人に見えた。
「わしは、豊臣家が、恐ろしいのではござらぬ」
「じゃあ」
「豊臣家を担いで、戦を始める者が、恐ろしいのでござる」
この先を、俺は知っている。秀頼を旗に立てる大名。浪人。旧恩の者。家康が死んだあと、秀忠に不満を持つ者たち。豊臣家は、自分から戦わなくても、そこにあるだけで、戦の理由になる。
家康の勝ち筋が、少し見えた。
【徳川家康の勝ち筋 推定】
自分が死んだあとも、国じゅうの戦を、二度と起こさせないこと
盤を見た。家康の王は、奥にいた。周りを、駒がきっちりと守っていた。俺の王は、前に出すぎていた。
父の豊臣家と、同じだった。王が前に出て、全部を決める。王が倒れれば、守りの形が何も残らない。
「いえやすどの」
「何でござる」
「いえやすどのが、しんだあと。とくがわけは、うごく?」
今度は、正信の指が動いた。忠勝の眉が、わずかに上がった。
家康は、笑わなかった。
「動かしまする」
「だれが」
「秀忠が」
「ひでただどのが、まちがえたら」
沈黙。家康が、考えていた。将棋の手ではなく、答えを。
「……家臣が、止めまする」
「とめられる?」
忠勝が、初めて口を開いた。
「止めまする」
腹の底から出る声だった。書院の襖が、少し震えた。
家康は、忠勝を見て、少し笑った。
「この男は、止めるでしょうな」
「まさのぶどのは」
正信が、初めて困った顔をした。
「拙者は……止めるのではなく、止まる形を、作りまする」
良い答えだった。家康は、人を置いている。自分が死んだあと、跡継ぎを止める人を。豊臣家には、まだ、秀頼を止める人がいない。
盤の上で、俺の攻めは、家康の王に届かなかった。気がつくと、俺の王の逃げ道が、一つもなかった。
「詰みにござる」
負けた。
だが、何手前で負けたのか、分からなかった。それが、家康の怖さだった。
「もういっきょく」
家康が、笑った。
「お強い」
「まけた」
「負けて、もう一度と言える者は、強うござる」
二局目。俺は、王を前に出さなかった。守りを作った。家康は、少し嬉しそうだった。孫に将棋を教える祖父の顔に、一瞬だけ、見えた。
その日の結果。二敗、一引き分け。勝ちはなかった。
家康が帰ったあと、屏風の陰から、淀殿が出てきた。
「……引き分けの一局。あれは、内府が手を緩めました」
「わかってる」
「悔しゅうございますか」
「すこし」
淀殿は、盤の上の俺の王の駒を、指でつまんで、奥に置き直した。
「王は、奥に置くものです」
その夜、三成が、盤の駒の並びを、紙に書き写して持ってきた。三局分、一手残らず。
「拾様の負けは、四十一手目にございます」
「……わかるの」
「分かりませぬ。されど、内府殿が、四十一手目のあと、一度だけ、白湯を飲まれました。それまで、一度も飲まれなかったのに」
三成は、人の心は読めない。だが、人の手は、見ていた。
【徳川家康を分かっている度合い】
21% → 37%
【徳川家康 豊臣家への警戒】
51% → 54%
【理由】
豊臣秀頼を、話の通じる相手と認めた
子供と思われていた方が、安全だったらしい。だが、もう戻れなかった。
【新たな課題】
豊臣家が担がれない条件を作れ
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.9% → 96.8%
豊臣家は、戦の理由ではなく、泰平の理由になれる。それを示すしかない。




