第74話 母の書き足し
【豊臣家滅亡まで 残り5,654日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り315日】
淀殿の部屋は、静かだった。
静かなときほど、危ない。
子供の頃、母が怒るときは、声を上げる前の沈黙が、一番怖かった。前の世でも、この世でも、それは変わらなかった。
「お座りなさい」
座った。
三成も、清正も、正則も、部屋の外の廊下で待っていた。三人とも、ついて来ると言い張った。淀殿の侍女に、戸口で止められた。母と子だけ、と。
淀殿は、一枚の紙を、俺の前に置いた。
《豊臣家 仮の目的》
「これは、そなたが書かせたのですか」
「うん」
「太閤殿下の、御遺志が、ございませぬ」
「うん」
「天下は、豊臣だけのものではない、と」
「うん」
短い返事を重ねるほど、部屋の空気が重くなった。
「……そなたは、豊臣を、捨てるのですか」
「すてない」
「ならば、なぜ、天下を手放す言葉を書く」
「てばなすとは、かいてない」
「書かぬことが、手放すことです」
淀殿の声は、震えていなかった。震えていないのが、怖かった。
淀殿にとって、天下は、ただの権ではなかった。父を失い、母を失い、城が燃えるのを二度見て、最後に手に入れた、たった一つの安全だった。太閤の天下がある限り、秀頼は守られる。天下を失えば、また、城が燃える。母の中では、それが一本の線でつながっていた。
「ははうえ。いえやすどのを、どう、みてる?」
「危うい男です」
「よくが、ふかいから?」
「違います」
即答だった。
「欲の深い男なら、欲を満たせば、止まりまする。家康は、止まりませぬ」
淀殿は、家康を嫌っているだけではなかった。見ていた。
「どうして」
「守ろうとしておるからです」
俺は、黙った。
同じところに、母も辿り着いていた。
家康は、徳川家を守る。家来を守る。泰平を守る。守るためなら、豊臣家を削る。要るなら、滅ぼす。悪意ではない。理だ。
「家康は、豊臣を、憎んではおりませぬ」
淀殿が、続けた。
「だから、危ういのです」
憎しみなら、和解できる。欲なら、取引できる。恐れなら、保証を作れる。だが、自分の家を守るという目的は、消せない。
「そなたが豊臣家を整えれば、家康は喜ぶと、お思いですか」
「おもわない」
「弱ければ」
「のみこまれる」
「強ければ」
「けいかい、される」
「その通りです」
淀殿は、初めて、少しだけ顔をゆるめた。
「ならば、なぜ、強うするのです」
「よわいままだと、えらべないから」
弱い家は、泰平を選べない。ただ、従うだけだ。強すぎる家は、戦を招く。要るのは、戦う力ではない。話を断れる力。約束を守らせる力。相手が約束を破っても、全部は滅びない力。
「ははうえ。おれは、とうさまの、てんかを、そのまま、まもることは、できない」
淀殿の目が、冷たくなった。
「とうさまには、なれない」
「なる必要は、ございませぬ」
「でも、みんな、とうさまなら、どうしたか、で、おれを、うごかす」
淀殿は、何も言わなかった。
「とうさまの、のこしたものを、まもるために、とうさまの、やりかたを、やめないと、いけない」
危うい言葉だった。母の前で、父のやり方を否定する言葉だった。
だが、言わなければ、何も始まらなかった。
淀殿は、長いこと黙っていた。庭で、鳥が鳴いた。遠くで、女房の衣擦れが聞こえた。
「……そなたは、太閤殿下より、賢いと思うておるのですか」
「ううん」
「ならば」
「とうさまは、とうさまにしか、できないことを、した。おれは、おれじゃなくても、できることを、のこしたい」
英雄を、もう一度作ろうとしない。英雄の成したことを、仕組みに変える。人に頼らないことと、人を忘れることは、違う。秀吉を忘れない。だが、秀吉をもう一度作ろうとはしない。
淀殿の目に、一瞬、悲しみが浮かんだ。怒りより、ずっと深いものだった。
「太閤殿下は、そなたを天下人にするために、すべてを遺されました」
「うん」
「それを、重いと申すか」
「おもい」
俺は、答えた。
「でも、すてない。わける」
天下。威光。財。人。町。決まり。全部を、豊臣家だけで抱えない。朝廷に。大名に。町人に。寺社に。次の世に渡す。それが、遺すということだと思った。
淀殿は、紙に目を落とした。四つ目の行を、白い指でなぞった。
《太閤の遺したものを独り占めせず、次の世に残す》
「……この言葉は、嫌いです」
「うん」
「されど、破り捨ては、いたしませぬ」
小さな、前進だった。
「一つ、お加えなさい」
「なにを」
「秀頼の、誇りを、守る」
驚いた。
命ではなかった。家名でもなかった。誇り。
生き残るためなら、何を呑んでもいいのではない。人質。辱め。名前だけ残して、中身のない存続。母は、それを恐れていた。二度、落ちる城から出されて、生き延びた人だった。生き延びるだけのつらさを、知っている人だった。
「くわえる」
俺は、祐筆を呼ばせて、六つ目を書かせた。
《六、秀頼、および豊臣家に属する者の、誇りを守る》
「属する者」
淀殿が、確かめた。
「家来も、でございますか」
「うん。まちのひとも。へいも」
淀殿は、少しだけ、笑った。
「欲張りですこと」
「ははうえの、こだから」
言ってから、しまったと思った。
淀殿は、扇で、俺の頭を、ぽんと軽く叩いた。痛くなかった。許されたらしかった。
部屋を出ると、廊下で三人が待っていた。
正則が、真っ先に駆け寄ってきた。
「ご無事でございますか!」
「みれば、わかる」
三成が、冷静に言った。
「首尾は」
「いちぶ、ごうい」
「一部とは」
「ははうえは、てんかを、てばなす、きは、ない。でも、もくてきの、みなおしは、みとめた」
清正が、頷いた。
「御方様らしい」
三成の目が、少し見開かれた。
「……御方様が、見直しを」
正則が、笑った。
「大勝利ではないか」
【人物評価:淀殿】
改革を受け入れる度合い 17 → 23
六。誤差ではない。たぶん。
【徳川家康 豊臣家への警戒】
47% → 51%
また、上がった。
「何もしておらぬのに」
正則が、首をかしげた。
「目的を、分かち合い始めたからにございます」
三成が答えた。
家康は、強い豊臣を警戒する。まとまる豊臣を、もっと警戒する。
その夜、淀殿から、一通の書状が届いた。短かった。母の字だった。
《家康を悪人と思うな》
《悪人でないからこそ》
《最悪の決めごとを、正しく選べる》
何度も読んだ。
家康は、敵かもしれない。だが、敵だから危ういのではない。正しいから、危ういのだ。
翌朝、三成が、分厚い紙の束を持ってきた。徳川の家臣たちの札だった。三成が、夜のうちに作ったらしい。
阿茶局。本多正信。井伊直政。本多忠勝。榊原康政。鳥居元忠。大久保忠隣。永井直勝。成瀬正成。そして、財と金山と街道の欄に、大久保長安。
「……ここ、なにか、けしてある」
長安の札の名の横に、朱で消した跡があった。
「写しの一つに、関長安とございました。誤りにございます。直しました」
三成は、当然のように言った。
「誤った名のまま決まりに入れれば、百年後には、誤りが本当になりまする」
「……ねた?」
三成は、答えなかった。
徳川も、一人ではなかった。同じ徳川の家臣でも、望む泰平が違う。寺社の秩序を重んじる者。法度を整えたい者。戦の手柄で家を守りたい者。道や城を作りたい者。
家康の名だけを見ていては、この先を読み違える。
【新たな課題】
徳川家康の、守ろうとしているものを知れ
知らずに向き合った場合:関ヶ原級全国内戦の見込み 90% → 95%
「……あがるの」
【理由】
互いを分かり合う道が、進んでいないため
厳しかった。
次に家康に会うとき、俺は、家康を倒す方法ではなく、家康が何を恐れているかを、聞かなければならない。
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.7% → 96.9%
三成の目の下には、また、隈ができていた。俺は、三成の袖を引いて、城の一室まで連れていった。
「きょうは、ねて」
「拾様も、昨夜は」
「……おれは、いい」
三成が、何か言いたそうに俺を見た。言わなかった。
封印スキルの空欄が、また、かすかに瞬いた気がした。




