第72話 札の地図
【豊臣家滅亡まで 残り5,660日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り321日】
家康の部屋には、大きな地図がなかった。
意外だった。
評議の合間に、もう一度だけ、家康の大坂屋敷を訪ねた。今度は清正だけを供に連れた。正則は、「わしも行く」と三度言ったが、三度とも清正に止められた。
俺は、壁一面の日本の絵図を思い描いていた。赤い駒と、青い駒。軍勢の矢印。前の世の、会議室の壁に貼られた、あの戦略図のようなものを。
実際にあったのは、ばらばらの紙だった。小さな国絵図。街道の控え。川の図。城の縄張り。寺社領の書付。大名の系図。縁組みの覚え書き。
「ちず、が、ない」
家康は、笑った。
「ございまする」
「どこに」
家康は、自分の胸を、指でとんと叩いた。
嫌な答えだった。創業の主の答えだった。
「それだと、いえやすどのが、しんだら、きえる」
部屋の空気が、止まった。
控えていた徳川の家臣たちの目が、一斉に鋭くなった。清正の手が、わずかに膝の上で動いた。
家康だけが、笑っていた。
「拾様は、幼いのに、人の死を、近う申されますな」
「しは、ちかいもの」
秀吉が死んだ。利家が死んだ。大きな人が死ぬたびに、国の絵図の一部が、一緒に消えた。利家の頭の中にしかなかった、誰と誰をどの順で座らせるかという地図は、もう誰にも読めない。
家康は、しばらく俺を見ていた。
それから、家臣に目で合図をした。家臣が、奥から、黒塗りの箱を一つ運んできた。
蓋を開けると、中には、札が、びっしりと詰まっていた。
一枚ずつに、大名の名。石高。跡継ぎ。妻。縁者。主な家臣。借金。昔の恨み。徳川との約束。豊臣への恩。
清正が、息を呑んだ。
家康の地図は、紙に描いた山や川ではなかった。人と人の、つながりだった。
「山は、動きませぬ」
家康が言った。
「人は、動きまする。川は、溢れれば、流れを変える。大名も、同じでござる」
伊達政宗の札。野心。縁組み。奥州。母との不和。弟の死。豊臣への臣従。徳川への近づき。一枚の札から、何本もの線が出ていた。
毛利輝元の札。総大将になり得る家格。だが、家中の考えは割れている。吉川。小早川。安国寺。同じ毛利でも、別の方へ動く。
家康は、大名を一つの駒として見ていなかった。一つの家の中に、いくつもの駒があることを知っていた。
「とよとみの、ふだは、ある?」
家康は、箱の底から、厚い束を取り出した。
豊臣秀頼。淀殿。北政所。前田利長。石田三成。加藤清正。福島正則。片桐且元。大野治長。奉行衆。大老衆。公家。寺社。商人。朝鮮から帰った兵。
一つの家なのに、札が、ひどく多かった。
「豊臣家は、一枚では、ござらぬ」
家康が言った。
反論できなかった。
豊臣家とは、何なのか。秀頼か。淀殿か。太閤の遺したものか。大坂城か。大老と奉行か。天下の公儀か。誰も、同じ答えを持っていない。
家康の札の上では、豊臣家は、一つの家ではなかった。寄り合いだった。秀吉という結び目が消えて、紐がほどけかけている。
「そのちず、かして」
徳川の家臣たちが、また息を呑んだ。清正も、俺を見た。
家康は、笑った。
「差し上げられませぬなあ」
当然だった。
「じゃあ、つくりかたを、おしえて」
家康の笑みが、少しだけ、消えた。
地図そのものではない。地図を新しく書き直し続ける仕組み。誰が知らせを集めるか。誰が確かめるか。古い知らせをどう捨てるか。噂と本当をどう分けるか。それが知りたかった。
家康は、答えなかった。
代わりに、一枚の札を、俺の前に置いた。
《徳川家康》
自分の札だった。石高。家族。家臣。病。昔の負け戦。同盟。敵。弱み。ところどころ、空欄があった。
「まず」
家康は言った。
「ご自分の札を、正しゅう作りなされ。他人の札より、先に」
厳しかった。自分の家が何をできて、何をできないか。それを知らずに、天下を見るな。そういう意味だった。
帰りの駕籠の中で、清正が言った。
「……空欄が、ございましたな。内府の札に」
「うん」
「わざと、空けておったのでしょうか」
分からなかった。家康にも、自分で分からないところがあるのか。それとも、見せたくないところなのか。
大坂城に戻って、豊臣家の札を作った。
札には、俺の目に見える数字を、そのまま書き写すことにした。家康の札に倣って、自分の家の札を正しく作るなら、見えているものを隠しても仕方がない。
「この数は、どこから出たものでございますか」
三成が、最初の一枚を見て聞いた。
「ぼくの、みたて」
三成は、しばらく札と俺を見比べていた。それから、何も言わずに、筆と紙を揃えてくれた。拾様の見立て、という欄を、帳面に一つ増やしたらしかった。
最初に、俺自身の札。
【豊臣秀頼(拾)】
年齢 6
名目上の権威 S
実務の経験 C
直接治める土地 はっきりしない
自分で決められる範囲 狭い
象徴としての値打ち SS
さらわれる・害される恐れ 高
母への依存 高
最後の一行は、消してほしかった。
次に、淀殿。
【淀殿】
危うさを察する力 98
豊臣家を守る意志 100
徳川への信用 2
喪ったもの 本人が数えることを拒否
決定への影響 極めて大
喪ったもの、の欄だけ、数字が出なかった。母は、あの夜のとおりだった。
三成。政務百。好感度十七。清正。現場統率九十六。決まりへの信用三十一。正則。人の心を動かす力九十四。感情制御、二十五。
そう書きかけたところで、視界の数字が、一つ動いた。
二十七。
筆を止めて、二十五を墨で消し、横に二十七と書き直した。
正則が、いつの間にか、後ろから覗き込んでいた。
「……今、わしの数を、直されましたな」
「うん。にじゅうなな」
「上がったのでございますか」
三成が聞いた。俺に、ではなく、正則に。
正則は、少し考えてから、胸を張った。
「昨日、机を、壊さなんだ」
「……成果にございます」
三成は、真顔で書き留めた。
それから、北政所。前田利長。宇喜多秀家。毛利輝元。上杉景勝。大谷吉継。浅野長政。増田長盛。長束正家。前田玄以。一人ずつ、線を引いていった。恩。恐れ。縁組み。金。領地。信心。恨み。友。病。家族。
紙が、人の顔で埋まっていった。
清正が、長いこと見てから、言った。
「……戦場の絵図より、込み入っておりますな」
「戦場ならば、敵と味方を、分けられまする」
三成が答えた。
「これは、分けられませぬ」
正則が、自分の札を持ち上げた。
「わしは、味方か」
誰も、すぐには答えなかった。
正則は、豊臣に忠義がある。三成を嫌っている。家康を信用している。清正を友と思っている。自分の国を守りたい。どの線を引くかで、答えが変わる。
「みかた」
俺は言った。
「でも、ぜんぶの、もんだいで、おなじがわに、たつわけじゃ、ない」
正則は、少し考えた。
「……面倒じゃな」
「にんげん、だから」
作業の途中で、淀殿が、様子を見にきた。
壁一面に貼られた札を見て、淀殿は、しばらく黙っていた。
「……わたくしの札は、どれです」
俺は、少し迷ってから、指差した。淀殿は、札の前に立って、一行ずつ読んだ。徳川への信用、二。そこで、淀殿は、ふっと笑った。
「二もございますか」
「……おおい?」
「多すぎます」
それから、喪ったもの、の欄の空白を、指でそっと撫でた。何も言わなかった。撫でてから、自分の札の隣の、秀頼の札の「母への依存 高」を見た。
「これは、正しゅうございます」
淀殿は、満足そうに言って、出ていった。
札の地図ができあがった夜、数字が開いた。
【全国の勢力図 見えている割合】
豊臣家 41%
徳川家 87%
【書き直す頻度】
徳川 毎日
豊臣 今回のみ
作っただけでは、だめだった。書き直す者が要る。知らせを持ち帰る道が要る。間違いを直す仕組みが要る。
「ちずは、かみじゃ、ない。かきなおし」
三成が、頷いた。
「担当を、置きまする」
清正が言った。
「現場から知らせる者を、罰せぬ決まりも、要る」
正則が言った。
「宴で聞いた噂も、役に立つぞ」
三成が、嫌そうな顔をした。だが、否定しなかった。
人心維持費が、知らせ集めの費えに格上げされた瞬間だった。
最後に、俺は、豊臣家そのものの札を作った。
【豊臣家】
権威 S
財 C
軍 B
人 S
決める力 F
皆で目指すもの 未定義
正則が、その空欄をのぞき込んだ。
「……ここに、何を書くのでございますか」
「まだ、わからない」
「わしらで、決めるのか」
「うん。みんなで」
札は、嘘をつかなかった。
一番大きな空欄が、そこにあった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.8% → 96.9%




