第70話 内府の一日
【豊臣家滅亡まで 残り5,665日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り326日】
「本当に、見張るのでございますか」
正則が言った。
「見張りでは、ございませぬ」
三成が、すぐに訂正した。
「務めの、観察にございます」
「同じではないか」
「違いまする」
「どこが」
「目的と、書き留める形が、違いまする」
「面倒くさい」
三成の好感度が、目に見えないところで、また一つ下がった気がした。
家康の一日を知るために、三つの道を用意した。
一つ目は、徳川の大坂屋敷に出入りする商人。二つ目は、台所に薪を運ぶ者。
三つ目は、家康本人だった。
折しも、家康は、評議のために伏見から大坂へ下り、城下の屋敷に数日逗留していた。俺は、その屋敷に、一日、遊びに行きたいと書状を出した。
淀殿は、当然、反対した。
「内府の屋敷に、秀頼を、一日」
扇が、ぴしりと閉じた。
「清正と正則が、両脇に付きまする。母上の侍女も二人。刻限は、日の入りまで」
そう言ったのは、俺ではなかった。三成だった。三成は、自分が行けないことを分かったうえで、警固の段取りを、紙一枚にまとめて持ってきていた。
淀殿は、その紙を、長いこと見ていた。
「……治部が、そこまで書くのなら」
淀殿が、三成の書き物で折れたのは、初めてだった。
家康は、あっさりと承知した。
「拾様が、わしの暮らしを御覧になりたいと」
屋敷の広間で、家康は、にこにこと笑っていた。
「何か、面白いものが、ございますかな」
「ある、と、おもう」
「わしには、分かりませぬがなあ」
笑いながら、こちらの目的を測っている。目が、少しも笑っていなかった。
【人物評価:徳川家康】
表示可能な項目:健康管理 99/待機能力 100/危機管理 100/贈答精度 100
新規表示:情報取得 99/相手に話させる力 98
相手に話させる力、九十八。何を聞いても、こちらの方が多く話す羽目になる男だった。
「あさは、なにを、するの」
「起きまする」
「そのあと」
「顔を洗いまする」
「そのあと」
「白湯を、飲みまする」
正則が、横で小さく噴き出した。水には味がないと、ついこの前まで文句を言っていた男だった。
家康は、白湯を一口ずつ飲んだ。熱すぎず、ぬるすぎず、量も少ない。俺の侍医が見たら、養生の手本だと褒めるだろう。
その次に、家康は厠に立った。
そこまでは、見なくていいと判断した。あとで三成に話したら、「刻限だけは、書き留めるべきでございました」と真顔で言われた。
朝餉は、麦を混ぜた飯。味噌汁。漬物。焼いた小魚。
「天下の内府の膳にしては――」
正則が言いかけた。清正が、肘でその脇腹を突いた。
家康は、聞いていた。
「贅沢は、人に見せるときだけで、よろしゅうござる」
麦飯を噛みながら、家康は言った。
「毎日食えば、毎日、銭が消えまする」
朝飯にまで、勘定を持ち込む男だった。
食後、家康は、薬を飲んだ。自分で薬研を回して作ったという、煎じ薬。苦いはずだった。顔には、出さなかった。
「なんの、くすり?」
「長生きの薬にございます」
「きくの?」
「効くと思うて飲めば」
家康は、湯呑みを置いた。
「忘れず、飲めまする」
効くとは言わなかった。だが、毎日欠かさず飲む仕組みとしては、正しかった。
朝一番に会ったのは、大名ではなかった。馬の飼い葉を扱う役人だった。
今年の麦の出来。馬一頭あたりの食う量。街道ごとの蓄え。冬に足りなくなる見込み。
家康は、三つだけ聞いた。
「足りぬのは、どこか」
「誰が、補うか」
「いつまで、持つか」
役人が下がった。次は、江戸から来た普請の役人だった。川の流れ。材木の値。人足の病。工事の遅れ。
家康は、また三つだけ聞いた。
「遅れのもとは、何か」
「誰の咎か」
「その者を替えれば、早うなるか」
普請の役人は、最後の問いで、迷った。
「……替えぬ方が、早いと存じまする」
「ならば、替えるな」
家康は、それだけ言った。
しくじった者を、すぐには切らない。しくじりを隠した者は、切る。その区別が、骨の髄まで染みていた。
昼前、家康は、庭の鷹部屋へ行った。
遊びだと思った。違った。鷹匠の働きぶりの吟味だった。鷹の羽の艶。餌の量。目方。飛び方。全部聞いた。鷹匠の弟子の名まで、家康は知っていた。
「鷹狩りは、遊びに見えまするかな」
「すこし」
「それでよいのでござる」
家康は、鷹の頭を撫でた。
「遊びに見えれば、大名は油断する。百姓は近寄ってくる。村の道が分かる。田の出来が見える。兵が歩ける土地が分かる」
遊びの顔をした、見回りだった。
家康は、鷹だけを見ていなかった。人と、道と、米と、水と、噂を、全部見ていた。
昼餉のあと、家康は書状を読んだ。
伊達。毛利。島津。京の北政所の周り。公家。寺社。
家康は、返事を自分では書かなかった。口で中身を言う。祐筆が書く。別の者が読み上げる。家康が直す。出す前に、担当の者がもう一度確かめる。
一通の書状に、四人が関わっていた。
「おそくない?」
「急ぐ書状は、急ぎまする」
家康は、答えた。
「急がぬ書状を急ぐと、要らぬことを書きまする」
前の世を思い出した。夜中の二時に、腹立ちまぎれに送った返信。朝になって、取り消したくなる文面。この世には、送った書状を取り消す術がない。あるのは、追いかける早馬だけだ。
午後、江戸の秀忠から、使いが来た。
使いは、秀忠の書状を読み上げた。江戸の普請の件。どちらの案にするか、父上のお考えを伺いたい、と。
家康は、途中で口を挟まなかった。最後まで聞いた。それから、祐筆に、一行だけ書かせた。
《そなたは、どうしたいか》
使いが下がったあと、俺は聞いた。
「こたえを、おしえないの?」
「わしが死んだあと」
家康は、白湯を飲んだ。
「誰が、教えまするか」
胸に、刺さった。
家康は、今から、自分がいなくても回る家を作っている。徳川家のために。
夕方、家康は、家臣と碁を打った。打ちながら、知らせを聞いていた。碁盤の石を動かす指と、国の石を動かす指が、同じ速さだった。
日が沈む前に、俺たちは屋敷を辞した。家康は、門まで送りに出てきた。
「拾様。今日一日、何か、分かりましたかな」
「……いえやすどのは、なにも、してない」
家康は、目を細めた。
「さようでござる。わしは、何もしておりませぬ」
にこにこと、笑っていた。
帰りの駕籠の中で、清正が、ぽつりと言った。
「……内府殿は、昼に、鷹の弟子の名を呼んでおられましたな」
「うん」
「わしは、足軽組頭の名は覚えておりますが、組頭の下の者の名は、半分も覚えておりませぬ」
清正は、窓の外を見ていた。
「帰ったら、覚えまする」
城に戻って、一日の書き留めを並べた。三成が、商人と薪運びの話と、俺たちの見たものを、刻限ごとに一枚にまとめた。
大きな決断は、一つもなかった。戦も、国替えも、処罰もなかった。
それでも、国は、少しずつ、家康の方へ動いていた。飼い葉。川の普請。書状。人の使い方。跡継ぎの育て方。約束の確かめ。小さな決定が、毎日、積み重なっていく。
「恐ろしゅうございますな」
清正が言った。
「何もしておらぬように見えて」
「何一つ、止まっておりませぬ」
三成が言った。
「戦もせずに、勝っておる」
正則が言った。
【人物評価:徳川家康】
一日の決定 37件
自ら決めたもの 11件
任せたもの 26件
手つかずの案件 0件
【豊臣家】
手つかずの案件 算定不能
数字が、一度、止まった。そして、親切にも、出し直された。
【豊臣家】
手つかずの案件 推定284件
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.7% → 97.0%
正則が、小さな声で言った。
「……拾様」
「うん」
「酒を、飲んでもよろしゅうございますか」
「きょうは、すこしだけ、ゆるす」
家康の一日は、戦場より、疲れた。




