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転生したら豊臣秀頼だったので、大坂の陣を起こさせません ~MBAホルダー、豊臣家の事業承継に挑む~  作者: 東雲 諒杏
第二章 太閤の死 

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第7話 返す返す


【豊臣家滅亡まで 残り6,116日】


 勝てることと、生き残れることは違う。その差を、俺はもう一度思い知らされることになる。


 秀吉の容体は、日に日に悪くなった。それとは反対に、城内で聞く報告は日に日に明るくなった。


「昨夜より御気色は穏やかにございます」


「今朝は粥を少し召し上がりました」


 誰も嘘は言っていない。だが、誰も全体を言わない。粥を三口食べたことは報告されても、その後ほとんど起きられなかったことは小さくなる。熱が一度下がったことは伝えられても、夜にまた上がったことは後回しになる。


 危機が深いほど、報告は明るくなる。最初の人生でも見た。売上が落ちれば「一時的な調整です」。社長が倒れれば「念のため休養しております」。そして気づいたときには、会社そのものが動かなくなっている。


 俺は毎日、秀吉の寝所へ通った。話せる日は少なくなり、眠っている時間が増えた。


 眠る秀吉の顔を見ながら、俺は時々、別の顔を思い出した。


 光秀だったころの羽柴筑前守。初めて会ったのは天正六年の春、あの男が、自分から坂本まで来たときだった。数字を見ると、忠誠の欄だけが、空白だった。よく笑い、よく喋り、人の懐へ入るのが異様に速かった。播磨で会ったときには、《止まれば、終わりゆえ》と言って、走り続けていた。晩年には、《日向守様が好きにござる。ですが、味方とは限り申さぬ》と言った。正直に言えば、少し苦手だった。


 あの世界の秀吉と、この世界の秀吉は、たぶん同じ人ではない。それでも、眠る父親の顔を見ていると、安土の廊下で聞いた、あの甲高い笑い声が聞こえる気がした。


 その男が、今世では俺の父親になっている。人生とは、どういう悪趣味な仕組みをしているのだろう。


 止まれば終わり、と言って走り続けた男が、今、止まろうとしている。


 八月五日の夜、侍女に揺り起こされた。


「拾様。殿下が、お呼びにございます」


 寝所へ行くと、珍しく秀吉の目がはっきりと開いていた。枕元には淀殿と北政所、少し離れて三成が控えている。三成の前には文机と紙が置かれていた。


「拾。来たか」


 声は、昼間よりしっかりしていた。


「治部。紙を持て。筆もじゃ」


 三成が顔を上げた。


「御口述であれば、拙者が」


「わしが書く」


 三成は一瞬ためらい、それから文机ごと枕元へ寄せた。北政所が秀吉の背に綿を入れ、淀殿が肩を支える。三成は筆に墨を含ませ、秀吉の指に握らせた。握らせた指が震えていたので、三成はその手首を、下からそっと支えた。


 秀吉は、一文字ずつ、ゆっくりと書いた。


 秀より事、なりたち候やうに。此かきつけ候しゆとして、たのみ申し候。


 墨がかすれた。三成が黙って筆に墨を足す。


 なに事も、此ほかには、おもひのこす事なく候。


 嘘だ、と俺は思った。思い残すことだらけのはずだ。


 秀吉は筆を置かなかった。しばらく紙を見つめ、それから余白に、もう一度筆を下ろした。


 返す返す、秀より事、たのみ申し候。


 三成の、手首を支える指に力がこもった。


 五人のしゆ、たのみ申し候。たのみ申し候。


 同じ言葉が、二度並んだ。


 いさい五人の物に申しわたし候。


 そして、最後に一行。


 なごりおしく候。


 筆が紙から離れた。秀吉は、自分の書いたものを見て、小さく息を吐いた。


「……字が、まずいのう」


 誰も笑わなかった。三成は、支えていた手を離さないまま、俯いていた。紙の端に、ぽつりと一つ、丸い染みが落ちた。墨ではなかった。


 天下を取った男が、最後に自分の手で書き残した言葉がこれだった。命令ではない。指図でもない。ただ、頼むことしかできない。自分が死んだあと、人を動かす力は自分から消える。それを、この人はようやく身体で分かったのだ。


 だから、繰り返すしかない。返す返す、と。


 俺は、死後の世界で頭を下げていた秀吉を思い出した。


――倅を、助けてくだされ。


 あの人は、ここから来たのだ。この夜、この言葉を書いて、それでも足りないと分かって死んだ人が、死んでもまだ頼みに来たのだ。


 遺言の書付は、翌日から、五人の大老と五人の奉行の間を回った。大老たちは、秀頼に背かぬと誓う起請文を書いた。奉行たちも書いた。誓いの紙は、日ごとに厚くなった。


 秀吉の眠る時間は、日ごとに長くなった。


 それから、十二日が過ぎた。


 八月十七日の夜、また、侍女に揺り起こされた。


 寝所では、秀吉が、目を開けていた。十二日前より、ずっと痩せていた。それでも、目だけは、はっきりしていた。枕元には、淀殿と北政所。少し離れて、三成。


 死の近い人間には、こういう夜が一度だけ来ることがある。劉禅として、何度も見た。灯が消える直前に、一度だけ強く燃えるように。


「ちちうえ」


 俺は布団ににじり寄った。秀吉の目が、ゆっくりとこちらを向いた。


「ちちうえは、このあいだ、みんなに、たのみました」


「……うむ」


「ぼくには、たのみませんか」


 淀殿が息を呑んだ。三成が顔を上げた。


 秀吉は、しばらく俺を見ていた。それから、かすかに笑った。


「拾に、何を頼めと申す」


「なんでも」


「五つの子に」


「はい」


 秀吉は、長い息を吐いた。笑っているのか、泣いているのか、もう分からなかった。


「……ならば、拾」


 乾いた手が、布団の中から伸びてきた。俺はそれを両手で握った。


「母を、頼む」


 淀殿が、袖で顔を覆った。


「それから、治部を頼む。あれは不器用じゃ。又左を頼む。ねねを頼む。皆を、頼む」


 一つずつ、名前が増えていった。天下のことは、一言も出てこなかった。


「……そなたが、生きておれば、それでよい」


 最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。


「はい」


 俺は答えた。


「たのまれました」


 一度は断った依頼だった。死後の世界で、「お気の毒だが全員は救えない」と言って突き返した依頼だった。


 今度は、断れなかった。断る理由を、もう一つも思いつけなかった。


 視界の隅で、何かが一瞬だけ瞬いた。


【封印スキル:???】

解放条件の一部が表示されました――「託された者が」


 それだけ出て、消えた。意味を考える余裕は、そのときの俺にはなかった。


 淀殿が、俺の背に手を置いた。震えていた。北政所は、秀吉の額の汗を拭いながら、一度だけ俺を見た。その目が、何かを受け取ったように静かだった。


 三成は、膝の上で両手を握りしめたまま、動かなかった。十二日前、自分が手首を支えて書かせた「たのみ申し候」を、頭の中で、何度もなぞっているようだった。


 秀吉は目を閉じた。握った手から、少しずつ力が抜けていった。眠っただけだと、玄朔が小声で言った。


 その夜、俺は淀殿の膝で眠った。


 翌朝。城の鐘が、いつもと違う間で鳴った。


 目を覚ますと、淀殿がいなかった。部屋の隅で侍女が泣いていた。声を殺していた。泣いていることを知られてはいけない者の泣き方だった。


「ちちうえ?」


 侍女はその場に伏した。答えない。それだけで分かった。だが、分かりたくなかった。


 廊下へ出ようとすると、乳母が前に立った。


「拾様。淀殿がお戻りになるまで、こちらで」


「はなして」


 誰も動かない。大人たちは正しいことをしている。五歳の子供を、父親の死の直後の寝所へ連れていかない。それは正しい。だが、今の俺には耐えられなかった。


「ちちうえに、あう!」


 声が廊下へ響いた。遠くで足音が止まり、やがて三成が現れた。


 衣は整っている。髪も乱れていない。いつもの三成だった。ただ、顔が白かった。目が赤かった。十二日前、あの言葉を最後まで支え続け、昨夜も、最後まで枕元を離れなかった目だった。


 三成は俺の前に片膝をついた。


「拾様」


 口が開いた。だが、言葉が出てこなかった。何千という文書を処理し、複雑な命令を短い文にまとめられる男が、五歳の子供へ父の死を伝える言葉だけは持っていなかった。


「しんだの?」


 俺の方から尋ねた。三成は目を伏せ、深く頭を下げた。


「……太閤殿下には、只今、御最期を迎えられました」


 分かっていた。歴史として知っていた。昨夜の手の軽さで、もう分かっていた。


 それでも、胸の真ん中に穴が開いた。


 もっと話せばよかった。聞きたいことは、いくらでもあった。なぜ朝鮮へ兵を送ったのか。なぜ「皆で」という言葉だけで済ませたのか。あれほど天下を手に入れた男が、最後に何を一番恐れていたのか。


 いや、最後の一つだけは、もう知っている。十二日前の夜、この人は自分の手で書いた。


 なごりおしく候。


 名残惜しい。天下人の遺言の最後の一行は、ただ、それだけだった。


「あう。ちちうえに、あう」


 今度は、誰も止めなかった。三成が立ち上がり、黙って先に立った。その背中が、一度だけ、小さく揺れた。


【豊臣家滅亡確率】

97.6% → 計測中……


 数字は、しばらく出なかった。


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