第6話 母上という危機管理室
【豊臣家滅亡まで 残り6,119日】
会議の夜、俺は淀殿に叱られた。
「口を挟まぬと約束しましたね」
「いえやすが、きいたのです」
「聞かれても、笑っておればよいのです」
「わらいました」
「その後に尋ねました」
正確である。俺は膝の上で手を揃えた。五歳児の反省姿勢としては、かなり完成度が高い。
「ごめんなさい」
淀殿の表情が少しだけ緩んだ。
「分かればよいのです」
「でも、また、ききます」
緩んだ表情が元へ戻った。
「拾」
「だいじだからです。だれが、きめるか」
淀殿はすぐには答えず、侍女たちへ目を向けた。
「皆、下がりなさい」
侍女が退き、乳母も小姓も続く。襖が閉じられ、部屋には俺と淀殿だけが残った。淀殿は俺の正面へ座り直した。母親の顔ではなかった。天下人の城で政治を生きる人間の顔だった。
「誰に、何を吹き込まれました」
当然の疑いだった。五歳児が大老の意思決定手続きを気にしている。三成か、北政所の周辺か、それとも家康が何か仕掛けているのか。そう考える方が自然である。
「だれにも」
「では、なぜそのようなことを考えるのです」
前世のことは話せない。だが、適当な嘘を重ねれば、この人はいずれ必ず気づく。だから、一番簡単な本当のことを言った。
「こわいのです。ちちうえが、いなくなること」
淀殿の唇がわずかに震えた。
「きょう、みんな、ちちうえのせきを、みていました。いえやすは、としいえをみて、みつなりは、みんなをみていました。でも、ぼくは、すみにいました」
その言葉で、淀殿の目が変わった。政治の問いとして聞いていたものが、五歳児の孤独に聞こえたのだろう。淀殿は俺を抱き寄せた。
「拾を見ております。母も、皆も」
「ちがいます。いえやすは、いえやすのいえをみています。みんな、まもるものが、あります」
抱く腕に力が入った。長い沈黙のあと、淀殿は低い声で言った。
「……よくお聞きなさい。家康殿は、拾を守ると申します。利家殿も、三成も、清正も同じです。けれど、皆にはそれぞれ家があります。拾を守ることと自分の家を守ることが同じなら、皆は拾を守ります」
「ちがったら?」
「自分の家を守ります」
即答だった。
この人は、誰も信じていないのではない。人は最後には自分の守るべきものを守る、と信じているのだ。冷たいほどに、正確に人を見ている。
「ははうえは? とよとみのいえと、ぼくが、ちがったら」
尋ねた瞬間に後悔した。豊臣家の面目と、息子の命。史実の結末を知る俺には、あまりに残酷な問いだった。
淀殿は答えなかった。代わりに、両手で俺の頬を包んだ。
「違わせませぬ」
答えにはなっていない。だが、その一言にこの人のすべてが詰まっている気がした。息子も守る。豊臣も守る。一つも失わない。それが不可能でも、不可能だと認めない。
史実の淀殿は、滅亡を望んだわけではない。最後まで、何も捨てずに済む道があると信じ続けたのかもしれない。
「ははうえ。むかしも、こわかったですか」
頬を包む指が、止まった。
長い間があった。灯の芯が小さく鳴った。
「……母は、ちょうど拾の年でした」
淀殿が、ぽつりと言った。
「小谷の城が落ちた日のことです。夜なのに、空が昼のように明るかった。母上――お市の方様が、私と妹たちを抱いて、城を出ました。お初は泣いておりました。江はまだ赤子で、何も分かっておりませんでした」
淀殿の声は静かだった。何度も思い出し、何度もしまい込んできた声だった。
「私は、泣きませんでした。母上に、泣いてはならぬと言われたからです。泣けば、父上が悲しまれると」
「ちちうえ……あさいの」
「父上は、城に残られました。坂を下りながら、一度だけ振り返りました。天守が燃えておりました。父上のお顔は、見えませんでした」
淀殿は、俺の頬から手を離し、自分の膝の上で握りしめた。
「それが、最後です。私は、父上のお顔を最後に見ておりません」
俺は何も言えなかった。
「北ノ庄のときは、もう少し大きゅうございました。だから、よう覚えております。義父上と母上が、城に残ると決めた夜のこと。母上は、私たち三人を呼んで、一人ずつ髪を撫でてくださいました。それから、笑って、行きなさいと」
淀殿が、俺を見た。
「笑っておいででした。拾。母はね、あの笑い顔が、今でも一番怖いのです」
俺は、ようやく分かった。
この人にとって「家を守る」とは、理屈ではないのだ。一度譲れば次も奪われる。城を明け渡せば、大切な人が城と一緒に消える。四つの年から、それを二度、目の前で見てきた人なのだ。
「合理的に妥協しましょう」と言うのは簡単だ。だが合理性は、経験の外側には存在しない。何度も家を失った人間にとっては、譲らないことにも合理性がある。
「拾は、何も心配せずともよいのです。母が、すべて考えます」
危険な言葉だった。同時に、子供に向けられる言葉としては、これ以上ないほど優しかった。
「いっしょに、かんがえたいです」
「拾には、まだ早うございます」
「でも、ははうえは、ねていません。ねるひとも、ひつようです」
淀殿が黙った。図星だった。やがて、低く笑った。
「拾は、母を休ませたいのですか」
「はい」
「では、今宵は一緒に休みましょう」
その夜、俺は淀殿の部屋で同じ布団に入った。灯が消えても、伏見の城は眠らない。薬湯を運ぶ足音、遠い読経、誰かが声を潜めて泣く気配。淀殿は一定の速さで俺の背を撫でていた。俺が目を閉じても、その手は止まらなかった。
夜半に目を覚ますと、淀殿の呼吸は浅いままだった。
「ははうえ。いえやすは、こわいですか」
闇の中で、淀殿は少し考えた。そして、初めて隠さずに答えた。
「はい。あの方は、待てるからです。人は怒れば誤り、急げば足を滑らせます。家康殿は、怒っても待てます。拾が大きゅうなるまで待って、拾がご自分にとって要る者か、邪魔な者かを見極めるでしょう」
淀殿は、少し間を置いてから付け加えた。
「それに、あの家には、江がおります」
「ごう……」
「末の妹です。家康殿の御嫡男、秀忠殿に嫁いでおります。小谷から一緒に逃げた、あの赤子が、今は徳川の家の奥におるのです」
闇の中で、淀殿の声がかすかに揺れた。
「もし豊臣と徳川が争えば、私は妹と争うことになります。お初は京極に嫁いでおります。あの子は、きっと間に立とうとするでしょう。あの子は昔から、そういう子でしたから」
三人の姉妹。小谷の炎の中を、母に抱かれて逃げた三人が、今、それぞれ別の家にいる。豊臣、京極、徳川。そして、その家同士が争うかもしれない。
俺は歴史を知っている。大坂の陣で、お初は和睦の使者として姉と徳川の間を何度も往復する。江は、姉と甥が死ぬ城を、江戸から見ていることしかできない。
戦が起これば、この人はまた家族を失うのだ。今度は、妹たちと引き裂かれる形で。
「じゃまに、ならなければ、いいのでは」
「それでは、天下を取れませぬ」
「てんかは、いりません」
背を撫でていた手が止まった。
「拾。今は、そのようなことを申してはなりませぬ」
厳しい声だった。
この人には、単なる方針の話に聞こえないのだ。秀吉の人生を否定する言葉。そして何より、「また譲る」という言葉に聞こえる。
「……ごめんなさい」
しばらくして、俺はもう一度口を開いた。
「ははうえが、いちばん、こわいものは、なんですか」
今度は、答えがすぐに返ってきた。
「拾を失うことです」
豊臣の天下ではなかった。この城でもなかった。俺だった。
最初に向き合うべき相手は、豊臣政権の実力者としての淀殿ではない。息子を失うことを何より恐れる、四歳で父を失った一人の女なのだ。
「ぼくも、ははうえが、いなくなるのは、いやです」
演技ではなかった。この世界へ来て、まだ数日しかたっていない。それでも、眠らずに背を撫で続ける人を、ただの歴史上の人物として見ることは、もうできなかった。
淀殿が俺を抱き寄せた。
「では、二人とも、いなくならぬようにいたしましょう」
「はい」
今はそれでいい。天下をどうするかは、後で話せる。この人に、「家を残すこと」と「息子を残すこと」は対立しないと分かってもらう。いや、息子が生き残らなければ豊臣家そのものが終わるのだと。その一点だけは、きっと共有できる。
豊臣家を縛る最大のものは、家康でも、母でもないのかもしれない。天下人になったのだから天下人でなければならない。徳川より上だったのだから、頭を下げてはならない。創業者の成功は、創業者が死んだあと「守るべき伝統」に変わり、敵の軍勢より強く後継者を縛る。
【本日の豊臣家滅亡確率】
98.3% → 97.6%
〇・七。今日いちばん効いた施策は、母と同じ布団で寝たことだった。国家運営の教科書には、たぶん載っていない。
秀吉の死は、もうすぐそこまで来ていた。表示の上の日数が、一日ずつ、音もなく減っていく。




