第5話 五大老という取締役会
【豊臣家滅亡まで 残り6,119日】
三成は、本当に待っていた。
五歳児が口にした「あとで話したい」を、正式な予定として処理したらしい。夜になって、奉行衆の詰所の隅に通されると、三成は文机の前で筆を置き、俺に向かって居住まいを正した。
「五大老について、でございましたな」
「はい」
三成は短く、要点だけを話した。徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家。いずれも大領を持つ大名で、殿下の御病中と御他界後、拾様を後見する。奉行衆は政務の実務を担う。明日、その十人が揃い、改めて誓紙を交わす。
説明は完璧だった。無駄がなく、順序が正しく、五歳児には一言も分からないように出来ていた。
「あした、ぼくも、でたいです」
「本来は、御出座に及びませぬ」
本来は。つまり、絶対に駄目というわけではない。
「みるだけです」
三成はわずかに考え込んだ。その間に、俺は文机の上を見た。書状の山が三つ。墨の減った硯。指先には、洗っても落ちない墨の染みがついている。
「みつなり。ねましたか」
三成の筆を持つ手が、一瞬止まった。
「……必要なだけは」
「どれくらい」
「殿下の御容体が定まりましたら、休みまする」
定まる日は来ない。この人は、それを分かっていて言っている。
「みつなりは、どうして、そんなに、はたらくのですか」
五歳児の質問として、少し踏み込みすぎたかもしれない。だが三成は怒らなかった。灯を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「拙者は、寺の小僧にございました」
ぽつりと言った。
「鷹狩りの帰りに喉を渇かせた殿下へ、茶を三度お出しいたしました。一杯目はぬるく、たっぷりと。二杯目は少し熱く。三杯目は熱く、少しだけ。殿下はそれを面白がられて、拙者をお拾いくださいました」
三成の口元が、ほんのわずか緩んだ。この男が笑うのを、俺は初めて見た。
「拾様と同じにございますな。拙者も、殿下に拾われた者にございます」
胸の奥が、小さく痛んだ。
この男にとって秀吉は、主君である前に、自分の人生を拾い上げてくれた人なのだ。その人が、今、死にかけている。三成が眠らないのは、職務のためだけではない。眠れば、恩人の死が一歩近づく気がするのだろう。
「……明日の御出座の件は、淀殿へお諮りいたします」
三成はもう、いつもの顔に戻っていた。
翌朝。淀殿の「隅に座り、決して口を挟まぬこと」という条件つきで、俺は大広間の隅に座っていた。座布団を三枚重ねた上で、水係、菓子係、羽織係、厠係の四人を従えて。国家最高会議に菓子係を伴って出席した経営者は、世界史を探してもそう多くないだろう。
広間の中央には秀吉の席が用意されていた。本人はいない。空席だけがある。それだけで、今の豊臣政権の状態を説明していた。
大名たちが入ってくる。
最初に目を引いたのは、背の高い老人だった。前田利家。槍の又左と呼ばれた男は老いていたが、周囲の者がその存在を意識している。光秀だったころに見た利家より、ずいぶん痩せていた。
次に入ってきた男を見て、俺は無意識に姿勢を正した。
徳川家康。小柄で、動きはゆっくりしている。だが目だけが速い。広間へ入った瞬間に、誰がどこに座り、誰が誰を見て、隅に誰がいるかまで確かめたように見えた。ただし、確かめたことを相手に悟らせない。それが一番怖かった。
いつもの癖で、数字を見ようとした。
【人物評価:徳川家康】
統率 ?? | 戦術 ?? | 政務実務 ?? | 兵站財務 ??
交渉外交 ?? | 人望 ?? | 学習適応 ?? | 制度理解 ??
表示不能:対象者が情報を開示していません
見えなかった。
秀吉も、三成も、淀殿も、数字は勝手に出てきた。この男だけが、出てこない。
光秀だったころ、あの世界の家康の数字は、見えた。駿河の受け渡しの夜、酒を飲まずに話した男。【総評】待つ男。忍耐九十九。あの方は、待っている。――順番だ。そう思った。
この世界の家康は、数字を閉じていた。待つ男が、手の内まで、閉じている。
人の数字を覗く仕組みにまで、この男は手の内を見せないのか。
毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家。
向かいに、五奉行が並んだ。
筆頭は、浅野長政。北政所の縁につながる古参で、裁きの事を預かる。秀吉が足軽だったころから、身内のようにそばにいた男である。
石田三成。政務の要。昨夜、五歳児に完璧な説明をした男が、今朝も目の下に影をつくって座っていた。
増田長盛。普請と土木。城の石垣も、川の堤も、この男の帳面を通らなければ一つも積まれない。
長束正家。蔵と銭。豊臣の財布の紐を握る、勘定の達者だった。
前田玄以。寺社と朝廷への取り次ぎ。もとは僧で、京の所司代を長く務めた。剃った頭が、広間の灯りを静かに跳ね返していた。
五人とも、大老のような大きな領地は持っていない。秀吉が、自分の手足として育てた家来たちだった。大老が天下の重しなら、奉行は手だった。決めたことを紙にし、蔵を開け、人を動かす。
大老五人と、奉行五人。十人が並ぶ。
一番若いのは宇喜多秀家だった。二十代の半ば。秀吉の養女を妻に迎え、幼いころから秀吉に育てられた男である。広間へ入るなり、空席を見て唇を噛み、それから隅の俺に気づいて、深々と頭を下げた。他の誰よりも、長く。
この人は、秀吉を父のように思っているのだ。史実では、関ヶ原で最後まで西軍として戦い、八丈島へ流され、そこで八十を過ぎるまで生きた。豊臣家が滅んだあとも、ずっと。
そういう未来を知っている目で、頭を下げてくる若者を見るのは、あまり気分のいいものではなかった。
現代企業の取締役会と呼べば分かりやすい。だが彼らは会社員ではない。それぞれが領地を持ち、兵を持ち、家臣を持つ。自分自身も巨大企業の社長である者たちが、豊臣グループの共同経営会議に参加しているようなものだった。当然、豊臣家の利益だけでは動かない。
三成が誓紙を読み上げた。拾様を守護すること。私婚を結ばぬこと。無断で兵を動かさぬこと。
文言は立派だった。問題は、それを誰がどう守らせるかだ。
「異議がございましたら」
沈黙。三成が次へ進もうとしたとき、家康が口を開いた。
「拾君。御退屈ではござらぬか」
全員の顔がこちらを向いた。淀殿との約束は、俺が破る前に家康によって無効になった。
穏やかな声だった。だが、試されているのが分かった。この子はどこまで分かっているのか。誰かに入れ知恵されているのか。
試験は受けても、答案を全部見せる必要はない。
「おかし、おいしいです」
菓子を一つ持ち上げると、何人かの奉行の肩から力が抜けた。家康も笑った。
「それは、ようございました」
「でも」
家康の笑顔は消えない。
「どうして、いえやすが、きくのですか」
広間が静まった。進行しているのは三成だ。なぜ家康が、代表するように俺へ声をかけたのか。
「年長者ゆえ、気になりましてな」
「としいえも、としうえ?」
利家が低く笑った。
「わしも、十分に年寄りにございます」
場の緊張がほどけた。利家がこちらを向く。
「拾様。何か分からぬことがございましたかな」
うまい。家康と俺の間に生まれかけた火花を、子供の質問という形に包み直した。この人がいるうちは、まだ均衡が取れる。
俺は誓紙を指さした。
「だれかが、これをやぶったら。だれが、とめるのですか」
また、広間が静まった。
誰が違反だと認めるのか。誰が調べるのか。大老の一人が破ったら、残りの大老が裁くのか。秀吉が生きていれば簡単だった。秀吉が怒れば終わる。だが、秀吉がいなくなるからこそ、この制度を作っているのだ。
「皆で止めます」
利家が答えた。秀吉と、同じ答えだった。
家康は何も言わない。表情にも出さない。だからこそ、何を考えているのか分からない。
会議が終わると、家康が俺の前に来た。
「拾君は、よい問いをなさる」
「いえやすは、こたえませんでした」
利家が咳払いをした。家康は怒らず、目をほんの少しだけ細めた。
「答えは、いずれ。拾君が、もう少し大きゅうなられた頃に」
去っていく背中を見送りながら、俺は考えた。未来を知っているからこそ、家康を「豊臣を滅ぼす敵」と決めつけたくなる。だが、未来の結果から今の動機を逆算すれば、判断を誤る。今の家康が何を望んでいるかは、まだ本人にしか分からない。
【豊臣政権 主要リスク】
徳川家康の影響力拡大 七十八
大老間対立 八十二
奉行・武断派対立 八十六
意思決定停止 九十六
最大の数字は、家康ではなかった。
豊臣家は、家康に倒されるとは限らない。その前に、自分たちで何も決められなくなるかもしれない。中央が決められなければ、大名は自分の家を守るために勝手に動き出す。穴が開けば、誰かが埋める。穴を作る原因は、埋めた人間ではない。
利家が、ゆっくりと俺の前まで来た。立ち上がるとき、右手が一瞬だけ畳についたのを、俺は見逃さなかった。
大きな手が、俺の頭に置かれた。
「よう、お座りになりました」
「ねませんでした」
「それは大手柄にございますな」
利家は笑った。笑うと、目尻の皺が深くなった。光秀だったころ、利家に会ったのは、北ノ庄での一度きりだった。柴田殿の配下で、照れくさそうに絵図を広げた男。《絵は、読み違え申さぬ》。この世界の利家の笑い方は、それより、ずっと、疲れていた。
その利家が、今は俺の頭を撫でながら、少しだけ息を整えている。
「としいえ」
「はい」
「つかれていますか」
利家は一瞬、目を丸くした。それから、声を落とした。
「御方様には、内緒にしてくだされ」
冗談めかした口ぶりだった。だが、否定はしなかった。
この人がいるうちは、均衡が取れる。問題は、この人がいなくなったあとだ。俺はその「あと」の日付を、おおよそ知っていた。
片付けの始まった広間で、三成だけがまだ誓紙の写しを揃えていた。
「みつなり」
「は」
「みんなが、ちがうことをいったら、さいごは、だれがきめるのですか」
三成の手が止まった。いつもなら質問が終わる前に答えを用意している男が、数秒、何も言わなかった。
「……太閤殿下の御定めに従い、大老・奉行にて御相談申し上げます」
「そうだんしても、きまらなかったら?」
三成は、もう答えなかった。
困らせたいわけではなかった。この男ほど手続きを大事にする人間が答えられないなら、制度そのものに答えがないのだ。
広間の中央には、最後まで秀吉の席が残っていた。誰も座らない。誰も座れない。
そして俺のすぐそばには、もう一人、巨大な意思決定者がいる。俺を守るためなら、何をするか分からない人。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.9% → 98.3%
上がった。会議に出て、菓子を食べて、質問をしただけで、上がった。いや、上がったのではない。隠れていた数字が、見えただけだ。
次に理解しなければならないのは、制度ではなかった。母だった。




