第67話 みんな正しい夜
【豊臣家滅亡まで 残り5,675日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り336日】
その夜、俺は、一人で紙を見ていた。
正確に言えば、一人ではなかった。
「秀頼」
淀殿がいた。呼んだわけではない。母は、呼ばなくても来る。特に、俺が夜更かしをしているときは。
「今、何刻だと思うておいでです」
「……ねのこくより、まえ」
「答えになっておりませぬ」
前の世でも、母親には勝てなかった。この世でも、勝てない。
淀殿は、俺の前に座り、広げた紙をのぞき込んだ。朝鮮の役の、物の流れの紙だった。港。倉。草鞋。死んだ者の数。遅れた日数。偽りの知らせ。
「まだ、死人を数えておるのですか」
「かぞえないと、おなじ、しにんを、だす」
「数えても、戻りませぬ」
「……うん」
母の声は、冷たかった。だが、死んだ者を軽んじているのではなかった。逆だった。
淀殿は、失った者を数えない。数にすると、一人ずつの顔が消えてしまうからだ。小谷の城で死んだ父。北ノ庄の城で死んだ母。数えれば、二になる。二にしたくないのだ。
俺は、数える。数えなければ、仕組みが見えないからだ。
どちらも、正しかった。
今日は、それが何度も出てきた。三成は、全体を守ろうとした。清正は、目の前の兵を守ろうとした。正則は、仲間の心を守ろうとした。家康は、自分の家と、次の世の秩序を守ろうとしている。淀殿は、俺と豊臣の名を守ろうとしている。利家は、皆が同じ部屋にいることを、守ろうとした。
全員が、何かを守ろうとしている。全員が、正しい。
それなのに、豊臣家は、滅びに向かっている。
「ははうえ」
「何です」
「ただしい、ひとどうしが、けんかしたら、どうするの」
淀殿は、すぐには答えなかった。灯明の火が、少し揺れた。
「勝った方が、正しかったことになります」
戦国の答えだった。
「じゃあ、まけたほうは、まちがってたの」
「そう、書き残されます」
正しいかどうかではない。書き残されるかどうか。残るかどうか。勝つかどうか。
俺は、この先を知っている。
三成は、天下を乱した奸臣と書かれる。淀殿は、豊臣を滅ぼした女と書かれる。秀頼は、母の陰に隠れて何もできなかった子と書かれる。勝った家の歴史が、そう書く。四百年、誰も疑わない。
だが、俺は知っている。書き残されたことが、本当のこととは限らないことも。
「おれは、かったひと、だけが、ただしい、くにには、したくない」
淀殿が、俺を見た。
六つの息子を見る目ではなかった。何か、別のものを見る目だった。
「……ならば」
淀殿は、言った。
「負けても生きる道を、先に作りなさい」
俺は、紙の端に、新しい線を引いた。
勝つ。負ける。その二つだけではない道。戦を止める。退く。降る。国替え。武士をやめて村に帰る。別の家に仕え直す。人質を交わす。縁組み。仲裁。責めを限る。逃げ道を用意する。
前の世なら、撤退の条件と呼んだ。この世では、負けた者の命乞いと呼ぶ。
だが、負けた者が皆殺しにされる決まりは、勝つ側にも危うい。負けられない者は、最後まで戦う。最後まで戦われれば、勝つ側も死ぬ。
「ははうえ。とうさまは、まけたひとを、どうしてた」
淀殿は、少し考えた。
「殿下は……負けた者に、次の役を、お与えになることがございました」
「やく」
「敵であった者を、味方になさる。それを、楽しんでおられました」
島津を許した。長宗我部を残した。北条の者も、何人かは拾った。秀吉の一番の力だった。人を拾う力。
だが、それは、秀吉という一人の気分だった。決まりではなかった。
秀吉がいなくなった今、誰が、負けた者に役を与えるのか。
家康には、それがある。降った者を、領地に戻す。減らして残す。家来にする。人質を取る。縁組みで縛る。徳川の秩序の中に、席を作る。
だから、大名は家康に近づくのだ。家康が正しいからではない。家康の側には、負けたあとの席があるからだ。
豊臣の側には、勝ったときの名誉しかない。負けたときの椅子がない。
「ははうえ。とよとみに、まけたひとの、せきを、つくる」
淀殿の目が、細くなった。
「……敵を、城に入れる、と聞こえまするが」
「ちがう」
たぶん、違わなかった。
「てきが、さいごまで、てきで、いなくて、いい、みちを、つくる」
淀殿は、長いこと、俺を見ていた。
「秀頼。それは、とても危うい考えにございます」
「どうして」
「敵を赦せば、味方が怒ります」
その通りだった。三成を赦せば、清正が怒る。清正を赦せば、三成が怒る。家康と和せば、豊臣恩顧の者が怒る。家康を敵にすれば、徳川に娘を嫁がせた大名が怯える。
全員が、自分の痛みを物差しにする。
だから、赦しにも、決まりが要る。誰を。何について。どこまで。いつまで。何を条件に。誰が決めるか。
「ゆるすんじゃない。じょうけんを、きめる」
淀殿は、少しだけ笑った。
「六つの子が、条件を決めるのでございますか」
「むっつだから、いま、きめる」
大人になれば、俺にも恨みが増える。敵ができる。家来を失う。母を傷つけられる。そのとき、公平な条件を作れるとは限らない。決まりは、気持ちが荒れていないときに作る。気持ちが荒れたときに、使えるように。
俺は、紙に書いた。
一、兵を解けば、家族を罰しない。
二、降参の使者と、知らせの使者を、殺さない。
三、村と町の略奪は、主君の咎とする。
四、降参の条件を、書き物にする。
五、条件を守った者を、あとから罰しない。
四つ目のところで、淀殿が、顔を上げた。
「書き物など、破られまする」
「だから、やぶったひとが、わかる」
守られる約束ではない。だが、破ったという事実が残る。次に話し合うとき、使える。信用を、書き残す。
淀殿は、その紙を手に取った。
「これを、誰に見せるのです」
「まだ、だれにも」
「では」
淀殿は、紙を、きちんと四つに折った。
「わたくしが、預かります」
「どうして」
「六つの子が、負けたときのことを考えておると知れたら、皆が、豊臣は負けると思うておる、と取ります」
正しかった。決まりは、早すぎても危うい。
「……ははうえは、みかた?」
淀殿は、少し怒った顔をした。
「母です」
味方より、強かった。
淀殿は、折った紙を袖にしまって立ち上がった。戸口で、一度、振り返った。
「秀頼」
「うん」
「皆が正しいと、思うてはなりませぬ」
驚いた。
「正しい者も、間違えます。正しいと思うときほど、大きく」
その言葉が、部屋に残った。
全員が正しい。だから、全員の判断を、そのまま通してはいけない。正しさを止める手続きが、要る。
【豊臣家組織診断 争いの原因】
悪意 12%
利害の食い違い 31%
正しさ同士のぶつかり合い 57%
一番大きいのは、悪意ではなかった。正しさだった。
俺は、紙の真ん中に、一行だけ書いた。
《ただしいひとを、とめる、てつづき》
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.8% → 96.9%
少し上がった。答えは見えた。だが、正しい者を止める手続きは、正しい者に一番嫌われる。
灯明の油が、残り少なくなっていた。
俺は、紙を片付けながら、四つに折られた紙のことを考えていた。母は、あれを、どこにしまうのだろう。袖の中か。文箱の底か。それとも、捨てるのか。
たぶん、捨てない。母は、失ったものを数えないが、捨てもしない人だ。
寝所へ向かうと、廊下の先に、淀殿が立っていた。
「ははうえ?」
「夜道は、危のうございますゆえ」
「おなじ、おしろの、なか」
「六つにございます」
淀殿は、黙って、俺の手を取った。冷たい手だった。寝所の前まで、離さなかった。
言い返せなかった。母の袖の中で、四つに折った紙が、かさりと鳴った。




