第63話 祝い水
【豊臣家滅亡まで 残り5,680日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り341日】
酒を出すな。
そう命じた。三度、書かせた。口でも言った。小姓にも言った。台所にも言った。正則本人にも言った。
「酒は、出しませぬ」
「うん」
「決して、出しませぬ」
正則は、胸を張って答えた。その返事を信じた俺が、悪かった。
宴の部屋は、福島家の大坂屋敷の広間だった。膳が並んでいた。焼き魚。煮物。飯。汁。栗の菓子。そして、膳の真ん中に、抱えるほど大きな徳利が一本。
「……これは」
正則が、胸を張った。
「酒ではございませぬ」
「なに」
「祝い水にございます」
酒だった。部屋に入った瞬間から、匂いで分かっていた。
「みずに、しては」
「は」
「かおりが、つよいね」
「米の心が、込もっておりまする」
酒だった。
「こめの、こころ」
「さようにございます。米の心と、水の心が、一つになったものにて」
それを、酒と言うのだ。
三成が、徳利をじっと見た。
「酒と、記録いたしまする」
「祝い水じゃ」
「酒にございます」
「飲めば分かる」
「飲まずとも分かりまする」
始まった。宴が始まる前から、始まった。
俺は、徳利を下げさせた。家来が二人がかりで運んでいく徳利を、正則は、目で追っていた。大名が、六つの子供に酒を取り上げられた顔ではなかった。飼い犬を連れて行かれる子供の顔だった。
「……一杯だけ」
「だめ」
「半分」
「だめ」
「香りだけ」
「はなを、ちかづけないで」
清正が、少し笑った。三成の口元も、ほんの少しだけ動いた。
正則は、それを見逃さなかった。
「治部! 今、笑うたな!」
「笑っておりませぬ」
「笑うた!」
「口の端が、一分ほど動いただけにございます」
「それを笑うと言うのじゃ!」
「一分では、笑顔とは申しませぬ。笑顔の基準は、少なくとも」
「基準を言うな!」
うるさかった。だが、前とは違った。正則が怒鳴っている。三成が言い返している。清正が、それを横で見て笑っている。誰も、刀に手を伸ばさない。
この宴には、目的があった。帰った兵と遺族への扶持。急訴状。届いた量で数える帳面。三つの決まりを、三人の家中に広めること。
「まさのりに、せつめいを、たのみたい」
正則が、目を丸くした。
「わしが、決まりを説明するのでございますか」
「うん」
「治部ではなく」
「うん」
三成が、少しだけ不満そうな顔をした。
「……なぜでございましょう」
「まさのりの、けらいは、まさのりの、はなしを、きくから」
「拙者の話は」
「なかみは、きく。でも、ひとは、きかないことが、ある」
三成は、俺を見た。もう、分かっている顔だった。痛いが、受け入れている顔だった。
「まさのりが、みつなりの、ことばを、まさのりの、ことばにして、つたえる。みつなりは、なかみが、かわってないか、たしかめる。きよまさは、げんばで、つかえるか、たしかめる」
言葉を作る者。伝える者。現場で使う者。一人では足りない。三人なら、強い。
「では、きゅうそじょう」
正則は、腕を組んだ。天井を見た。
「……困ったら、早う言え」
短かった。
「それだけで、ございますか」
三成が言った。
「早う言えば、斬らぬ」
「偽りの場合は、罰しまする」
「嘘は、いかん」
正則が付け足した。
「しくじった場合は」
清正が聞いた。
「しくじっただけなら、斬らぬ」
分かりやすかった。とんでもなく、分かりやすかった。三成が七日かけて書いた条文が、三行になった。三成は、少し悔しそうだった。
「つぎ。とどいた、りょう」
「出した飯ではなく、食えた飯を、数えろ」
清正が、大きく頷いた。三成が、それを書き留めた。
「つぎ。かえったへいの、ふち」
正則の顔から、笑いが消えた。
「……帰ってきた者を、帰ってきたから、それで終わりにするな」
部屋が、静かになった。
「傷がある者。働けぬ者。家族をなくした者。……眠れぬ者」
「ねむれない、ひとも?」
「夜に、起きておるのでございます」
正則は、膳の上の箸を見ていた。
「戦が終わっても、音が聞こえると申す。鉄砲の音。太鼓の音。……わしの家来にも、酒を飲まねば眠れぬ者が、何人もおりまする」
三成は、何も言わなかった。清正も、黙っていた。
「拾様。酒を禁じれば、眠れぬ者も、おりますぞ」
宴の酒と、傷の酒は、同じではなかった。
俺は、自分が、あまりに簡単に「酒を出すな」と言ったことを、少し恥じた。正則は、ただ酒が好きなだけではなかったのだ。酒が要る者たちを、知っていたのだ。
清正が、ぽつりと言った。
「朝鮮で、こやつは、夜ごと、兵の小屋を回っておりました」
正則が、顔をしかめた。
「言うな、虎之助」
「酒を持って回っておった。眠れぬ者に、一杯ずつ注いで回っておった。……自分は、一滴も飲まずに」
「言うなと申しておる!」
正則が怒鳴った。だが、机は叩かなかった。耳が、赤くなっていた。
「酒は、減っておったがな。翌朝、わしの陣の酒まで、なくなっておった」
「……それは、少し飲んだ」
部屋に、小さな笑いが戻った。三成までが、下を向いて肩を揺らしていた。
俺は、正則を見ていた。宴のたびに酒を出そうとする男。机を叩く男。襖を外す男。その男が、朝鮮の冬の夜に、眠れない兵の小屋を、徳利を抱えて一つずつ回っていた。
「……くすしに、そうだん、できるように、する」
「医師は、腹や傷は診ても、夢までは診ませぬ」
その通りだった。
だから、聞く者が要る。同じ戦に行った者。僧。家族。休める場所。酒のほかの眠り方。治せはしない。だが、放っておかない。
「まさのり」
「は」
「かえったへいの、はなしを、きく、やくを、たのみたい」
正則は、今度こそ、本当に目を丸くした。
「わしが」
「うん」
「治部ではなく」
「みつなりは、かきとめる。きよまさは、しごとを、つくる。まさのりは、はなしを、きく」
正則は、しばらく黙っていた。大きな手が、膝の上で握られた。
「……拾様」
「うん」
「わしは、人の話を聞くのが、上手ではございませぬ」
初めてだった。正則が、自分の苦手を、自分の口で言ったのは。
「はなすのは、じょうず」
「は」
「きくのは」
「……下手にございますな」
「れんしゅう、して」
正則は、大きく息を吐いた。
「治部の雑談と、同じでございますか」
「にてる」
三成が、正則を見た。
「雑談には、目的がございます」
「お前、少し前まで、分からぬと言うておったではないか」
「学びました」
「腹が立つ」
「なぜでございましょう」
「その顔じゃ」
また始まりかけた。今度は、清正が止めた。
「正則。拾様の前じゃ」
「治部もおるぞ」
「それは、いつものことじゃ」
清正が、少し笑った。三成の口の端も、一分ほど動いた。
宴は、酒なしで終わった。正則は、三度、台所をのぞきに行った。三度とも、俺の小姓の弥七が、先回りして止めていた。雨の日が好きな弥七は、宴の日にも強かった。
帰り際、正則が、俺の前に膝をついた。
「拾様」
「うん」
「次は、祝い水を」
「ださない」
「まだ、何も」
「ださない」
先に言った。学んだのだ。
【人物評価:福島正則】
対人影響力 93
傾聴 41
感情制御 ――
感情制御の数字が、一瞬、消えた。
【測定中】
嫌な予感がした。
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.9% → 96.8%
屋敷の門を出るとき、振り返ると、福島家の広間の灯りは、まだ消えていなかった。縁側に、大きな影が一つ、座っていた。手には、何も持っていなかった。徳利を下げさせたのは、俺だった。
帰りの駕籠の中で、俺は、正則の言葉を思い出していた。酒を飲まねば眠れぬ者が、何人もおりまする。
何人も、と言った。自分のことは、言わなかった。
あの男は、今夜、眠れるのだろうか。




