第60話 帳面に書けないもの
【豊臣家滅亡まで 残り5,686日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り347日】
翌朝、清正が一人で来た。
正確に言えば、供の者はいた。だが、部屋に入ってきたのは、清正だけだった。
珍しかった。以前の清正は、三成のいる城に上がるとき、必ず左右に家来を置いていた。証人として。護衛として。そして、万一のときに、自分を止める者として。今日は、誰もいなかった。
「とらのすけ」
俺は、幼名で呼んだ。父が、そう呼んでいたからだ。
「は」
清正は、深く頭を下げた。
「きのうは、ありがとう」
「礼を言われることではございませぬ。為すべきことを、為したまでにて」
三成も、同じことを言う。言葉は同じだった。だが、響きが違った。三成は、決まりだから為す、と言う。清正は、自分が背負うものだから為す、と言う。
【人物評価:加藤清正】
統率 93
武勇 90
築城 99
兵站 94
現場信頼 96
中央政務 61
妥協耐性 32
妥協耐性、三十二。低い。一度こうと決めたら、曲げない。三成と同じだった。やり方が違うだけで、二人とも、とんでもなく頑固なのだ。
「とらのすけ。きょうは、はなしを、ききたい」
清正の眉が、少し動いた。
「拙者の話を、でございますか」
「うん。ちょうせんで、なにが、あったか」
部屋が、静かになった。
清正は、すぐには答えなかった。膝の上で、手が握られた。以前なら、ここで顔色が変わっていた。朝鮮の話は、責めの話だった。誰が悪かったのか。誰が命令に背いたのか。誰が手柄を偽ったのか。清正は、その話で、一度、秀吉の前で謹慎を命じられている。三成の報告のせいだと、清正は今も信じている。
「……拾様は、何をお知りになりたいのでございましょう」
良い問いだった。
前の世なら、答えは決まっていた。失敗の分析。原因。再発防止。責任の所在。だが、その言葉を、最初に清正に向ければ、また同じことになる。
「とらのすけが、なにを、まもろうとしたか」
清正が、顔を上げた。
「……何を、守ろうとしたか」
「うん」
長い沈黙だった。庭で、鵯が鳴いた。
清正は、自分の手を見ていた。太い指だった。刀と槍と、石と土を、何十年も握ってきた指。兵の肩を掴んで、引きずり起こしてきた指。
「……兵にございます」
声は、静かだった。
「拙者の兵を、生きて、帰すことを」
「かつことじゃ、なくて」
「勝たねば、帰れませぬ。されど」
清正は、俺を見た。
「勝つために戦うのでは、ございませぬ。帰すために、勝つのでございます」
小さな違いだった。だが、決定的な違いだった。
三成は、戦の全体を見ていた。一万の兵が、数字として見えていた。清正は、目の前の兵を見ていた。一万の兵の、一万の顔が見えていた。どちらも要る。どちらか一つだけでは、国は回らない。
「しろを、たくさん、つくったのも」
「兵を帰すためにございます」
即答だった。
「うるさんも」
「籠もるためではございませぬ。生き残るためにございます」
蔚山。冬の城。水も食糧も尽き、兵は壁土を煮て食べ、馬の血をすすった。清正は、その城で、明と朝鮮の大軍に囲まれて、年を越した。
「……あの冬、拙者は、毎朝、城の中を回りました」
清正は、ぽつりと言った。
「兵の顔を、一人ずつ、見て回りました。顔色の悪い者には、拙者の粥を分けました。……粥といっても、米が十粒も浮いておらぬ湯にございます。それでも、殿が分けてくださった、と申して、泣く者がおりました」
「……とらのすけは、たべたの」
「食いませなんだ。拙者が食えば、一人分、減りまする」
清正は、何でもないことのように言った。
「年が明けて、援軍が来たとき、拙者の城の兵は、半分ほどに減っておりました。……残りの半分は、拙者が、毎朝、顔を見て回った者たちでございました。顔を見ておった者は、ほとんど死にませなんだ。見なかった者から、死んでいきました」
俺は、清正の顔を見ていた。その話を、たぶん、誰にもしたことがなかったのだろう。
「……石垣は、嘘をつきませぬ」
清正の目が、遠くなった。
「土が弱ければ、崩れまする。石が合わねば、隙間ができまする。水の道を誤れば、雨で壊れまする。……兵も、同じにございます。食わせねば倒れる。休ませねば判断を誤る。逃げ道がなければ、死ぬまで戦う」
清正は、そこで言葉を切った。
「拾様。帳面には、石垣の冷たさは、書けませぬ」
「……うん」
「雪の中で、濡れた具足のまま朝を待つ兵の、歯の鳴る音も。粥が薄くなるたびに、黙って器を隣に回す者の手も」
俺は、何も言えなかった。
三成の帳面は、要る。だが、帳面に書けないものも、要る。その二つを、この国は、別々の男に持たせてしまった。そして、二人を仲違いさせた。
清正は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……されど」
「うん」
「帳面がなければ、誰が帰らなかったかも、分かりませぬ」
俺は、清正の顔を見た。
「弥助も、源太も、佐吉も。治部が、仮名で書き取った紙がなければ、あの者たちの名は、拙者の頭の中にしか残りませぬ。拙者が死ねば、それで終わりにございます」
昨日までなら、決して口にしなかった言葉だった。三成の仕事を、認めている。小さく。とても小さく。
「……いまのはなし、みつなりに、できる?」
清正の顔が、硬くなった。
「それは……」
まだ、無理か。
「すぐじゃ、なくて、いい」
「……承知いたしました」
完全な拒絶ではなかった。今は、それで十分だった。
清正が帰ったあと、数字が開いた。
【人物評価:加藤清正】
石田三成への警戒 61
石田三成の必要性認識 26 → 41
警戒は、まだ高い。だが、その下の数字が、上がっていた。
ゆっくりでいい。人の気持ちは、掟のように一日では変わらない。……いや。ゆっくりでは、間に合わないかもしれない。関ヶ原まで、一年を切っている。
俺は、手元の紙に、清正の言葉を書き留めようとした。帰すために勝つ。石垣は嘘をつかぬ。書いて、手が止まった。書いた途端に、言葉が軽くなる気がした。帳面に書けないものを、帳面に書こうとしていた。
結局、紙は白いまま、文箱にしまった。
その昼、廊下の向こうから、地響きのような足音が近づいてきた。
「拾様ぁっ!」
福島正則だった。
嫌な予感がした。こういう足音のときの正則は、たいてい、机か襖か、どちらかが犠牲になる。
正則は、部屋の入口で仁王立ちになった。
「虎之助だけ、お呼びになったと聞きましたぞ!」
「……よんで、ない。きよまさが、きた」
「一人で、でございましょう! 二人きりで、朝鮮の話を!」
「うん」
「わしも、朝鮮に行きましたぞ!」
知っている。
「わしも、兵を帰しましたぞ!」
知っている。
「わしの話は、聞かれぬのでございますか!」
正則の目が、少し潤んでいた。
嫉妬だった。六つの子供の面談の順番に、大名が嫉妬していた。
【人物評価:福島正則】
加藤清正への対抗意識 測定不能
拾様への忠誠 92
面談への期待値 100
面談への期待値、百。家康の待機能力と、同じ数字だった。こんなところで満点を出さないでほしい。
「……まさのり。すわって」
「座りまする!」
正則は、どかりと座った。畳が鳴った。
「まさのりの、はなしも、きく。でも、きょうは――」
「今日は?」
「……きょう、きく」
正則の顔が、ぱっと明るくなった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.5% → 97.4%
正則の話は、夕方まで続いた。半分は酒の話で、半分は清正の悪口で、最後の少しだけが、朝鮮の冬の話だった。
その、最後の少しを聞くために、半日かかった。
雪の夜に、見張りの兵が一人、凍えて死んだ話だった。正則は、その兵の名を、今も覚えていると言った。言ってから、急に黙り込んで、「酒を持て」と言いかけて、やめた。




