第56話 鮎の頭
【豊臣家滅亡まで 残り5,704日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り365日】
落ち鮎は、十二尾あった。
清正の家来が、桶に入れて担いできた。朝のうちに川で獲ったのだという。まだ、桶の中で一尾が跳ねていた。
「肥後の鮎ではございませぬが。淀川のも、悪うはござらぬ」
清正は、そう言って、台所の者に焼き方を細かく指図した。塩は振りすぎるな。串は背からではなく口から。焦がすのは尾だけ。朝鮮の城で、兵に食わせる飯の段取りまで自分で見ていた男だ。魚一尾にも手を抜かない。
昼の膳は、俺の居間に用意させた。広間ではない。評議の席でもない。畳六枚の、狭い部屋。
三成は、約束の刻限ちょうどに来た。一瞬の遅れもなかった。
清正は、先に座っていた。三成が入ってきても、立たなかった。三成も、頭を下げただけだった。
「……本日は」
三成が、何か言いかけた。窓の外を見た。雑談の試行が、始まろうとしていた。
「湿気の話なら、要らぬ」
清正が言った。
三成が、固まった。
「片桐が、わしのところにも来た。湿気七分と、鞍の話をしておった」
「……さようでございましたか」
「あれは、雑談ではない」
「では、何でございましょう」
「知らぬ。されど、鞍の話は、役に立ったそうじゃ」
三成は、少しだけ、ほっとした顔をした。
鮎が運ばれてきた。こんがりと焼けて、腹の塩が白く光っていた。
清正は、串を持つと、ためらいなく頭からかぶりついた。骨ごと、ばりばりと噛んだ。
三成は、串を持ったまま、じっと鮎を見ていた。箸で、身を骨から外そうとしていた。背の皮を剥がし、中骨をそっと持ち上げ、腹の小骨を一本ずつ抜いていく。算用のような手つきだった。
「治部」
「は」
「頭から食え」
三成は、手を止めた。
「頭から、でございますか」
「鮎は頭から食うものじゃ」
「骨が、刺さりませぬか」
「刺さらぬ。頭から食えば、骨は刺さらぬ。骨を抜こうとするから、刺さるのじゃ」
三成は、しばらく鮎と清正を見比べていた。やがて、覚悟を決めたように、頭からかじった。
噛んだ。
止まった。
「……刺さりました」
「刺さったか」
「刺さりました。上顎に」
「……個人差があるな」
清正が、真面目な顔で言った。俺は、茶碗で顔を隠した。肩が揺れるのを止められなかった。
三成は、指で上顎の骨を取りながら、恨めしそうに清正を見た。清正は、知らぬ顔で二尾目に取りかかっていた。その口元が、わずかに緩んでいた。
「きよまさ。こじんさ、って、いうんだ」
「わしが言うたのではござらぬ。昔、殿下が申された。殿下は、頭から食うて、よう骨を刺しておられた」
清正は、串を置いた。
「刺さるたびに、個人差じゃ、と仰せになった。……それで、皆、笑った」
部屋が、少し静かになった。
二尾目を食べ終えたところで、清正が、懐から紙を出した。
「治部。これを見よ」
肥後の治水の見積もりだった。白川と緑川の堤。朝鮮から戻った兵を、そのまま普請に回す。扶持の代わりに、仕事を出す。清正らしい案だった。
三成は、紙を受け取ると、鮎の串を置き、目を細めた。空気が、変わった。
「……人足の数が、多うございます」
「帰った兵を、遊ばせておけぬ」
「普請の費用が、肥後の年貢の三割に当たりまする。この三割で、城の蔵が」
三成は、そこで口を閉じた。
札のことを、思い出したのだ。一、相手が守るもの。
「……清正殿は、帰った兵を、食わせようとしておられまする」
清正の眉が動いた。
「そうじゃ」
「拙者が守りたいのは、来年、洪水が来たときの、肥後の蔵にございます。結論。普請は、二年に分けていただきとうございます。理由は」
三成は、指を三本立てた。
「一つ。一度に三割は、蔵が持ちませぬ。二つ。兵の中には、傷を負うて普請に耐えぬ者がおりまする。その者の損耗を――」
「損耗と書くな」
清正の声が、低くなった。
三成が、止まった。
「兵は、損耗ではない。怪我をした者じゃ。足をなくした者じゃ。目が見えなくなった者じゃ。……帳面に、損耗と書くな」
部屋の空気が、張り詰めた。鮎の串が、皿の上でかたりと鳴った。
三成は、紙を見下ろしていた。長いこと、そうしていた。
俺は、口を挟まなかった。挟めば、それで終わる。六つの子供が「なかよく」と言えば、二人は黙る。黙って、それぞれの屋敷に帰って、腹の中にしまう。しまったものは、四百日後に、関ヶ原で出てくる。
「……では、何と書けば、ようございますか」
三成が、言った。
清正が、顔を上げた。
「損耗と書かぬなら、何と書くか。拙者には、分かりませぬ。帳面には、一言で書かねばなりませぬ。一人ずつの事情を書けば、紙が千枚要りまする」
責めている声ではなかった。本当に、分からないのだ。
清正は、しばらく黙っていた。
「……傷兵、でよい」
「傷兵」
「損耗は、物に使う言葉じゃ。刀が欠けた。船が沈んだ。兵は、物ではない。傷兵と書け。それなら、読んだ者が、人の顔を思い出す」
三成は、筆を取った。紙の端に、小さく書いた。《損耗→傷兵》
「……承知いたしました。以後、傷兵と」
「うむ」
清正は、それだけ言って、三尾目の鮎に手を伸ばした。
三成は、その手元を見ていた。それから、自分の皿の二尾目の鮎を見た。
頭から、かじった。
噛んだ。今度は、止まらなかった。
「……刺さりませなんだ」
「そうか」
清正は、鮎を見たまま言った。
「治部。普請は、二年でよい。ただし、傷兵の扶持は、一年目に全部出せ」
「それでは、一年目の蔵が」
三成は言いかけて、止まった。指を折って、何か数えた。
「……一年目に、全部。承知いたしました。蔵の不足分は、拙者が大坂の蔵から回しまする」
「できるのか」
「できるところから、申しております」
清正が、初めて、まともに三成の顔を見た。
【人物評価・補足:石田三成】
言い換え能力 新規 8
【人物評価・補足:加藤清正】
石田三成への警戒 71 → 68
三。小さい。だが、損耗という一語が、傷兵という一語に変わった。それだけで、清正の数字が動いた。
食べ終えた串を、清正は、きちんと皿の端に揃えて並べた。六本。三成の皿には、二本。俺の皿には、一本と、半分残った鮎。
「拾様。残されますか」
「……ほね、こわい」
清正は、少し考えてから、俺の鮎を取り上げた。頭と骨をきれいに外して、身だけを皿に戻した。太い指が、驚くほど器用に動いた。
「殿下にも、こうしてお出ししておりました。殿下は、頭から食えと仰せになるくせに、ご自分の鮎は、拙者に骨を取らせておられました」
「……ずるい」
「ずるいお方でございました」
清正は、笑った。三成も、下を向いたまま、小さく笑った。
同じ人の、同じずるさを、二人とも知っている。膳を挟んで、二人は、初めて同じものを思い出していた。
帰り際、清正は、桶に残った鮎を、三成の家来に持たせた。
「干して食え。佐和山は、魚が少なかろう」
「琵琶湖がございます」
三成が言った。
「……湖の魚と、川の鮎は、違う」
「さようでございますか」
「違う。食えば分かる」
三成は、少し考えてから、頭を下げた。
「……いただきまする」
数日後、佐和山から書状が届いた。いつもの四行。最後の一行だけ、字が少し小さかった。
《鮎、干して食し候。頭より食えば骨刺さらず。個人差あり》
俺は、その書状を、清正の次の書状と一緒に、文箱にしまった。清正の書状の最後の一行は、こうだった。
《治部に、傷兵の名を送る。十二通》
十二通。俺は、その数字を、しばらく見ていた。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.9% → 98.1%
少し上がった。十二通という数字が、何を意味するか。三成が、名を読むということだ。名を読めば、三成は、たぶん、もう「損耗」とは書けなくなる。その代わり、何かを抱えることになる。




