第46話 もう止まりません
【豊臣家滅亡まで 残り5,877日】
「止まりません」
淀殿は、同じ言葉をもう一度言った。
朝だった。大坂城の奥の庭に、細い雨が降っていた。音は小さい。だが軒から落ちる水は、同じ石を、同じ場所を、ずっと打ち続けていた。
「なにが」
「全部です」
答えが大きすぎた。
「ぜんぶは、こまる」
「困るから、人は、一つだけだと思いたがるのです。三成が悪い。清正が悪い。内府殿が悪い。誰か一人を止めれば、全部止まると」
俺もそうだった。利家を救えば、すべて変わると思った。三成と清正を同じ部屋に座らせれば止まると思った。一晩だけ止まった。城の外は、もっと速く動いていた。
侍女が、文箱を持ってきた。三日後の評議への返事だった。数はある。中身は少ない。毛利、国元と相談の上。上杉、上洛の時期を調整中。宇喜多、拾様の御前ならば出る。前田利長、葬儀が済むまで猶予を。清正と正則は、既に城の中。長政、内府殿の御意も伺うべし。
そして家康。
《幼君の御心を煩わせぬよう、内府がよきに計らう》
「くるのは」
「宇喜多殿だけでしょう」
淀殿は、書状を一枚持ち上げた。
「開けることと、決まることは、違います」
大老の半分以上がいない評議を開けば、来た者だけで決めたと言われる。開かなければ、秀頼には決める力がないと示すことになる。
「ははうえなら、どうする」
淀殿は、すぐには答えなかった。庭を見た。雨が、池に落ちていた。
「まず、門を増やします」
「もん?」
「逃げ道です。……皆の」
三成が、処罰されずに政務から退ける道。清正と正則が、謀反人にならずに兵を引ける道。家康が、豊臣を侮ったと見られずに仲裁に入れる道。秀頼が、命令を取り消したと見られずに、方針を変えられる道。
「かつみちじゃ、ない」
「今、勝つ者を決めれば、負けた者は、次の戦を始めます」
劉禅の記憶がよみがえった。馬謖を、斬らなかった。水を運ばせ、敗因の帳面をつけさせた。李厳は、官位を剥いで、しくじりを書かせた。魏延と楊儀は、同じ上司の下に置かなかった。罰は一つの事件を終わらせる。だが、罰せられた側の家族と家臣は、三十年、それを覚えている。だから、一人も斬らなかった。
「みつなりを、しりぞかせる?」
「拾は、嫌ですか」
「いや」
即答した。三成がいなくなれば、家康に対抗する前に、豊臣家の中が見えなくなる。米も、船も、役人も、書状も、秀吉の巨大な政権を紙で支えてきたのは、あの男なのだ。
「では、三成を守れば、清正と正則は、次は自分たちが処されると思います。三成が記録を握っているかぎり、拾が何を申しても、信じませぬ」
「きろく、わける」
「今日中に、できますか」
できない。仕組みは、明日から動くものではない。
「……めいれいは、だせる。ぼくの、なまえで」
祐筆を呼んだ。兵を増やすな。私闘を禁ずる。三成は諸将を捕らえるな。諸将は三成の屋敷に兵を向けるな。家康を含む大老・奉行は、大坂の評議に出よ。
「これ」
淀殿は、それを読んだ。
「よう、できております」
「とまる?」
「止まりません」
褒めた直後に、切り捨てられた。
「兵を増やした者は、増やしておらぬと申します。私闘を考える者は、身を守るためと申します。捕らえようとする者は、調べるためと申します。屋敷へ向かう者は、見舞いと申します。評議に来ぬ者は、国元の事情と申します」
命令は、してはならないことを書ける。人は、自分の行いを、してはならないことではない言葉に言い換える。
「じゃあ、なにを、まもる」
「拾を」
「ぼく、だけ?」
「豊臣の名を」
「ひとは」
強く言った。淀殿の目が、少し変わった。
「しろのひと。まちのひと。みつなりの、ひと。きよまさの、ひと。みんな」
淀殿は、長く黙っていた。
「……拾。すべてを守ると申す者は、何も選んでおらぬ者です」
痛かった。劉禅のときも、全員を救うと言って、何人も救えなかった。
「えらぶ。じゅんばんを」
「では、聞きましょう」
俺は、指を折った。
一つ。城の中で戦を起こさない。
二つ。三成、清正、正則、本人の命を守る。
三つ。家臣同士のぶつかりを防ぐ。
四つ。政所の記録を守る。
五つ。大老と奉行の評議の道を残す。
六つ。家康の仲裁を、豊臣の命令の下に置く。
全部守りたい。だが、順番をつけた。淀殿は、一つずつ聞いていった。
「三成が政務を離れれば、二つ目は守れます。五つ目は、傷つきます」
「……うん」
「清正と正則を国元へ戻せば、三つ目は守れます。逃げたと見られます」
「うん」
「内府殿に仲裁させれば、一つ目は守れます。六つ目を失います」
全部、少しずつ悪い。
「ははうえは、なにを、えらぶ」
「命です」
「なより?」
「今は。はい」
驚いた。豊臣の名を守ると言っていた人が、命を先にした。
「死ねば、名を守る者も、おりませぬ」
淀殿は、雨を見ていた。小谷。北ノ庄。この人は、名が残っても人が死ぬのを、何度も見てきたのだ。
「三成を、一度、政務から離します」
「いや」
「拾」
「……ひつよう。だから、ころしちゃ、だめ。もどすみちを、さきに、つくる」
淀殿が、少しだけ頷いた。
三成を呼んだ。目の下に、濃い影があった。眠っていないのだ。それでも、書状を抱えていた。
淀殿は、俺の後ろに座った。言うのは、俺だった。
「みつなり」
「はい」
「まんどころを……」
言葉が、出てこなかった。
「……はなれて」
三成は、表情を変えなかった。
「いつまで、でございましょう」
期限を、最初に聞く。
「さんじゅうにち」
「長すぎまする」
「とおか」
「短すぎまする」
「どっち」
「目的によりまする」
「いのちを、まもる」
三成が、初めて、俺から目をそらした。
「……拙者の命は、政務より、軽うございます」
「ぼくには、おもい」
三成は、動かなかった。
「きろくは、ぜんぶ、おおさかに、のこす。うつしを、さわやまへ。まんどころは、ましたと、なつかと、げんい。さんにんで、きめる。みつなりは、いけんを、かく。めいれいは、しない」
五つの舌では、それが精一杯だった。頭の中では、もっと長い文になっていた。
まず、記録。政所の帳面は、一枚も城の外へ出さず、すべて大坂に置いておく。三成が帳面を抱えて佐和山へ持ち去った、と言われる種を、先に潰すためだった。清正たちが一番恐れているのは、三成その人より、三成の握っている帳面なのだ。
そのかわり、写しを一揃い、三成の居城の佐和山へ送る。大坂の帳面が誰かに書き換えられても、照らし合わせれば分かる。三成にとっては、自分の仕事を取り上げられたのではない、という証にもなる。
次に、政所の仕事。三成が抜けた席には、誰か一人を座らせない。増田長盛、長束正家、前田玄以。三成と同じ五奉行のうちの三人に、まとめて預ける。一人に任せれば、その一人が、次の三成として恨まれる。三人で決めれば、恨みの的が一つにならない。清正たちと近い浅野長政は、あえて外した。入れれば、天秤が片側へ傾く。
最後に、三成。意見は、書いてよい。書いて、三人へ送ればよい。だが、命じる力は持たせない。口は出せるが、手は出せない。それなら清正たちも、三成がまだ裏で政所を動かしている、とは言いにくい。三成のほうも、豊臣の政から締め出されずに済む。
つまり、完全には切らない。政所の外から、紙で口を出す役にする。戻る条件も、先に決めた。武断派が武装を解くこと。大老の評議が戻ること。記録と罰の権限が分かれること。秀頼が戻ることを認めること。
「内府殿が評議に来ぬ場合、拙者は戻れませぬ」
「だから、いえやすが、こなくても、よにんで、きめられるように、する」
「掟が動かぬときの、掟を作るのでございますか」
三成は、長く考えていた。
「……拾様。これは、拙者への処分でございましょうか」
「ちがう。まもる」
「誰を」
「みつなり。きよまさ。まさのり。とよとみ」
三成が、少しだけ笑った。悲しい笑いだった。
「やはり、多すぎまする」
「えらんだ。いちばんは、いのち」
三成は、淀殿を見た。淀殿が頷いた。
「……承知いたしました。ただし、記録は、残しまする。誰が何を恐れ、何を選んだか。すべて。……拾様の御判断も」
胸が痛かった。
「かいて」
三成は、もう一度、深く頭を下げた。
その日の午後、家康が仲裁の案を出してきた。
《石田三成は政務を離れ、佐和山へ退くべし。清正・正則らは兵を引くべし。私闘を禁ず。以後の政務は大老・奉行が協議すべし》
俺たちが朝に決めたことと、ほとんど同じだった。違うのは、誰が決めたと天下が思うか、だけだった。
俺は秀頼の名で、先に命令を出していた。三成も清正も正則も、俺の命令に従った。それでも城の外では、こう語られた。
――内府殿が、騒ぎを鎮めた。
【本日の豊臣家滅亡確率】
98.0% → 98.6%
三成は生きた。清正と正則も兵を引いた。城で、血は流れなかった。一つ目の目標は、守れた。
「とまった」
俺が言うと、淀殿は首を横に振った。
「形が、変わっただけです。争いから、支配へ」
外の兵は、引き始めた。城は静かになった。静かなまま、権力が移っていく。それが戦より怖いことを、俺はまだ、本当には分かっていなかった。




