第45話 心の槍
【豊臣家滅亡まで 残り5,880日】
清正の使者は、廊下に入る前に膝をついた。声が震えていた。恐れているのは三成ではない。怒った主君の方だった。
「肥後守様より、申し上げます。治部少輔殿は、我らを賊として捕らえる御用意か、と」
「しておらぬ」
三成が前に出た。使者は、三成を見なかった。俺だけを見ていた。
「肥後守様は、拾様の御前にて確かめたいと。……既に、こちらへ」
来る、ではなかった。来ている、だった。怒りは、許しを待たない。
「なんにん」
使者が目を伏せた。
「肥後守様、お一人にて」
嘘だ。清正が一人で城に来るはずがない。
「百を超えるか」
三成が言った。使者の肩が、わずかに動いた。超える、ということだ。
「門を閉めまする」
「なりませぬ」
いつの間にか、淀殿が後ろにいた。
「閉めれば、戦になります」
「開ければ、兵が入りまする」
「入れる者を、選びなさい」
大坂城の門の前に、清正がいた。本当に一人ではなかった。二百近い。全員が戦の装いではない。供回り、小姓、家老、足軽、荷を持つ者。だが、怒りがあれば、人の数は兵になる。
門の上から、城の足軽たちが見下ろしていた。手が、槍の柄の近くにあった。
清正は、門の前で胡坐をかいていた。腕を組み、石垣を見ていた。待ちながら、石の積み方を見ていたのだ。この男は、怒っていても、城を見る。
俺が門の外に出ると、清正は立ち上がった。
「拾様」
「なかへ。ひとりで。かろう、ふたり。ぶきは、おく」
清正が、腰の刀を見た。
「……これも、でござるか。武士に、刀を置けと」
「しろで、きるの?」
清正の顔が、止まった。
「斬らぬ」
「じゃあ、いらない」
後ろで、誰かが小さく笑った。清正が振り返ると、その笑いはすぐに消えた。
清正は刀を外し、家老たちもそれに倣った。門番が受け取った。
「やりも」
「持っておらぬ」
「こころの、やり」
清正が、ほんの少し口元を歪めた。
「……それは、置き場がござらぬ」
門の前の空気が、少しだけ緩んだ。笑いは解決ではない。だが、人が息を吸う間を作る。
俺は、清正の手を取った。
「いく。あるいて」
「転ばれまする」
「きょうは、ころんでない」
「昨日は」
「きのうは、きのう」
一度の失敗が、長く残る。清正は抱き上げなかった。だが、俺が躓きそうになるたびに、大きな手がさっと伸びた。腹が立った。安心もした。
広間では、三成が待っていた。刀は持っていなかった。淀殿。三成。清正と家老二人。そして俺。
「治部。我らを捕らえるとは」
「申しておらぬ」
「兵を集めた」
「集めておらぬ。役人を集めた」
「同じではないか」
「違う」
二人とも、一歩も引かなかった。俺は二人の間に座った。身体が小さい。見えるのは、二人の膝だけだった。
「じゅんばん。きよまさが、さき。みつなりは、きく」
三成が口を開きかけた。
「きく」
止めた。清正が、俺を見た。
「……何を申せと」
「おこってる?」
清正の口が、一瞬開いた。簡単な問いほど、答えにくい。
「我らを。戦場で働いた者を。この男は、数字だけで裁く」
清正の拳が、膝の上で固くなった。
「朝鮮で兵が飢えた。船が来ぬ。米が腐る。病が出る。命を捨てて城を守った。戻ってみれば、帳面に、不足、遅延、命令違反。我らは紙の上で責められた。……今度は、内府殿との縁組を理由に、我らを処する」
「いえやすの、こんいんと、きよまさは、べつ」
「別ではござらぬ。内府殿と縁を結んだ者。近づいた者。話した者。皆、治部の帳面に載る」
「載せる」
三成が言った。
清正の顔色が変わった。
「みつなり」
「載せまする。事実を。処するとは、申しておらぬ」
「同じだ!」
清正の拳が、畳を打った。音が、広間に広がった。障子の外で、清正の家臣が動く気配がした。こちらの警護も、槍を握り直した。
気がつくと、清正は立っていた。いつ立ったのか、分からなかった。
「すわって」
清正は、荒い息のまま、俺を見た。
「すわって」
もう一度言った。清正は、座った。
「みつなり。のせるのと、ばっするのは、ちがう?」
「違いまする」
「きよまさには、おなじに、みえる」
三成が、清正を見た。本気で、分からない顔をしていた。
「なぜ」
「書かれた者は、次に疑われる。疑われた者は、兵を減らされ、領地を削られ、家臣を失う。処すると書かずとも、同じではないか」
三成は、答えなかった。
帳面は、中立ではない。書かれた事実が誰の手にあるかで、刃になる。
「では、書かぬのか」
三成が言った。今度は、清正が詰まった。書かなければ、家康の掟破りはなかったことになる。書けば、清正たちは自分が次だと思う。
「かく。でも、かくひとと、きめるひとを、わける。きろくは、まんどころ。ばつは、ひょうぎ。ひとりでは、できない」
清正が、三成を見た。三成が、静かに言った。
「拾様。内府殿が評議を拒まれたら、いかがなさいます」
痛かった。仕組みは、加わらない者をどう扱うかまで決めなければならない。
「こばんだことを、かく」
「それだけで、ございますか」
「……いまは」
また、先の仕組みの話をしていた。今、清正は怒り、門の外には兵がいて、家康は仲裁の支度をしている。間に合わない。
「治部。我らを処さぬと、拾様の御前で誓えるか」
三成は、即答しなかった。
「掟に触れれば」
「みつなり」
遅かった。清正の顔に、答えが出ていた。
「……やはり、我らを罪人と思うておる」
清正が立った。
「掟に触れた者を、罪人と呼ばずして何と呼ぶ」
三成も立った。
「まだ、きまってない!」
俺は、二人の間で叫んだ。五歳児の声だった。高くて、情けなかった。それでも、二人は止まった。
「しらべて、きいて、きめる。いまは、きまってない。だから、きらない。とらえない。へいを、あつめない。みっか、まつ。……ぼくが、めいじる」
三成個人の誓いではない。豊臣家の命令にする。
三成が、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
清正も、しばらく間を置いてから、頭を下げた。
「……承知」
そのとき、外から大声がした。
「清正!」
福島正則だった。許しもなく、来た。門番と揉めている。刀を差したまま入ろうとしている。
「かたなを、おけ!」
「拾様! 治部を斬るのではござらぬ!」
「じゃあ、いらない!」
正則が止まった。清正が横を向いた。肩が震えていた。
「清正、笑うな」
「笑うておらぬ」
「口が笑うておる」
「顔の作りだ」
「その顔は昔から腹が立つ」
喧嘩の理由が、三成から清正の顔に移った。よくはない。だが、少しましだった。
正則は刀を置いて入ってきて、三成の前にどかりと座った。
「治部。わしを捕らえるそうだな」
「捕らえませぬ。……今は」
「今は、とは何だ!」
また同じところで燃えた。俺は、両手で顔を覆いたくなった。五歳児の手は小さくて、顔が全部隠れない。不便である。
そこへ、徳川家の使者が入ってきた。
《内府殿、諸将の御身の安全を案じ、伏見にてお預かりする用意あり》
預かる。守る。仲裁する。家康は、争いの当事者ではなく、安全を差し出す者として現れた。清正と正則の家臣たちの顔に、安堵が浮かんだ。三成の祐筆の顔が、青くなった。
「いかない。ここで、あんぜん。みっか、ぼくが、まもる」
使者は、少しも困った顔をしなかった。
「畏まりました」
整いすぎた返事だった。この返事も、家康に届く。秀頼が三成を守った。武断の諸将を城に留めた。どちらの味方と見られるかは、見る者が決める。
【本日の豊臣家滅亡確率】
98.3% → 98.0%
一晩は、止めた。
翌朝、清正の家臣が一人、城を抜け出した。正則の家臣も、別の門から出た。三成の祐筆は、記録の束を佐和山へ送った。誰も命令には背いていない。本人たちは城に残っている。ただ、家臣たちが、自分の家を守るために動いたのだ。
昼には噂が変わった。《石田三成、清正・正則を城に拘束》。夕方には、《秀頼公、三成と結び武断派を粛清》。夜には逆に、《清正・正則、大坂城を占拠》。
事実は、三人が別々の屋敷で、五歳児の命令を守っているだけだった。




