第42話 失敗ではない
【豊臣家滅亡まで 残り5,882日】
夜が来た。利家の息は、さらに浅くなった。
部屋には、家族だけが残った。利長。まつ。娘たち。近しい家臣。玄朔。そして、俺と淀殿。
三成たちは、隣の部屋で待っていた。清正も正則も、帰らなかった。家康は伏見へ戻ったが、使いの者を一人残していった。何かあれば、すぐに知らせるために。
天下が、一人の老人の息の音を聞いていた。
玄朔が、利家の脈に指を置いていた。長かった。確かめるためではない。そばにいるための手に見えた。
俺は、枕元に座っていた。昼間に握った手は、さらに冷たくなっていた。
「だいなごん」
返事はなかった。目は閉じたままだった。呼べば開くかもしれない。だが、起こしていいのか分からなかった。残りの時間を話すことに使うべきか、休むことに使うべきか。誰にも答えられなかった。
【前田利家 推定残存時間】
三刻未満
医師にとって、見立ては支度のためにある。家族を呼ぶ。苦しさを減らす。言葉を残す。だが家族にとって、数字は、死が近づく足音でしかない。
俺は、その表示を消そうとした。消えなかった。この仕組みは、親切のつもりで、ときどきひどく残酷だ。
「拾。少し、休みなさい」
淀殿が、俺の肩に手を置いた。
「いや」
「朝から」
「いや」
淀殿は、それ以上言わなかった。黙って、俺の隣に座った。
まつが、利家の顔を拭いていた。手つきに、迷いがなかった。四十年、この人は、戦から戻る夫を迎え、出世を見届け、秀吉と喧嘩する夫をなだめ、天下を支える夫の背中を見てきた。その全部のあとに、顔を拭く仕事が残っていた。
「殿」
まつが呼んだ。利家のまぶたが、わずかに動いた。
「……皆、おるか」
声は、ほとんど息だった。
「おります」
利長が答えた。まつが、夫の手を握った。利家は何か言おうとしたが、音にならなかった。玄朔が耳を寄せた。
「……水を」
唇を、少しだけ湿らせる。飲ませすぎない。むせさせない。できることが、どんどん小さくなっていく。最初の日は、食事を変えた。次の日は、薬を変えた。やがて仕事を減らした。今は、唇を湿らせる。それでも、意味はある。苦しさを、少しだけ減らす。
「……拾様」
利家の声がした。俺はすぐに顔を寄せた。
「いる」
「会議は」
最後まで、仕事だった。
「する」
「いつ」
「そうぎの、あと」
「……遅うございます」
「あした」
「早うございます」
どっちだ。
「じゃあ、そうぎの、まえ」
利家の口元が、わずかに動いた。笑ったのだと思う。
「よろしゅう」
葬儀の前の評議。非常識である。だが、利家の死が誰かの旗にされる前に、皆を同じ部屋に座らせる。それは、たぶん必要なことだった。
「だいなごん。なにか、してほしいこと、ある?」
利家は、答えるまでに長い時間をかけた。
「……何も、命じませぬ。利長にも、内府殿にも、三成にも」
意外だった。
遺言は、残された者を縛る。細かい命令を残せば、時が変わっても、死者の言葉が一番になる。利家は、自分の死んだあとを、自分のものにしようとしなかった。
「ただ。わしの名を、争いの理由に、使わせぬよう」
利家のために家康を討つ。利家のために三成を追う。死者は反論できない。だから、一番便利な旗になる。
「やくそく、する。だいなごんが、のぞんだって、かってに、いわせない」
「はい」
利家の指が、わずかに動いて、俺の指に触れた。
「拾様。……よき、御方に、なられました」
「まだ、こども」
「はい。……それが、よろしゅうございます」
天下人になれ。強くなれ。父を超えろ。皆がそう言うと思っていた。利家は、俺が子供であることを、よいと言った。
「急がぬよう。……大きゅうなられるのを、急がぬよう」
視界の隅で、何かが一度、強く光った。
【封印スキル:???】
解放条件:託された者が、――を休ませること
空欄の部分だけが、一瞬、明るく瞬いた。そして、また暗くなった。
「……はい」
答えると、利家の顔から、少し力が抜けた。安心したように見えた。
息が、一度、深く入った。長く、吐いた。
次の息が、来なかった。
玄朔の指が、脈を探した。まつが、夫の名を呼んだ。利長が、父上、と呼んだ。俺は、何も言えなかった。次の息を待った。来なかった。まだ待った。来なかった。
長い時間のあと、玄朔が、深く頭を下げた。
誰も、言葉にしなかった。それでも、全員が分かった。
前田利家が、死んだ。
表示が、消えた。推定残存時間の文字が、すっと消えて、そのあとには何も出なかった。死亡とも、失敗とも、未達とも。何も。
「だいなごん」
呼んだ。返事はなかった。
「かいぎ、するから」
返事はなかった。
「みち、つくるから。だから」
言葉が、続かなかった。だから、戻ってきてほしかった。約束を守るところを見てほしかった。仕組みが動くところを見て、叱ってほしかった。もう一度、あの弱い腕で抱いてほしかった。
淀殿が、俺を抱き寄せた。逆らわなかった。
【特殊スキル:五歳児特権(号泣)】
使用回数 1(変化なし)
※本件は、スキルの使用に該当しません
そうか。これは、スキルではないのか。
そう思ったら、もう止まらなかった。俺は、淀殿の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
まつは、声を立てずに泣きながら、夫の髪を整えていた。利長は、泣いていなかった。泣けなかったのだ。今から、この人が前田家の当主になる。父の死を悲しむ前に、家臣に命じなければならない。
「門を閉じよ。……御遺骸を整えよ。大坂城へ」
声が、震えていた。
「……しらせる。いっしょに、ふみを、かく」
俺は顔を上げた。利家の名を、誰にも使わせないために。死んだ時刻。家族がそばにいたこと。医師が見届けたこと。そして、誰への攻めも命じなかったこと。冷たいと思う。だが、利家が残した道を守る、最初の仕事だった。
玄朔が、俺の前に膝をついた。顔が、疲れ切っていた。
「拾様。申し訳」
「いうな」
強く言った。玄朔の動きが止まった。
「もうしわけ、ないって、いうな。ぜんぶ、した」
玄朔は、すべてをやった。記録した。見た。考えた。試した。苦しさを減らした。家族を呼んだ。最後までそばにいた。救えなかった。それを、何もしなかったことにはしない。
「だいなごんは、やまいで、しんだ。いしゃに、ころされたんじゃ、ない」
玄朔の目から、涙が落ちた。医師が泣く。家族が泣く。家臣が泣く。俺も泣く。誰も、失敗していない。それでも、死はなくならない。
隣の部屋では、三成が、帳面を開いて待っていた。
玄朔が襖を開けて首を振ったとき、三成は、いつものように筆を取った。亡くなった時刻を記すためだった。それが、自分の仕事だと思ったのだろう。
筆が、紙の上で止まった。
一文字目が、書けなかった。筆先が震えて、墨が小さな染みになって広がっていった。三成は、その染みをじっと見ていた。
清正が、黙って三成の手から筆を取った。そして、大きな、少し歪んだ字で、時刻を書いた。
三成は、何も言わなかった。清正も、何も言わなかった。正則が、庭の方を向いたまま、肩を震わせていた。風が、酒樽の方から吹いていた。
夜明け前、俺は書かせた。
《前田大納言利家、病により薨ず》
《最期に、いずれの者への攻めも命ぜず》
《明朝、大老・奉行および主要の諸将による評議を行う》
葬儀より先に、評議をする。利家がそう命じたのではない。俺が決めた。死んだ者の言葉ではなく、生きている者の責任として。
利家の手から、ようやく自分の手を離した。冷たさが、指に残っていた。
表示は、最後まで出なかった。だから、俺は自分で記録した。
《前田利家 調停者 死亡 失敗ではない》
【本日の豊臣家滅亡確率】
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