第41話 二人の老人
【豊臣家滅亡まで 残り5,883日】
家康が見舞いに来た。
その報せが届いた瞬間、廊下の空気が変わった。病人の屋敷が、政の屋敷になった。人の立つ位置が変わる。障子が閉められる。書状が隠される。刀の置き方が確かめられる。見舞いである。それでも、天下の配置が動く。
「……父に、伺いまする」
利長が言った。当主は、まだ利家だった。返事ができるかどうか分からない病人に、見舞い客を通すかどうかを聞かなければならない。当たり前で、残酷なことだった。
「ぼくが、きく」
俺は、利家の部屋に戻った。利家は目を閉じていた。息は、さっきより浅かった。
「だいなごん。いえやすが、きた」
目が開いた。驚いてはいなかった。
「参りましたか」
「あう?」
「会わねば」
短い答えだった。理由は聞かなくても分かった。この二人が、生きて同じ部屋にいられる、最後の機会になる。
「ぼくも、いる」
利家は、しばらく俺を見ていた。
「では、一つだけ。すぐに口を挟まれぬよう」
難しい命令だった。
「できる」
「今の間が、既に長うございます」
見抜かれていた。
家康は、黒い小袖で入ってきた。見舞いの装いだった。華美ではない。だが、質はよい。歩みは、いつもと同じだった。急がず、遅くもない。病人に、自分の焦りを見せない歩き方だった。
「大納言殿」
「内府殿」
家康が、枕元に座った。利家の声は掠れていた。家康は、さらに近くへ寄った。
「御加減は」
「見てのとおりにございます」
「医師は」
「よう働いております。……拾様も、働きすぎにございます」
家康が、俺を見た。目が、一瞬だけ細くなった。
「それは、いけませぬな」
「いえやすも、はたらいてる」
口を挟んだ。一つだけの約束を、最初に使ってしまった。利家が、小さく笑った。家康も笑った。
「拾様には、敵いませぬ」
嘘である。今のところ、百回やれば百回負ける。
家康は、利家に向き直った。
「御心配は、ございませぬか」
何の、とは聞かなかった。利家も、何の、とは聞き返さなかった。豊臣家。前田家。秀頼。天下。すべてだった。
「多うございます。……時が、足りませぬ」
利家は、苦しそうに息を吸った。家康は待った。急かさなかった。
「内府殿。拾様を、お守りくだされ」
利家の手が、布団の上で動いた。俺の方へ。
後の世の本に残りそうな言葉だった。だがこの部屋では、一人の老人が、もう一人の老人に、子供を頼んでいるだけだった。
家康は、すぐには答えなかった。沈黙が長かった。利家の息の音だけがした。
「……お守りいたします」
低く、はっきりした声だった。嘘には聞こえなかった。だから、怖かった。
家康は、今の自分が考える範囲で、本当に守るつもりなのだ。だが、守るという言葉は広い。大坂城に置いておく。領地を減らす。政から遠ざける。出家させる。人質にする。生かしておく。それも全部、守ることに含められる。
「どうやって」
また口を挟んだ。約束は、とうに破っていた。家康が、俺を見た。
「拾様が御無事であられるように。豊臣の家が続くように」
二つ。同じではない。秀頼が生きること。豊臣家が続くこと。政権が続くとは、言っていない。利家も、そこに気づいた。
「天下は」
利家が問うた。家康の目が、少し変わった。
「天下は、太閤殿下より拾様へ、わしがお預かりしているものにございます」
巧い。自分のものとは言わない。返す時期も言わない。何を返すかも言わない。
「あずかりものは、かえす」
「左様にございます」
「いつ」
部屋の空気が固まった。利家が、俺の名を呼ぼうとした。その前に、家康が答えた。
「拾様が、御自ら天下を支えられる時に」
条件がついた。そして、その条件を誰が判断するのかは、書かれていない。
「だれが、きめる」
家康は、黙った。利家も、家康を見た。ここが本当の問題だった。秀頼が天下を支えられるようになったと、誰が判定するのか。家康なら、永遠に「まだ」と言える。淀殿なら、明日にも「今」と言う。
「……皆で」
「みんなって、だれ」
「拾様」
利家が、今度こそ俺を止めた。口を閉じた。だが、問いは部屋に残った。家康も、答えがないことを知っていた。
「内府殿。拾様は、いずれ、御自分で決められまする。その日まで、お待ちくだされ」
家康は、利家を見た。二人の間には、長い年月があった。信長。秀吉。戦。人質。裏切り。和睦。利家は家康より先に死ぬ。家康は待てる。それを知っているから、利家は「待て」と言ったのだ。
「……承知いたしました」
また、嘘には聞こえなかった。約束は守るだろう。ただし、時が変われば、新しい約束を求める。淀殿の言葉が、頭に浮かんだ。
「前田家は、大納言殿の御志を継がれましょう」
家康が言った。襖の外に、利長がいる。聞いている。利家が、わずかに首を動かした。
「息子に、同じ役を、求めぬよう」
家康が、目を細めた。
「同じ役を担える者は、おりませぬ」
「では、やくを、わける」
二人の老人が、同時に俺を見た。
「はなすひと。きめるひと。しらべるひと。とめるひと。ひとりに、しない」
利家の口元が、わずかに上がった。家康は、表情を変えなかった。
「拾様は、面白きことを、お考えになりますな」
面白い。危うい。家康の中では、たぶん近い意味だ。
「いえやすも、はいる? かいぎに」
家康が、初めて、少し困った顔をした。
利家が笑った。笑ったあと、激しく咳き込んだ。玄朔がすぐに身体を支えた。家康が、利家の背に手を伸ばしかけて、途中で止めた。戦場で何万もの兵を動かしてきた手が、今は、何もできなかった。
咳が収まると、利家は目を閉じたまま言った。
「内府殿。最後に。……わしが死んだあと、三成を、すぐに追い詰めぬよう。清正らを、焚きつけぬよう。前田を、試さぬよう」
家康の顔から、笑みが消えていた。
「……多うございますな」
「時が、足りませぬゆえ」
「大納言殿。わしも、争いは望みませぬ。されど、争いを望まぬだけでは、争いは止まりませぬ」
利家が、目を開けた。
「左様」
二人の老人が、同じ結論に着いていた。だからこそ、互いを警戒していたのだ。
「拾様。覚えておかれませ。戦を望む者だけが、戦を起こすのではございませぬ」
家康も、俺を見た。
「戦を避けようとして、先に兵を集める者もおりまする。守ろうとして、相手を恐れさせる者も。約束を確かめようとして、相手を疑わせる者も」
「……いえやす。やくそく、かく。まもるって、どういうことか」
「五つの御方に、証文を書かされるとは」
「いや?」
「まさか。……ただ、条件が多くなりそうにございます」
その日のうちに、証文はできなかった。利家の息が、話を続けられなくなったからだ。
家康は立ち上がり、利家に深く頭を下げた。
「大納言殿。長き間……」
言葉が止まった。家康ほどの男でも、ふさわしい言葉が見つからなかった。
「……御世話に、なりました」
利家が、目を閉じたまま答えた。
「こちらこそ」
短かった。二人のあいだを語るには、短すぎた。だが、十分だった。
部屋を出る前、家康は俺の前で足を止めた。
「拾様。大納言殿との約束、忘れませぬ」
「ぼくも、わすれない」
家康が去ったあと、俺は白い紙に、最初の一行を書かせた。
《豊臣秀頼の生命および家名を保つこと》
政権でも、領地でもない。まず、命と家名。
【人物評価:徳川家康】
表示可能な項目:健康管理 99/待機能力 100/危機管理 100
前田利家との友情:測定不能
能力値は、人と人のあいだを測れない。二人が敵だったのか、友だったのか、最後まで分からなかった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.0% → 95.8%
夜が、来ようとしていた。




