第40話 三つの頼み
【豊臣家滅亡まで 残り5,883日】
利家は、少し眠った。眠ったというより、話す力を戻すために目を閉じていた。
その間に、俺は干菓子を食べた。約束どおり、利家が眠ってから。
小さな梅の形が、口の中で崩れた。甘いはずだった。
玄朔が湯を替え、まつが布を絞った。音は少ない。病人の部屋では、人は静かになる。静かになっても、仕事は多い。
やがて、利家が目を開けた。
「拾様」
「いる」
「……よろしゅうございました。目を開けたとき、御顔がございました」
胸が痛んだ。
「菓子は」
「たべた」
「味は」
少し考えた。
「……しょっぱかった」
利家は、何も言わなかった。ただ、目尻の皺が、少しだけ深くなった。
「だいなごん。のこすもの」
利家は、天井を見た。長く。考えているのではない。言葉を出すための力を、集めているのだと分かった。
「わしは、人を仲良うさせてきたと、思われております」
「ちがう?」
「違いまする」
即答だった。
「清正と三成は、仲良うございませぬ。正則と三成も、仲良うございませぬ。……内府殿とわしも、仲良しでは、ございませぬ」
それは、知りたくなかった。
「でも、はなす」
「話さねば、困るからにございます」
単純で、難しい。
「人は、好きな者とは、道がなくとも話しまする。嫌いな者とは、道があっても話しませぬ。ゆえに、話さねば、自分が困るようにするのです」
利家は、ゆっくりと指を折った。
「清正には、三成の兵粮が要る。三成には、清正の現場が要る。正則には、二人を止める役が要る。……時々、机を壊しまするが」
そこは評価が甘い。
「大名には、内府殿の裁きが要る。内府殿には、豊臣の名が要る。豊臣には、大名が要る。皆が皆を嫌うても、一人だけでは仕事が終わらぬ形にしておくのです」
前世の言葉で言えば、互いに依存する役割の設計だ。利家は、そんな言葉を知らない。だが、何十年もそれをやってきた。
「それを、どうやって」
「わしが、間に入りました」
「それじゃ、だめ」
「はい。わしが死ねば、道も消えまする」
本人が、一番よく分かっていた。人柄で作った道は、人とともに消える。
「だから、きめかたを、きめる。いつまでに。だれが。はんたいは、どこへ。へんじがないときは、だれが」
利家の目が、開いた。
「それでございます。……されど、紙だけでは、足りませぬ。紙は、人を座らせませぬ」
利家は、俺の手を少しだけ持ち上げた。
「拾様が、座らせてくだされ。最初だけで、よろしゅうございます」
最初だけ。それが一番難しい。
「わしの葬儀のあとでは、皆が、別々の部屋へ入りまする。三成の部屋。清正の部屋。内府殿の部屋。……一つの部屋へ、座らせてくだされ。仲良うさせては、なりませぬ」
「なかよく、させない?」
「無理をさせれば、嘘を申しまする。笑うて酒を飲み、肩を組み、翌日に別の大名へ兵を借りに行く。嫌いなままで、よいのです。ただ、席を立つ前に、次に話す日を、決めさせてくだされ」
次に会う日を決める。小さな決まりだ。だが利家は、それを人柄でやってきたのだ。
「それから。御自分で、全部を決めぬよう」
胸を突かれた。劉禅のときも、同じことを言われた。諸葛亮を休ませるために、自分が働きすぎた。董允に叱られた。今度は五歳から、同じ失敗をしようとしている。
「わしを、救おうとなさいましたな。ありがたきことにございます」
「でも、すくえない?」
利家は、答えなかった。答えないことが、答えだった。
「わしを救えぬことを、御自分の失敗に、なさらぬよう。病は、拾様に仕えてはおりませぬ。命令を聞かぬ者も、おりまする」
「みつなり、みたい」
「三成は、命令は聞きまする」
訂正された。
「口答えを、するだけにございます」
病床でも、人物評価が正確だった。俺は少し笑った。利家も笑った。息が苦しそうになった。玄朔が近づいたのを、利家は手で止めた。
「大事なことを、三つ」
「みっつ」
多い。
指が一本、ゆっくりと折られた。一本折るのにも、息を一つ使っていた。
「一つ目。母君を、敵になさらぬよう」
「ははうえは、てきじゃない」
「いつか、お考えが違う日が来まする」
淀殿は豊臣の名を守る。俺は豊臣の人を守る。同じようで、違う。
二本目の指を折るのに、利家は、さっきより長くかかった。まつが、夫の手を下から支えた。
「二つ目。内府殿を、悪人になさらぬよう。善人にも、なさらぬよう。……淀殿は、よう見ておられまする」
淀殿と、同じことを言った。
「三つ目」
利家の息が、一度止まった。玄朔が身を乗り出した。また、息が入った。
「拾様は、太閤殿下に、ならぬよう。超えぬよう。真似ぬよう」
「じゃあ、なにに、なる」
利家は、長いこと俺を見た。天下人の息子を見る目ではなかった。五つの子供を見る目だった。
「拾様に、おなりくだされ」
軽い言葉だった。軽いのに、胸の底に沈んだ。前世の名を捨て、劉禅になり、光秀になり、秀頼になった。俺はずっと、誰かの役を生きてきた。
「……だいなごん。だいて」
五歳の身体が、勝手に言っていた。利家は驚いた顔をして、まつを見た。まつが、黙って夫の背を支えた。利家の腕が、ゆっくりと上がって、俺の背中に回った。弱い腕だった。それでも、回った。
「……重うなりましたな」
「てんかが?」
「拾様が」
「こどもは、そだつ。まいにち」
「左様にございます」
利家の胸に、耳が当たった。薬草の匂いの奥に、かすかに、古い革と汗の匂いがした。槍の柄を握り続けた人の匂いだった。鼓動が聞こえた。遅い。乱れている。だが、まだある。
「拾様。わしを救うより、わしがおらずとも話せる道を、お作りくだされ。……約束にございます」
「はい」
「声が、小そうございます」
「はい!」
大声を出した。玄朔が眉をひそめた。病人の部屋である。襖の外で、誰かが小さく吹き出す音がした。たぶん、正則だった。
「元気で、よろしゅうございます」
利家の腕から、力が抜けていった。まつが、そっと夫を布団に戻した。
「少し、休みまする」
「また、あとで」
利家は、目を閉じたまま答えた。
「はい」
その返事を、俺は信じたかった。
部屋を出る前に、利家がもう一度だけ目を開けた。
「……治部は、おるか」
襖の外で待っていた三成が、すぐに入ってきて、枕元に平伏した。
「ここに」
利家は、三成の顔をしばらく見ていた。
「治部。……今朝、何を食うた」
三成が、固まった。
「……急ぎの文書が」
「食うておらぬな」
評定の日と、同じやりとりだった。粥の膳を運ばせた、あの日と。
「飯を、食え。わしが見ておらずとも、食え。……それだけじゃ」
三成は、額を畳につけたまま、しばらく動かなかった。
「……承知、いたしました」
声が、ひどく掠れていた。三成が出ていくと、利家は、少しだけ満足そうに目を閉じた。
最後の頼みの一つを、利家は、俺ではなく三成に使ったのだ。
部屋を出ると、淀殿がいた。三成、清正、正則、長政、そして利家の嫡男の利長。皆が、別々の顔で、同じ襖を見ていた。俺は、泣いた跡を隠さなかった。
「かいぎを、する」
全員が、俺を見た。
「まだ、父は」
利長が言いかけた。
「いきてる。だから、いま、きめる。つぎに、はなす、ひを」
利家がいなくなる前に。利家がいなくなったあとのために。
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.3% → 96.0%
三成が、黙って帳面を開いた。清正が、その横に座った。正則が、少し離れて座った。長政が、入口の見える場所に座った。
廊下の板の上で、五つの子供の前に、大人たちが並んだ。
そのとき、門の方で、ざわめきが起きた。
「徳川内府様、御見舞いに参られました」




