第39話 最後の面会
【豊臣家滅亡まで 残り5,883日】
前田屋敷に着いたとき、門は開いていた。
開いているのに、人が詰まっていた。医師。小姓。祐筆。使いの者。加賀から駆けつけた家臣。大坂城から来た者。誰も大声を出さない。だが、全員が急いでいる。急ぐ足音だけが、屋敷の中を走り回っていた。
俺は、清正に抱えられたまま門をくぐった。
「あるける」
「存じております」
「おろして」
「先ほど、転ばれました」
一度で信用を失った。
「もう、ころばない」
「急ぐときほど、人は転びまする」
正論だった。三成に言われたら腹が立つ。清正に言われると、なぜか従える。人望というものは、不公平である。
門の脇で、福島正則が家臣と押し問答をしていた。家臣が二人がかりで、大きな酒樽を抱えている。
「大納言様の好物じゃ! 通せ!」
「なりませぬ、御病人に」
騒ぎを聞きつけて、奥からまつが出てきた。樽を見て、正則を見て、深いため息をついた。
「福島様。殿の少々は、一升にございます。この樽では、少々が何日分になりましょう」
正則は、言い返せなかった。樽を見下ろした。それから、ぼそりと言った。
「……飲めずとも、匂いくらいは、嗅がせて差し上げとうござった」
まつは、しばらく正則を見ていた。それから、樽を門の内側に置くよう、家臣に目で合図した。
「では、枕元ではなく、庭に置きましょう。風向きがよければ、届くやもしれませぬ」
正則は、深く頭を下げた。顔を上げたとき、目が赤かった。酒ではなかった。
淀殿が、先を歩いていた。裾を乱さない。歩みも崩さない。だが、いつもより速かった。
三成は、廊下の端で前田家の奉行と話していた。
「薬種は」
「すべて届いております」
「湯は」
「入れ替えております」
「医師の所見を、同じ紙へ」
利家の枕元には、紙が積まれていた。食べた量。眠った刻。脈。熱。誰が見たか。最初に三成が線を引いた病状簿は、もう何十枚にもなっていた。記録はある。手順もある。それでも、病は止まらない。
廊下の奥から、玄朔が出てきた。顔に、深い疲れがあった。
「げんさく。どう」
問いが短くなった。怖いときほど、言葉は減る。
玄朔は、その場に膝をついた。
「お腹の張りが、強うございます。御足の腫れも増しております。熱は高うはございませぬ。息は、浅うございます」
「いしきは」
「はっきりしておられます」
話せる。だが、身体は、もう戻る方を向いていない。
【前田利家 推定残存時間】
一日以内
日が、時になった。
「なにを、した」
玄朔は、一つずつ答えた。湯。食事。寝る向き。便と尿。息。痛み。眠り。すべて、記録どおりだった。
「ほかに」
玄朔は、答えなかった。ないのだ。知っている。前世の医療でも、できることが限られるときはある。ここではもっと少ない。薬も、機械も、検査もない。見て、聞いて、触れて、苦しさを少しでも減らす。それだけだ。
玄朔は、そこで一度言葉を切った。膝の上の手が、固く握られていた。
「……わたくしは、医者を四十年やってまいりました。見送った方は、数えきれませぬ。されど、一度として、慣れたことはございませぬ」
玄朔は、顔を上げた。
「拾様。……今なら、お話しになれまする」
今なら。後では、話せない。
襖の前で、淀殿が立ち止まった。俺を見た。
「拾。先に、お入りなさい」
「ははうえも」
「後から参ります」
嘘ではない。だが、先に行かせる理由があった。この人は、俺と利家に、二人だけの時間を残そうとしているのだ。
清正が、俺を畳に下ろした。今度は、転ばなかった。一歩。二歩。襖が開いた。
薬草の匂い。湯の匂い。人の汗。濡れた布。春なのに、部屋は寒く感じられた。
利家は、布団の中にいた。以前よりも、ずっと小さく見えた。戦場では槍を握り、誰よりも大きく見えた男が、今は枕の幅に収まっていた。
枕元には、まつがいた。夫の額の汗を拭っていた手を止めて、俺に場所を空けてくれた。
「だいなごん」
目が、開いた。
「拾様。……お待ちしておりました」
声は掠れていた。それでも、笑おうとしていた。
「まってた?」
「はい。叱らねばならぬことが、ございましてな」
俺は、布団の横に座った。
「病人のところへ、走って来させるものでは、ございませぬ」
「はしってない。きよまさに、はこばせた」
「なお、悪うございます」
利家が、小さく笑った。俺も、少し笑った。笑えてしまう。それが、つらかった。
「医師を、困らせましたな」
「こまらせてない」
「困っておりまする」
「なんで、わかる」
「わしが、困らせておりますゆえ」
玄朔が、襖の外で目を伏せた。利家は、病人なのに、部屋の全員を見ていた。誰が眠っていないか。誰が食べていないか。誰が泣くのをこらえているか。最後まで、調停者だった。
利家は、俺の顔をしばらく眺めていた。
「……少し、背が伸びられましたな。伏見でお会いしたころは、この布団の半分もございませなんだ」
「まだ、はんぶん」
「いや。半分と、指一本ほど」
病人のくせに、細かいところまで見ている。
「拾様。お手を」
手を出すと、利家の手が俺の指を包んだ。熱くはなかった。冷たかった。力は弱かった。だが、離さなかった。
「五つの御手ですな」
「そう」
「天下は、重うございます」
「しってる」
「まだ」
「しってる」
言い返すと、利家は目を細めた。
「では、一人で持たぬことも、御存じですか」
答えられなかった。劉禅として、一生かけて学んだはずだった。自分が死んだあとも国が動くようにした。それなのに、また、利家一人に豊臣家を預けている。
「だいなごんを、たすける」
「もう、十分に、助けていただきました」
「まだ。まだ、いきてる」
子供の声になった。理屈ではない。計画でもない。数字でもない。ただ、死なないでほしかった。
利家の親指が、俺の手の甲を一度だけ撫でた。
「拾様。人は、生きている間だけ働くのでは、ございませぬ。死んだあとも、残したものが働きまする」
「なにを、のこす」
「それを……今日、お話しいたします」
「きょう?」
「明日では、遅いやもしれませぬゆえ」
視界の端で、表示が静かに点滅した。
【前田利家 推定残存時間】
十八刻未満
利家は、その表示を見ていない。それでも、時間を知っている。自分の身体で、俺よりも正確に。
「拾様。泣かれるのは、まだ早うございます」
泣いていない。そう言おうとして、頬が濡れていることに気づいた。
「これは、あせ」
「春にございます」
「こどもは、あつい」
「左様で」
まつが、横を向いて、袖で目元を押さえた。肩が小さく震えていた。笑っているのか泣いているのか、分からなかった。たぶん、両方だった。
利家が、もう一度笑った。小さな笑い。短い息。その一つ一つが、残りの時間を使っていた。
「まつ」
「はい」
「拾様に、菓子を」
「殿。今は」
「泣く子には、菓子じゃ。……わしは昔から、そうしてきた」
まつは、何も言わずに立ち上がり、干菓子を一つ持ってきた。俺の手のひらに載せた。小さな、梅の形の干菓子だった。
「あとで、たべる」
「今、召し上がれ」
「だいなごんが、ねたら、たべる」
利家は、困ったように笑った。
「では、少し、眠りまする。……起きたら、大事な話を、三つ」
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.0% → 96.3%
俺は、干菓子を握ったまま、利家の手を放さなかった。五つの手では、重しは支えられない。それでも、放さなかった。
部屋の外では、淀殿も、三成も、清正も、声を出さずに待っていた。伏見では、家康が、この男が死んだあとを待っていた。
だが今だけは、天下ではなく、一人の老人と一人の子供が、手を握っていた。




