第36話 殺されるはずだった子
【豊臣家滅亡まで 残り5,899日】
長政が帰ったあと、俺は灰色の石を机の上に置いた。三成は、その石を露骨に嫌った。
「曖昧にございます。石は、黒か白であるべきです」
三成らしい。
「ひとも?」
「忠か不忠かは、明らかであるべきです」
「いつ」
「常に」
「だれに」
三成が黙った。主君に。家に。掟に。仲間に。領民に。自分の良心に。忠義の向く先は、一つではない。
「みつなりは、まけたら、どうする」
「腹を切りまする」
少しも迷わなかった。
「かぞくは」
「しかるべき処置を」
「だれが」
三成の口が止まった。
「かったひと?」
「……左様」
「そのひとを、しんじる?」
三成は、答えられなかった。自分が死ぬ覚悟は、自分で決められる。家族が殺される覚悟まで、自分で決めてよいのか。忠義は、ときに、他人の死まで勝手に決めてしまう。
「かいのかみは、じぶんだけ、いきたいんじゃない」
長政が守ろうとしているのは、自分だけではない。あの一瞬見えた、読めない項目。俺は祐筆に、黒田家のことを調べさせた。
調べるまでもなかった。途中で、思い出したのだ。
天正六年。摂津の有岡城。黒田官兵衛――長政の父は、謀反を起こした荒木村重を説得するために、たった一人で城に入った。そして、捕らえられた。便りが途絶えた。
信長は、官兵衛が裏切ったと疑った。
そのとき、長政はまだ十歳を過ぎたばかりの子供で、人質として織田方に預けられていた。父が裏切ったなら、子を殺せ。命令が出た。
俺は、その評定を知っている。
光秀だったころの話だ。俺の生きた世界でも、有岡城の一件は起きた。俺は、丹羽長秀殿と組んで、牢番の加藤又左衛門を通じ、官兵衛を土牢から出す方に動いた。牢の中の官兵衛は、毎日、牢番に《おぬしは、どう思う》と聞いていたという。出てきたとき、足は曲がっていた。
だが、あの世界の俺は、牢の父ばかりを見ていた。人質の子の方を、見ていなかった。松寿丸という名を、あの二十年で、一度も聞かなかった。
この世界では、竹中半兵衛が、子を自分の領地に隠し、殺したと偽って信長に報告したと、史書にある。父は裏切っていなかった。だが真実が分かるまで、子供は死んでいなければならなかったのだ。
あの世界の俺が見落とした子が、この世界では、目の前で、大人になっていた。
長政は、負けた者の家族を考えているのではない。疑われた者の家族を考えているのだ。決着がつく前に、巻き込まれて消される者を。
俺は、長政をもう一度呼んだ。今度は正式な謁見ではない。利家の屋敷の近くの、小さな茶室に。淀殿も三成も、外してもらった。
茶室には、小姓が二人だけ控えていた。長政は、にじり口をするりと抜けて入ってきた。家康と違って、どこにも引っかからなかった。細身の身体は、どこへでも入り込めるように鍛えられているのかもしれない。
長政は、座るなり茶室の中を一度だけ見回した。窓の位置。戸の位置。小姓の位置。それから、ようやく俺の顔を見た。
「昨日の今日に、また呼ばれるとは。恐ろしゅうございます」
長政は、少し困った顔をした。
「なぜ」
「答えを誤ったかと」
この男でも、呼び出しは怖いらしい。
「こどもの、とき。ころされそうに、なった」
長政の顔から、笑いが消えた。
「……どなたから、お聞きになりました」
「きろく」
半分は本当だった。
「父が、裏切ったと思われました」
長政は、ゆっくり言った。
「うらぎってない」
「はい」
「でも、ころされる」
「はい」
「こわかった?」
長政は、長いこと黙っていた。
「覚えておりませぬ。……されど、わしが覚えておらぬことを、皆が覚えております。母が。家臣が。竹中の家の者が。わしが死ぬはずだった日を、わし自身よりも」
長政は、茶碗を手の中で回した。
「わしは、半兵衛殿の顔も、よう覚えておりませぬ。わしを隠してくだされたあと、すぐに病で亡くなられた。礼の一つも、申し上げられなんだ」
俺は、何も言えなかった。俺は、あの青い顔を覚えている。この男が覚えていない顔を。言えば、この男の人生で一番大事な恩人の顔を、俺が代わりに描いてやれるのかもしれない。だが、それは言えない。四度目の人生は、ときどき、ひどく孤独だ。
「かいのかみは、かつひとを、えらぶ?」
「はい。負ければ、多くが死にますゆえ」
「でも、かつひとも、まちがえる」
長政の目が、わずかに揺れた。
「……左様にございます。ゆえに、勝つ者を選び、勝つ者の近くに立ち、勝つ者が誤ったときに、止める道を残しておきまする」
外から正義を叫ぶのではない。中に入る。従う。信を得る。そのうえで、誰かを救う。綺麗ではない。だが半兵衛も、信長に正面から逆らったのではなかった。殺したと見せて、隠したのだ。
「卑怯と、お思いですか」
「すこし」
正直に答えると、長政が苦笑した。
「でも、しぬより、いい」
「武士らしくは、ございますまい」
「ぶしは、かぞくを、しなせるひと?」
長政が、言葉を失った。
「……忠義とは、主君と共に死ぬことと、教わりまする。されど当主が死ねば、家臣の妻子が代わりに飢えまする。それを忠義と呼んでよいのか。わしは、いまだ分かりませぬ」
合理性百の男が、初めて、分からないと言った。
「……拾様。もし、先ほどの、負けても家族が残る仕組みとやらを、本当にお作りになるのなら」
長政は、茶碗を置いた。
「書いたものを、まず、わしに読ませてくだされ」
「かく。いちばんに、みせる」
「一番に、でございますか」
「かいのかみが、いちばん、うたがうから」
長政は、ぽかんとした顔をした。それから、声を出して笑った。この男が声を出して笑うのを、初めて聞いた。
「左様。わしが一番、疑いまする。わしが読んで穴が見つからねば、誰が読んでも見つかりますまい」
茶室を出るとき、長政は一度だけ振り返った。
「拾様。わしを、信用なされませぬよう。わしは、黒田家を、拾様より大切にいたします」
淀殿が家康について言ったのと、同じだった。順番の話だ。
「だから、しんようできる」
長政の目が、大きく開いた。
「豊臣を一番にする」と言う者より、「黒田を一番にする」と言う当主の方が、何をするか読める。信用とは、自分を好いてくれると信じることではない。相手が何を守るかを、知っていることだ。
【人物評価:黒田長政】
特記:合理性 100
家族保護 100
やはり、それだった。
その日の夕方、仕組みの話を三成にすると、三成は予想どおりの顔をした。
「敵に降った者の家族を守る定めなど、寝返りを勧めるのと同じにございます」
「なる」
「では」
「でも、ないと、さいごまで、ぜんいん、しぬ」
三成は、長いこと黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……拙者の母と妻子も、その定めに入りまするか」
三成が、自分の家族のことを口にしたのは、初めてだった。
「はいる」
三成は、何も言わずに頭を下げた。その日の書状は、いつもより一刻早く片づいた。
【前田利家 推定残存日数】
17日
【本日の豊臣家滅亡確率】
94.8% → 94.4%
長政は、味方ではない。敵でもない。生き残る者だ。死んだ忠臣は美しく語られる。生き残った現実主義者は疑われる。それでも、家族は、生きている者にしか守れない。
俺は灰色の石を懐に入れた。碁石一つが、ずいぶん重く感じられた。十歳の子供の命と、それを隠した男の青い顔と、それを知らずに生きてきた男の三十年分の重さだった。
その夜、夢を見た。安土の廊下で、青い顔の半兵衛が、小さな子供の手を引いて、暗がりの方へ急いでいく夢だった。子供は、一度だけ振り返った。顔は、見えなかった。




