第35話 灰色の石
【豊臣家滅亡まで 残り5,900日】
長政が来る前に、なぜか正則が俺の部屋に寄っていった。
「拾様。長政が参るそうでございますな」
「うん」
「気をつけなされ。あやつは、猫のような男でござる」
「ねこ?」
「こちらが見ておるときは、何もせぬ。目を離した隙に、いつの間にか一番いい座布団の上におる」
正則は、心底いやそうな顔をしていた。
「なかが、わるい?」
「悪うはござらぬ。朝鮮では、同じ陣で戦うた。……あやつは、いつも一番先に退き口を見つけておった。おかげで、わしの兵も何度か助かった。それが、腹が立つ」
助けられたから、腹が立つ。正則らしい理屈だった。
黒田長政は、約束の刻限より少しだけ早く来た。早すぎず、遅すぎず。こちらの支度が終わっていて、待たせても礼を失わない、ちょうどよい時刻だった。
それだけで、嫌なほど有能だと分かった。
「黒田甲斐守長政にございます」
深く頭を下げた。声は大きすぎず、小さすぎない。座る場所も、俺に近すぎず、淀殿から遠すぎず。三成の真正面は避け、清正が入ってきてもすぐ立てる位置。入口が見え、庭が見え、全員の顔が見える。
この男は、座る前から退路を見ていた。
【人物評価:黒田長政】
統率 82 | 戦術 84 | 政務実務 86 | 兵站財務 88
交渉外交 91 | 人望 79 | 学習適応 92 | 制度理解 87
固定スキル:状況読解/陣営翻訳/現実解/撤退判断
特記:合理性 100
弱点:最適解を選びすぎて疑われる
合理性、百。また百が出た。三成の政務。家康の待機。そして長政の合理性。この時代の能力値の配分は、極端すぎる。
「拾様におかれましては、御健勝の由、喜ばしゅう存じます。前田大納言殿も、御快方へ向かわれていると聞き及びました」
言葉は祝いだった。目は、こちらの反応を見ていた。利家が本当に快方に向かっているのか。豊臣家はどこまで知っているのか。この五歳児は、どこまで話せるのか。
「甲斐守。何を見に参ったのです」
淀殿が言った。直球だった。長政の眉が、わずかに動いた。
「拾様の御機嫌を」
「それだけですか」
「前田大納言殿の御容体を」
「それだけですか」
容赦がない。長政は、一度だけ息を整えた。
「……天下の御様子を」
ようやく、本音に近づいた。
「てんかは、どう、みえる?」
長政は、五歳児に答える顔と、天下人の後継ぎに答える顔の間で、一瞬迷った。
「静かにございます」
「しずかは、いい?」
「水面が静かなときは、底の流れが見えにくうございます」
うまい。詩ではなく、警告だった。
「そこは、どっちへ、ながれてる」
「内府殿へ」
長政は、迷わず答えた。隣で三成が息を止めた。淀殿は表情を変えなかった。
「なぜ」
「決められるからにございます」
家康と同じ答えだった。
「ただしい、から?」
「正しいかどうかは、決まったあとに語られまする」
怖い。この男も、政の順番を知っている。先に決める。動かす。結果を作る。正しさの物語は、あとから付ける。
「とよとみは、きめられない?」
「……お答えしても、よろしゅうございますか」
「きいた」
長政は、三成を見て、淀殿を見て、最後に俺を見た。
「豊臣家には、決める方が、多すぎまする。大老衆。奉行衆。御台所様。北政所様。御一門。そして拾様。皆が、太閤殿下の御遺志を申されます。されど、御遺志は一つではございませぬ」
秀吉は、相手によって違うことを言った。時と目的に合わせて、その場で一番人を動かす言葉を選んだ。生きていれば、矛盾は本人が片づけた。死ねば、言葉だけが残る。それぞれが、自分に都合のいい秀吉を抱えている。
「甲斐守殿。内府殿も、大老の一人に過ぎませぬ」
三成が言った。
「左様にございます」
「ならば、その一人に人が集まるのは、御掟に背く」
「左様にございます」
長政は、何も否定しなかった。
「では、なぜ内府殿に人が集まる」
三成の声が鋭くなった。長政は、静かに答えた。
「返事が、来るからにございます」
座敷が静まり返った。
返事。それだけだ。だが組織では、それが全部になることがある。申し出る。返事がない。評議が延びる。現場が止まる。別の人に聞く。その人が決める。次からは、最初からその人に聞く。使われない権限は、紙の上に残っていても、消えていく。
「甲斐守。そなたも、内府殿のもとへ集まるのですか」
淀殿が問うた。長政は、今度は即答しなかった。
「集まるかどうかを、見定めております。内府殿が勝つかどうか。……いえ。勝ったあと、誰を生かすかを」
勝ち負けではない。負けた者の扱いを見ている。この男は、戦が始まる前から、戦のあとを見ていた。
「かいのかみは、しぬのが、こわい?」
三成がこちらを見た。子供の問いに聞こえただろう。だが長政は、笑わなかった。
「恐ろしゅうございます」
正直だった。
「ぶしでも?」
「武士ゆえに、死ぬ支度はいたします。されど、死んでよいとは思いませぬ。家臣も、妻も、子も、領民も、わしの死で忠義を示すことはできませぬゆえ」
視界の板が、一度揺れた。
【人物評価:黒田長政】
特記:合理性 100
??保護 100
一瞬だけ、読めない項目が出て、すぐ消えた。何を保護しているのか。見えなかった。
「拾様。一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「はい」
「もし、わしが拾様に忠節を尽くし、そのうえで内府殿に敗れたなら。黒田の家の者を、お救いいただけますか」
答えが、出なかった。
勝てば救える。だが、負けたときに、俺に救う力はない。忠義を求める者は、負けたあとの話をほとんどしない。死んでくれ。家を捨ててくれ。最後まで戦ってくれ。そのあと妻子がどうなるかは、勝ったときにしか語られない。
「……わからない」
淀殿が目を伏せた。三成は何か言いかけて、やめた。長政は、深く頭を下げた。
「その御答えを、聞きに参りました」
責めてはいなかった。落胆もしていなかった。観測したのだ。
「でも、つくる」
長政が顔を上げた。
「何を」
「まけても、かぞくが、のこる、しくみ」
俺が負けても、俺が死んでも、敵に降った家臣の家族が皆殺しにされない仕組み。簡単ではない。勝った側の同意が要る。寝返りを勧めるのかと、味方からも責められる。だが、逃げ道のない組織は、最後に全員を死なせる。
「そのようなものが、作れまするか」
「わからない。でも、ないと、だれも、さいごまで、えらべない」
長政の顔が、初めて変わった。ほんのわずかに、驚いていた。それから、笑った。
「拾様は、太閤殿下には、似ておられませぬな」
また父と比べられた。
「わるい?」
「いいえ。……ゆえに、見届けとうございます」
味方になるとは言わなかった。敵にならないとも言わなかった。見届ける。観測者は、まだ盤の外にいた。
帰り際、長政は小さな箱を置いていった。土産を持ってくる大名は多いが、帰り際に置いていく大名は珍しい。先に渡せば、話の間ずっと、こちらはその土産のことを気にする。帰り際なら、話が終わったあとで、土産だけが残る。中には、碁石が入っていた。黒と白。そして箱の底に、一つだけ、灰色の石があった。
「これは」
「黒にも白にも、見える石にございます」
「かいのかみ?」
長政は、答えずに笑って帰っていった。
【人物評価:黒田長政】
所属:豊臣恩顧/徳川接近/黒田家当主
分類:不能
仕組みの方まで、困っていた。分類できない人間は、三成が一番嫌う種類の人間だ。そして、たぶん、この先一番必要になる種類の人間でもあった。
【前田利家 推定残存日数】
18日
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.0% → 94.8%
俺は、灰色の石を指でつまんで、灯にかざした。光の向きで、黒にも白にも見えた。
さっき一瞬だけ見えた、あの読めない項目。この男は、いったい何を守ろうとしているのか。




