第34話 淀殿の目
【豊臣家滅亡まで 残り5,902日】
利家の屋敷から戻った夜、淀殿は一人で表御殿の広間に入っていった。家康と最初に会った、あの広間だった。
俺は、その後を追った。
座布団はとうに片づけられていた。金の襖だけが、何事もなかったように灯を跳ね返している。淀殿は、家康が座っていた場所の前に立って、じっと畳を見ていた。
「ははうえ」
「拾」
淀殿は振り返らなかった。
「何が、見えました」
先に聞かれた。俺が聞こうと思っていたことだった。
「こわいひと」
「それだけですか」
五歳児への要求が高い。
「まてる。おこらない」
「怒らぬように、見せます」
「おかね、つよい。ひとを、みる」
淀殿は、少しだけ頷いた。
「では。内府殿は、敵ですか」
簡単な問いではなかった。家康は豊臣の大老であり、秀吉から政務を託された家臣であり、日本一の領国を持つ大名であり、いずれ競う相手であり、そして、俺を守ると誓った男だった。前世で言えば、競合で、取引先で、大株主で、監督官庁で、全部が一社に入っているようなものだ。
「……わからない」
正直に答えると、淀殿が初めて少し笑った。
「それで、よいのです」
「よい?」
「内府殿を敵と決めれば、楽になります。何をされても、悪意と言えますから。味方と決めても、同じです。何をされても、善意と言えます」
淀殿は、俺の方を向いた。
「どちらも、考えぬための言葉です」
驚いた。この人は、俺が思っていたより、ずっと冷静だった。後の世の物語では、淀殿は家康を憎む女になる。誇り高く、忠告を聞かず、豊臣を滅ぼす。だが目の前の母は、憎しみで判断していなかった。恐れで、観察していた。恐れは偏りも生む。だが、危険を見つける力にもなる。
「内府殿は、約束を守ります」
意外だった。
「なら、いいひと?」
「約束を守る者が、善き者とは限りませぬ。内府殿は、自分のした約束をよく覚えております。相手のした約束も、決して忘れませぬ。そして、約束を結んだ時と今とが違うと考えれば、新しい約束を求めるのです」
「ふるいのは?」
「破りませぬ。捨てるのです」
言葉は違う。結果は似ている。
「太閤殿下は、約束を、人で結ばれました。褒美と、恩と、怒りと、笑いと、恐れで。殿下がおられる限り、皆が約束を覚えておりました。内府殿は違います。家で結びます」
婚姻。養子。領地。人質。家臣のやりとり。家康は、自分が死んでも残る糸で人を結ぶ。秀吉は、自分がいたから結べた。
「ははうえは、いえやすが、きらい?」
淀殿は、すぐには答えなかった。庭の方を見た。松の枝が、夜風に揺れていた。
「……嫌うほど、近うはありませぬ」
淀殿の指が、膝の上で着物の布を小さくつまんでいた。言葉より、指の方が正直だった。
「こわい?」
「はい」
即答だった。
「なぜ」
「勝てるからです。……戦わずに」
その言葉が、胸に落ちた。
家康は大坂城を攻めなくていい。俺を殺さなくてもいい。豊臣の命令を誰も待たなくなれば、それで豊臣政権は終わる。看板だけ残して、中身を全部持っていく。会社で言えば、社名も本社ビルも創業者の息子も残っている。だが客も、人も、決める力も、金も、他社に移っている。倒産より静かだ。だから、気づきにくい。
「拾。内府殿を、悪人と思うてはなりませぬ。善人とも、思うてはなりませぬ。……豊臣より、徳川を大切にする人だと、思いなさい」
明快だった。悪意ではない。順番の問題なのだ。
「ははうえは? なにが、いちばん?」
「豊臣家です」
早かった。だが、淀殿はすぐに言い直した。
「……いいえ。拾です」
喉が詰まった。
「とよとみ、より?」
「豊臣がなくとも、拾が生きれば、私は」
そこで、淀殿の声が止まった。言ってはいけないことを言いかけたのだ。天下人の母が、豊臣家より息子を選ぶ。公には、許されない言葉だった。
淀殿は、一度目を閉じて、言い直した。
「私は、豊臣家を、拾が生きられる家にしたいのです」
俺は、返事ができなかった。
視界の隅に、板が開いた。
【人物評価:淀殿 詳細】
危機察知 98/政治観察 91/記憶保持 97
信頼回復 4
固有特性:一度失った安全を、二度と信じない
信頼回復、四。あまりにも低かった。
小谷で父を失った。北ノ庄で母を失った。鶴松を失った。そして秀吉を失った。この人は、家が安全だと信じるたびに、その家を失ってきたのだ。四という数字は、性格ではない。履歴だった。
俺は、ようやく分かった気がした。この人が「譲らない」のは、誇りのせいではない。譲った先で、何度も大事なものを失ってきたからだ。安全を信じる力が、もう四しか残っていないのだ。
四を、五にできるだろうか。数字を上げる施策なら、前世で山ほど作った。だが、この数字だけは、会議でも制度でも上がらない気がした。
「ははうえ」
「何です」
「いっしょに、みる。いえやすを」
一人で恐れれば、恐れが判断になる。二人で見れば、観察になる。
淀殿は、しばらく俺を見ていた。やがて、小さく頷いた。
「では、拾。内府殿だけでなく、内府殿に近づく者を、ご覧なさい」
「ちかづく、もの?」
「人は、勝ちそうな方へ寄っていきます。寄っていく者の顔ぶれを見れば、風がどちらへ吹いているか分かります」
淀殿は、そう言ってから、少し恥ずかしそうに笑った。
「……殿下の受け売りです。殿下は、ご自分が勝ちそうなときほど、寄ってくる者の顔をよく覚えておられました。負けそうなときに、誰が残ったかも」
秀吉の目と、淀殿の目。二人とも、人の動きで天下を測っていたのだ。
その夜から、俺と淀殿の間に、妙な遊びが一つ生まれた。
足音当てである。
襖の向こうの廊下を、誰かが通る。俺たちは顔を見合わせて、誰の足音かを当てる。
「みつなり」
「なぜ分かるのです」
「いつも、おなじ、あいだ。いち、に、いち、に」
足音が止まり、襖の外から「失礼いたします」と三成の声がした。当たりだった。
次の足音は、どすどすと床を揺らして近づいてきて、途中で一度止まり、侍女の「走ってはなりませぬ」という声のあと、また少し静かになって、やがてまたどすどすと遠ざかっていった。
「……正則殿ですね」
淀殿が、袖で口元を隠して笑った。
「いえやすは?」
「内府殿は」
淀殿は、少し考えた。
「足音が、聞こえませぬ。……いつの間にか、そこにおられるのです」
笑い話のはずだった。だが、二人とも、少しだけ背筋が冷えた。
人を観察するとは、こういうことなのだ。数字ではなく、足音の間隔で、止まる場所で、侍女に叱られるかどうかで、その人を知る。淀殿は、この城で何十年も、そうやって人を見てきたのだろう。
翌日の夕方、一通の書状が届いた。
差出人は、黒田甲斐守長政。中身は、秀頼への御機嫌伺いと、利家の容体を案じる言葉だった。整っていた。丁寧だった。何の問題もなかった。
だから、淀殿は書状を二度読んだ。
「この者は、内府殿より、少し遠くに立つ者です」
「みかた?」
「まだ」
「てき?」
「まだ」
また、まだ、だった。
「では、なに」
淀殿は、書状を静かにたたんだ。
「見に来る者です」
何を見に来るのか。俺を。豊臣を。利家の死んだあとを。誰が勝つのかを。
【面会希望:黒田長政】
目的:観測
表示が、正直すぎた。
【前田利家 推定残存日数】
20日
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.2% → 95.0%
一緒に見る、と言っただけで〇・二。この母と同じ方向を向けたことの方が、数字より大きかった。
その夜、淀殿は、久しぶりに自分の部屋で眠った。俺の布団の横ではなく。
乳母によれば、灯を消すのは、いつもより一刻早かったという。




