第33話 誰も決めぬことを恐れなされ
【豊臣家滅亡まで 残り5,903日】
家康から、また書状が届いた。
中身は穏やかだった。俺の成長を喜び、淀殿の健やかさを願い、利家の快復を祈る。そして最後に、一行だけ。
《近日、拾君へ申し上げたき儀あり》
何の儀だ。書いていない。穏やかな文の最後に、用件だけを書かない。前世で言えば、件名のない役員からのメールである。開くだけで胃が痛い。
「会う必要はございませぬ。申したき儀など、書けばよいのです」
淀殿は言った。正しい。だが、家康は書けない話をしたいのだ。書き残したくないか、相手の顔を見て言いたいか。どちらにしても、大事な話だった。
今回は、利家が「会うべきだ」と言った。
「内府殿は、拾様を測りに参るのではございませぬ。伝えに参るのでしょう」
「なにを」
利家は咳をした。答えなかった。近ごろ、咳が増えた。息を整える間も、長くなった。
「おそらく……わしが死んだあとの話に、ございます」
淀殿の指が、膝の上で固くなった。
「縁起でもない」
「縁起で、病は治りませぬ」
利家は笑った。笑うな、と思った。
会談の場所は、利家の屋敷になった。大坂城でもなく、伏見でもない。利家が選んだ。自分の屋敷なら、家康も淀殿も、相手の城に呼びつけられたとは感じない。調停者は、場所まで調停するのだ。
座敷は、広すぎず狭すぎず。床の間の掛け物は、豪華すぎず。茶も菓子も、双方で同じもの。家康の膳だけが豪華でもなく、俺の菓子だけが甘くもない。
五歳児としては、少し不満だった。
家康は、座るなり本題に入った。
「拾君。今、この天下を、誰が動かしておられまするか」
大名は自分の国では自分で決める。全国の政務は、三成ら奉行が回す。戦と大名の調整は、家康と利家が中心。淀殿は大坂城と秀頼の名を守る。誰も、全部は動かしていない。
「みんな」
「皆で動かすものは、誰も動かさぬことがございます」
家康は、すぐに返した。
「その間に、天下に大事が起これば、どなたが命じられます。大老が揃わぬときは。書状が届く前に火急の事が起きたときは」
三成が口を開きかけた。
「大老衆の合議により」
「五人が揃わぬ時は」
「書状をもって」
「書状が届く前に」
「奉行の暫定の」
「どの奉行が」
三成の言葉が、止まった。家康は三成を責めていなかった。仕組みの穴を、一つずつ静かに指で示しているだけだった。
「内府殿は、御自分で決めたいと、申されるのですか」
淀殿の声が冷たかった。
「決めたいのではございませぬ。決める者が要ると、申しております」
「同じことでしょう」
「違いまする。……わしでなくとも、よい」
本当か。俺は家康を見た。心の中までは、数字にならない。
「では、利家殿に」
淀殿が言った。部屋が静まった。利家が笑った。
「病人に、重い荷を載せなさる」
「利家殿は、太閤殿下も頼られた御方。今も皆が従います」
「今は」
その二文字が、痛かった。
「わしが明日死ねば、同じ問いが戻ってまいります」
淀殿が、顔を背けた。俺は、膝の上で拳を握った。家康は、利家を見ていた。悲しそうには見えなかった。だが、急かしてもいなかった。
「拾君。利家殿がおられなくなれば、どなたが命じられます」
分からない。三成では大名が従わない。家康なら動く。だが権限が徳川に移る。淀殿は大坂城の外では通らない。大老の合議は間に合わない。俺には正統性がある。だが五歳だ。命令の意味を解釈するのは、結局、周りの大人だ。
「……いない」
淀殿が息を呑んだ。三成が顔を上げた。家康は、動かなかった。
「左様にございます。今の豊臣家には、太閤殿下の代わりが、おりませぬ」
勝ち誇らなかった。責めもしなかった。ただ、認めた。
「かわりは、いらない」
家康の目が変わった。利家も、こちらを見た。
「ひとりの、かわりは、いらない」
秀吉の代わりを作れば、次の秀吉に頼りきる。家康を代わりにすれば、豊臣は徳川に頼りきる。利家なら、利家の死で崩れる。俺が代わりになれば、五歳児に全部が集まる。劉禅のころと同じ失敗だ。
「では、どなたが命じられます」
「わける。いくさ。おかね。ひと。みち。こめ」
言葉が、うまく出てこなかった。軍事。財政。人事。物流。備蓄。それぞれに、決める者を定める。
「職掌を定める、ということにございますか」
三成が言った。翻訳者がいる。助かる。
「されど、最後に意見が割れた時は、どなたが決めます」
逃げられなかった。役目を分けても、最後にまとめる者は要る。前世なら社長。蜀なら皇帝。豊臣では、秀頼。俺だ。
「……ぼく」
家康が、静かに頷いた。
「それが、天下人にございます」
違う、と言いたかった。だが、この時代では、最後に裁く者を天下人と呼ぶのだ。
「いつも、じゃない。ひつような、ときだけ」
「誰が、必要と決めます」
また穴だ。この男の制度の見直しは、厳しすぎる。
「……みつなり。たすけて」
思わず呼んでいた。三成が、一瞬目を見開いた。天下人の子が、会談の最中に家臣に助けを求めたのだ。だが、悪くないと思った。助けを求める道を作ること。蜀でも、何度も必要だった。
三成は、少し考えた。
「火急の定めを、先に決めまする。期限。被害。兵の動き。領国を越えるか否か。その条件を満たす時のみ、暫定の権を発する」
早い。
「暫定の命は」
家康が問う。
「後に評議で検め、誤りであれば、記し……」
三成が止まった。罰する、と言いかけたのだ。
「……次に、改めまする」
言い直した。
「誰が命じたかを、残しまする」
「責めを明らかにするためか」
「学ぶためにございます」
それは、いつか俺が教えた言葉だった。三成が、自分の言葉として使っていた。胸が、少し熱くなった。
「一月で、作りまする」
三成が言った。
「みつき」
俺が言った。三成が不満そうに俺を見た。
「なぜ」
「はなす。みんなと。つかうひとと」
三成なら一月で、正しい仕組みを作れる。三月かけて、使える仕組みにする。その差を、覚えてほしかった。
「三月」
利家が言った。
「わしも、そこまでは生きねばなりませぬな」
誰も笑わなかった。家康だけが、利家に深く頭を下げた。
「ぜひ」
本心だった、と思う。利家が生きていれば、家康はすべてを決めずに済む。敵であり、重しであり、逃げ道でもあるのだ。
会談の終わりに、家康が言った。
「拾君。今は、誰も決めぬことを、恐れなされ。一人の誤りは、後で正せます。誰も決めずに失うたものは、誰も責めを負いませぬ。……そして誰も決めぬ時、最初に決めた者が、皆を動かしまする」
「いえやす、みたいに?」
淀殿の周りの空気が凍った。正信が、わずかに息を吸った。家康は、長いこと俺を見ていた。
「左様にございます。わしが決めれば、天下はわしの決めた方へ動きまする」
脅しではなかった。警告だった。自分を止めたいなら、仕組みを作れ。家康自身が、そう言っているように聞こえた。
「いえやすは、てんかびとに、なりたい?」
「……なりたいか否かではなく、ならねば収まらぬ時が、来るやもしれませぬ」
「こないように、つくる。みんなが、きめられる、くにを」
家康の顔に、ほんの一瞬、寂しさのようなものがよぎった。すぐに消えた。
「それができれば、太閤殿下より大きな仕事にございましょう」
帰りの輿の中で、淀殿が尋ねた。
「拾。内府殿の言葉を、信じるのですか」
「しんじない」
即答した。淀殿が、少し驚いた。
「でも、ただしい」
敵の言葉が正しいときが、一番困る。嘘なら否定できる。正しければ、使うしかない。ただし、敵の望む形ではなく、自分の形で。
【全国の意思決定への影響度】
徳川家康 43%/前田利家 21%/石田三成 14%/その他 19%/豊臣秀頼 3%
三パーセント。正統な後継ぎが、三。
【前田利家 死亡後の予測】
徳川家康 43% → 58%
武断派の独自行動 急増
利家の二十一を、誰か一人に渡してはいけない。役目に、評議に、記録に、人に、分けなければならない。
三月。間に合うか。
見たくなかった表示が、勝手に開いた。
【前田利家 推定残存日数】
21日
喉が、乾いた。
【本日の豊臣家滅亡確率】
93.9% → 95.2%
城に戻ると、三成はもう白い紙を広げていた。一番上に、大きく書いてあった。
《誰が、何を、いつまでに決めるか》
三成の目は、あの光を宿していた。眠らなくなる光だった。そして俺は、それを止める言葉を、まだ持っていなかった。




