第32話 無色の紐
【豊臣家滅亡まで 残り5,912日】
徳川家康は、大坂城を出ると、笑うのをやめた。
駕籠に乗る前に、一度だけ天守を見上げた。大きい。秀吉の城は、人を圧するために作られている。石垣も、堀も、金も、瓦も。誰もが、自分より大きなものの前に立たされていると感じる。秀吉が死んでも、城は残る。だから人は錯覚する。秀吉も、まだどこかに残っているのだと。
「いかがでございました」
本多正信が尋ねた。家康は駕籠に乗り込んでから、短く答えた。
「五歳であった」
「左様にございます」
「五歳では、なかった」
正信は、何も言わなかった。家康が自分で続けるまで待った。この男も、待つことを知っている。
「太閤殿下に、似ておるか」
「お顔は」
「顔ではない」
「では」
「似ておらぬ」
正信の口元が、わずかに動いた。
「それは、よろしゅうございましたか」
「分からぬ」
駕籠が揺れた。家康は目を閉じた。
太閤に似ていれば、危うい。人を集め、戦を始め、常識を壊し、天下を動かす。あの男の息子が、あの男と同じ才を持っていれば、自分は一生、その才と付き合わねばならない。
だが、太閤に似ていないからといって、読みやすいとは限らない。
あの子は、人を守ると言った。全部は無理だと、あっさり認めた。天下人になるかどうかは、まだ決めていないと言った。五歳児の逃げ口上か。本心か。誰かに教え込まれたか。
「治部の言葉でございましょうか」
「違う」
「利家殿」
「違う」
「淀殿」
「もっと違う」
家康は、短く笑った。
淀殿なら、天下を継ぐと答えさせる。治部なら、掟を守ると答えさせる。利家なら、皆を支えると答えさせる。あの子の言葉は、どれとも少しずつ違った。
一人が、全部、死なないように。
幼い舌で、そう言った。意味は、家康にもまだ完全には分からなかった。だが、あの子がその言葉を口にしたとき、家康の胸の奥で、古い傷が一つ、小さく疼いた。
信康。
家康の長男だった。武勇に優れ、気性が激しく、父によく似ていると言われた。二十一の年に、腹を切った。信長の命だった。家康は、それを止められなかった。家を守るために、止めなかった。
あの日から、家康は、後継ぎというものを、ある種の怖れをもって見るようになった。家を継ぐ子は、家のために死ぬことがある。父の失敗の責めを、子が負わされることがある。
――五歳の子が、親の失敗だけを理由に死ぬのは、気に入らぬ。
家康は、そんな言葉を誰かが口にしたことなど、知るよしもなかった。ただ、茶室であの子の目を見たとき、なぜか信康の元服の日を思い出していた。
伏見の屋敷に戻ると、嫡男の秀忠が出迎えた。二十一になる、生真面目な若者だった。
「父上。大坂の若君は、いかがでございました」
「よう聞く子であった」
家康は、草履を脱ぎながら答えた。
「おぬしより、な」
秀忠の顔が、わずかに強張った。家康は、それに気づいていた。気づいていて、言ったのだ。
「……精進いたします」
秀忠は頭を下げた。父の前では、いつもこうだった。反論しない。問い返さない。言われたことを、言われた通りに、丁寧にやる。
家康は、その頭を見下ろしながら、自分が後継ぎを育てることに、あまり上手くないことを知っていた。信康を失ってから、跡継ぎというものに、どう手を差し伸べればいいのか分からなくなっていた。
「父上。一つ、お願いが」
秀忠が、珍しく自分から口を開いた。
「江が、大坂の姉上と甥御の様子を、知りたがっております。……何か、お伝えできることがあれば」
家康は、少し黙った。息子の妻は、淀殿の妹だった。この城の奥にも、大坂と糸でつながっている女がいるのだ。
「若君は、木馬を喜んでおられた、と伝えよ。……それから、淀殿は、お痩せになっていた、と」
秀忠は、深く頭を下げて下がった。
痩せていた、と伝えさせたのは、余計なことだったかもしれない。だが、江という女は、姉のことになると目の色が変わると聞いている。息子の妻を通じて、大坂の奥に細い糸が一本つながる。それが後で役に立つかどうかは、まだ分からない。家康は、分からないものも、捨てずに取っておく男だった。
家康は、奥の一室に入った。
壁一面に、木札が掛けられていた。大名の名を書いた札だった。札と札の間に、色とりどりの紐が張り巡らされている。
赤は婚姻。青は主従。白は親族。黒は遺恨。黄は借り。
家康は、この部屋でだけ、天下を一枚の図として見ていた。
伊達と徳川の間に、新しい赤い紐。蜂須賀と徳川の間にも赤。福島と徳川の間にも赤。治部と福島の間には、黒い紐が二本。治部と加藤の間にも黒。だが、その黒の横に、細い黄色の紐が一本、最近になって足されていた。
家康は、その黄色い紐を指でつまんだ。
「治部と加藤の間に、借りができたか」
「水桶の件と聞き及んでおります」
正信が答えた。家康は、しばらく黙っていた。
「利家殿は、あとどれほどか」
「医師の見立てでは、そう長くは」
家康は、前田と書かれた札を見た。その札からは、ほとんど全部の札へ、紐が伸びていた。青も、白も、黄も。この札が落ちれば、紐は一斉に垂れ下がる。
「利家殿が生きておられるうちは、わしは全部を決めずに済む」
家康は、独り言のように言った。
「決めずに済むというのは、楽なことよ。誰かが止めてくれる。誰かが叱ってくれる。……あの御方がおらぬようになれば、わしが止まらねばならぬ時に、止めてくれる者がおらぬ」
正信は、主の横顔を見た。天下を狙う男の顔には見えなかった。重い荷を背負う日を、先に数えている男の顔だった。
家康は、盤の前で、ふと秀吉の最後の姿を思い出した。
死の床で、秀吉は家康の手を握った。骨ばかりの指で、驚くほど強く。
――内府。秀頼を、頼む。頼む。
家康は、承知したと答えた。起請文にも名を書いた。その言葉は嘘ではなかった。あの時は、確かに本心だった。
だが、頼まれた者は、頼まれたことに縛られる。頼まれたからこそ、動かねばならぬときがある。天下が乱れれば、秀頼を守るという名目で、天下を握らねばならぬかもしれない。
「頼むと言うのは、楽なものよ」
家康は、呟いた。
「頼まれた方は、死ぬまで荷を下ろせぬ」
正信は、何も答えなかった。
家康は、新しい札を一枚取り出した。
豊臣秀頼。
それを、盤の真ん中に掛けた。そして、紐の束に手を伸ばした。
赤ではない。婚姻はない。青でもない。自分は臣下だが、それを紐で認めるつもりはない。白でもない。黒は、まだ早い。
家康は、長いこと迷ってから、色のついていない紐を一本選んだ。
徳川家康と、豊臣秀頼を、その無色の紐で結んだ。
「殿。その紐は」
「まだ、意味のない関係よ」
家康は答えた。
「これから、どの色にも変わる」
翌朝、家康は二つのことをした。
一つは、奥州と四国へ、新しい縁組の使者を出したこと。
もう一つは、大坂へ書状を送ったことだった。秀頼の健やかな成長を祝い、淀殿の身を気遣い、利家の快復を祈る、穏やかな文だった。
家康の中では、二つは矛盾していなかった。どちらも、天下を崩さないための手だった。
だが、受け取る側には、そうは見えない。
盤というものは、見る者によって、まったく別の意味を持つ。家康だけが、天下を一枚の図として見ていた。
その家康ですら、あの子の札の意味を、まだ読めていなかった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
計測対象外(主人公が登場していません)
その夜、大坂城の子供部屋で、五歳の後継ぎは、木馬を抱いたまま眠っていた。枕元には、父の遺言の写しと、権兵衛の母の手紙と、与助が描いた鉄砲の構えの絵が、重ねて置かれていた。




