第31話 冷めるまで待つ茶
【豊臣家滅亡まで 残り5,912日】
「拾君は、太閤殿下の御跡を、どのように継がれますかな」
二度目の会談で、家康はいきなり核心を突いてきた。
場所は、大坂城の小さな茶室だった。
茶室の入口は、にじり口と呼ばれる小さな穴である。武士も大名も、刀を外し、頭を下げて、這うようにして入る。身分の上下を一度なくすための入口だ。
五歳児の俺は、立ったまま、すっと入れた。
家康は、そうはいかなかった。膝をつき、頭を下げ、肩を斜めにして、しばらくにじり口と格闘していた。やがて、腹のあたりで一度止まった。
誰も何も言わなかった。言えなかった。
家康は、何事もなかったように身をよじって中に入り、衣の裾を整えてから、静かに座った。
「……太りましたゆえ」
先日と同じ言い訳だった。今度は、本当に太っていたのだと思う。本多正信が、にじり口の外で、長いこと咳をしていた。表御殿よりずっと狭い。逃げ場がない。壁が近い。家康の顔も近い。茶室は身分を外す場所だと聞くが、嘘である。身分が消えるのではない。隠しにくくなるだけだ。
同席していたのは、淀殿と、前田利家と、石田三成。家康の側は、本多正信ひとりだった。
膝の前に置かれた茶碗は、熱かった。大人用である。五歳児の手では持てない。
「まだ、あつい」
家康が笑った。
「待つのも、茶のうちにございます」
待機能力百が、茶まで支配している。
「さめるまで、べつのはなし」
「それはよろしい」
家康は、自分の茶を一口飲んだ。熱くないのか。顔が少しも動かない。舌まで百なのかもしれない。
家康の問いは、俺一人に向けたものではなかった。この狭い茶室にいる全員に聞かせるためのものだった。
「ちちうえのように、てんかを、おさめます」と答えれば、豊臣の家臣は喜ぶ。家康は警戒する。
「まだおさないので、みなにまかせます」と答えれば、家康は安心する。豊臣の家臣は不安になる。
「わかりません」と答えれば、五歳児としては自然だ。だが、何も考えていない後継ぎだと思われる。
三択に見えて、全部に罠がある。
「……ちちうえは、なにを、のこしたの?」
家康の目が、少しだけ変わった。問いに、問いで返したのだ。
「多くを。天下の静まり。大坂の城。諸大名の定め。そして、拾君を」
「ぜんぶ、つがないと、いけない?」
家康は、すぐには答えなかった。待った。俺も待った。茶が、少しずつ冷めていく。
「すべてを継げる者は」
やがて家康が言った。
「太閤殿下、お一人でございましょう」
淀殿が、家康を見た。不敬ではない。最大の賛辞にも聞こえる。だが同時に、秀頼には継げないと言っている。
「じゃあ、いえやすは、なにを、つぐ?」
茶室の空気が変わった。正信が、わずかに息を吸った。
家康は、秀吉の後継ぎではない。表向きは豊臣の臣下だ。だが天下の秩序を、今、誰よりも引き受けている。
「わしは、太閤殿下の御遺命を、守るだけにございます」
完璧な答えだった。責任を引き受けているようで、権限を正当化できる。御遺命を守る。誰が解釈するのか。家康だ。幼い秀頼を支える。どこまで支えるか決めるのは誰か。家康だ。言葉の全部が、家康の手元に権限を集めていく。
視界の隅で、板がまた一行、増えた。
【人物評価:徳川家康】
表示可能な項目:健康管理 99/待機能力 100/危機管理 100
その他の項目:開示されていません
危機管理、百。この男は、答えにくい問いを、答えやすい形に変えて返す天才なのだ。
「ぼくも、まもる」
「何を」
「ひと」
家康が、少し首を傾けた。
「すべての人を、でございますか。それは、無理でございましょう」
「うん。むり」
認めた。淀殿が、驚いた顔で俺を見た。天下人の子は、無理と言ってはいけないのかもしれない。だが、無理なものは無理だ。
「でも」
言葉がうまく出てこなかった。五歳児の口は小さい。言いたいことは、もっと大きかった。
一人が全部を背負って、全部を決めて、全部を守ろうとして、倒れないように。劉備も、諸葛亮も、秀吉も、そうして倒れた。前世の俺自身も。
「ひとりが、ぜんぶ、しなないように」
崩れた言い方になった。
だが家康の目が、初めて、まっすぐ俺を捉えた。子供を見る目ではなかった。敵を見る目でもなかった。分からないものを見る目だった。
【徳川家康 → 豊臣秀頼】
対象理解度 12% → 21%
上がった。理解されるのも、危うい。
「拾君は、太閤殿下とは、違う天下人になられたいのですな」
「てんかびと」
俺は、茶碗に手を伸ばした。もう冷めていた。一口飲んだ。苦かった。
「……まだ、きめてない」
茶室の全員が、俺を見た。
天下人になると答えれば、家康の警戒は上がる。ならないと答えれば、豊臣の求心力が落ちる。どちらも、今は選べない。
「おおきくなったら、きめる」
五歳児の特権である。号泣ではない方の。
家康は、しばらく俺を見ていた。それから、ゆっくりと頭を下げた。
「では、その日を、楽しみにお待ちいたしまする」
待機能力百に、待たれる。これほど怖い約束はない。
家康と正信が去ったあと、茶室には、淀殿と利家と三成と俺が残った。
淀殿は、何も言わなかった。言いたいことがありすぎて、言えないのだと分かった。
沈黙を破ったのは、利家だった。
「……それにしても、内府殿が、にじり口で止まられた時は」
利家は、肩を震わせていた。
「わしは、笑いをこらえすぎて、死ぬかと思いましたぞ。医師どもに、何と申し開きをすればよいか」
三成が、真顔で答えた。
「死因は、窒息と記しまする」
「記すな」
淀殿が、袖で口元を覆った。肩が、小さく揺れていた。この人も、ずっとこらえていたのだ。太閤殿下の御跡を継ぐ、と、この人は俺に言ってほしかったのだ。
利家が、冷めた茶をすすった。
「拾様。わしも未だに、前田利家が何者か、よう分かりませぬ」
「としなのに」
「年を取ったからこそ、分からぬことが増えまする」
老人はずるい。分からないことを、知恵のように言う。
「ただ、一つだけ」
利家は、茶碗を置いた。
「太閤殿下にならぬことと、太閤殿下を否定することは、同じではございませぬ」
胸の奥に、言葉が落ちた。
父から卒業することと、父を捨てることは、同じではない。あの金蔵の奥の草履を、俺は捨てたくなかった。だが、あの金の山を、父と同じやり方で増やせるとも思えなかった。
淀殿が、そっと顔を上げた。利家の言葉は、たぶん俺だけに向けたものではなかった。
その夜、自分の数字が、また勝手に開いた。
【人物評価:豊臣秀頼(拾)】
主人公目標:豊臣秀吉の後継者になる
文字が揺れた。そして、書き換わった。
主人公目標:未設定
国を立て直そうとしているのに、目標が未設定。最悪である。さらにその下に、一行が足された。
※目標が未設定の場合、周囲の期待が主人公の目標を代わりに定めます
母の期待。家臣の期待。家康の読み。天下。全部が、俺をもう一人の秀吉にしようとしている。自分で決めなければ、俺の人生は、父の続きとして書かれてしまう。
【本日の豊臣家滅亡確率】
93.5% → 93.9%
上がった。目標を持たない後継ぎは、それだけで不安の種なのだ。
隣の部屋から、淀殿の声が聞こえた。誰かと話しているのではなかった。仏壇の前で、秀吉に話しかけていた。
「殿下。拾は、殿下と違う道を、歩くのやもしれませぬ。……それでも、よろしゅうございますか」
返事は、もちろんなかった。
翌朝、淀殿は、いつもより少しだけ遅く起きてきた。目が赤かった。だが、朝餉の席で俺の椀に魚の身をほぐして入れる手つきは、いつもより、少しだけ柔らかかった。




