第28話 水桶は幾つ
【豊臣家滅亡まで 残り5,936日】
変化は、大きな音を立てなかった。
朝の鐘が鳴る。台所から湯気が上がる。奉行所に紙が運ばれる。正則は遅れて来る。三成はとうに座っている。清正は普請場の土をつけたまま来る。いつもと同じだった。
違ったのは、机が壊れなかったこと。酒の匂いが薄かったこと。そして、三成の前に茶が四つ並んでいたことだった。
清正の家臣が三人と、荷運びが一人。荷運びは、正式には荷を運ぶだけの役である。だが、誰よりも兵の名を知っていた。三成は、役目を変えなかった。荷を運ばせながら、確かめの場にも座らせた。規則を破らず、現実も使う。以前の三成なら、どちらか一方を選んでいた。
「給付の申し出、初日に百二十七名。うち、記録の不備三十一名。重複六名。偽りの疑い二名」
「偽り? 誰だ」
正則の声が大きくなった。三成は、すぐに名を言わなかった。
「確かめております。疑いだけで名を出せば、本当に傷を負うた者まで、申し出にくくなりまする」
清正が手を上げた。
「確かめ役に任せよ」
「お前の家臣か」
「三人はな」
「もう一人は」
「荷運びにございます」
三成が答えた。清正が横を向いた。正則が、何かを察して笑った。
「四人ではないか」
「三人でございます」
「四人おる」
「役目は三人でございます」
「目は八つある」
「規則の上では」
始まった。だが、怒鳴り合いではなかった。言葉遊びに近い。清正の口元も、少し上がっていた。俺は止めなかった。以前なら、早く結論を出させようとしただろう。今は分かる。人と人の間には、仕事に見えない時間が要る。
その日の昼、帰還兵の宿で火が出た。
炊事場の薪から、板壁に燃え移った。消し止めるのは早かった。死んだ者はいない。火傷を負った者が三人。だが、宿には給付の申し出の原本が置かれていた。
火が消えたとき、紙の一部は濡れ、一部は焼けていた。
三成は報せを受けると、すぐに宿へ走った。そして、走りながら清正へ使いを出した。以前なら、奉行所の中だけで処理していただろう。今回は、確かめ役を出している清正に、最初に知らせた。
清正は、普請場からそのまま駆けつけた。正則も来た。誰も呼んでいない。噂を聞いて、勝手に来たのだ。
「紙は!」
正則が叫んだ。
「人を先に見よ!」
清正が怒鳴った。正しい。
宿の前には、煤だらけの男が一人、座り込んでいた。左腕に、焼け焦げた紙の束を抱えている。右の袖は、空だった。
与助だった。
「名簿だけは……持って出ました」
与助は、咳き込みながら言った。
「わしらの名が書いてあるのは、これでございましょう。燃やしたら、また最初から、何点かと聞かれる」
笑おうとして、また咳き込んだ。左手の甲が、赤く焼けていた。片腕で、燃える部屋から紙を抱えて出てきたのだ。
三成が、与助の前に膝をついた。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。代わりに、自分の羽織を脱いで、与助の焼けた手を包んだ。
「……玄朔殿を」
三成の声が、わずかに震えていた。
そこから先は、誰の指図か分からないまま、皆が動いた。
「乾かせ。重ねるな。読める名は、別の紙へ写せ」
三成の部下と、清正の家臣と、正則の供の者が、入り混じって働いた。普通なら混乱する。だが、目的が一つだった。人を助ける。名前を失わない。
夕方までに、火傷の者は皆、手当てを受けた。申し出の紙も、大半は読めた。読めないものは、清正の家臣が兵の顔を見て補い、正則が宿の兵から名を聞き、三成が、誰から聞いたかを添えて書き留めた。
夜、三人は煤だらけで評議に戻ってきた。
「火元は炊事場の薪。管理の者の過ちにございます」
正則の顔が強張った。宿の管理を任されていたのは、正則の元家臣だった。
「罰するのか」
「はい」
空気が変わった。清正が三成を見る。また始まる、と俺は思った。
「ただし」
三成は続けた。
「炊事場は狭く、薪置き場との間も足りませぬ。管理の者一人の咎ではございませぬ。炊事場を移し、薪置き場を分け、水桶を常に置きまする。管理の者は三日、炊事の役を外し、新しい手順を覚えさせます」
処刑でも追放でもない。直して、学ばせる。この時代では、甘いと言われるかもしれない。
「水桶は二つでは足りぬ。四つ置け」
清正が言った。
「費えが」
三成は言いかけて、濡れた申し出の紙を見た。
「……四つ置きまする」
「桶はわしが出す」
正則が言った。
「私費であれば、記録が」
正則が机を叩こうとした。手が止まった。机を見た。
「書け!」
叫ぶだけで済んだ。進歩である。
翌朝、三成から清正へ、短い書状が送られた。
《昨日の火事につき、御家中の御助力に感謝いたします》
数字も、指図も、反論もなかった。
清正から、返事が来た。
《水桶は六つ置け》
礼への返事ではない。だが、返事は来た。三成は、その書状の端に書き足して送り返した。
《四つで足りまする》
使いが走った。戻ってきた。
《五つ》
《四つ》
横から、正則が筆を奪って書き込んだ。
《わしが一つ出す》
これで五つ。話は済んだと思った。
ところが夕方、その書状が回り回って利家の枕元に届いた。利家は、震える手で筆を取り、一番下に一行書き足した。
《わしも一つ》
結局、六つ置かれた。清正が最初に言った数だった。清正は勝ち誇りもせず、三成は負けを認めもせず、正則は自分の一つが一番大きいと言い張り、利家は咳をしながら笑っていた。
誰が勝ったのかは分からない。たぶん、誰も勝っていない。だが、次に火が出たとき、水は足りる。
夕方、俺は玄朔の手当て場に与助を見舞った。左手に白い布を巻かれ、壁にもたれて座っていた。
「若様。このようなところへ」
「て、いたい?」
「いや。……治部少輔様の羽織が、上等すぎましてな。あれを焦がしてしもうたのが、よほど痛うござる」
与助は笑った。それから、布を巻かれた左手を見下ろした。
「右を失うたときは、もう何の役にも立たぬと思いました。家に帰っても、嫁の顔が見られなんだ。飯を食わせてもらうだけの身かと」
「でも、なまえを、もってでた」
「へえ。……燃える部屋の中で、ふと思うたのです。わしの名が燃えたら、わしがおったことも、燃えてしまうような気がして」
与助は、少し恥ずかしそうに頭を掻こうとして、両手とも使えないことに気づいて、やめた。
「それに、明日から、若い者に鉄砲を教えるんでございます。名簿がなければ、誰に教えたか分からん」
与助の目は、宿で「何点でございますか」と聞いたときとは、別人のように明るかった。
利家の枕元でその話をすると、利家は湯を飲みながら笑った。
「一寸ほど、動きましたな」
「いっすん」
「大きな国は、一日では動きませぬ。されど、動いた」
利家が咳をした。前より長い咳だった。湯の椀を支える手が、少し震えていた。
「拾様。焦ってはなりませぬ。……いや、焦りなされ」
「どっち」
「心は焦り、手は急がぬことです」
老人は、いつも難しいことを簡単に言う。
【本日の豊臣家滅亡確率】
93.6% → 93.1%
一通の書状が届くようになった。机が一つ、壊れずに済んだ。管理の者が一人、斬られずに学び直した。宿に水桶が六つ増えた。与助の左手には、三成の羽織が巻かれていた。
その夜、伏見から使いが来た。
《徳川内府、近日大坂へ参上。拾君へ御挨拶申し上げたく》
書状を読んだ淀殿の手が、止まった。
「……会いませぬ」
即答だった。そして、俺を見ずに、書状を畳んだ。畳む指先が、白くなっていた。
伏見の城門で見送られた日から、まだひと月あまり。あの男は、今度は自分から、この城へ入ってくる。




