第24話 酒禁止令
【豊臣家滅亡まで 残り5,943日】
評議が戦にならなかった翌朝、大坂城から机が一つ、修理に運び出されていった。
壊したのは福島正則である。正確には、正則が拳を置いた場所で、机の方が耐えることを諦めた。
「古い机でございましたので」
小姓が気を遣って言った。
「ちがう。まさのりが、わるい」
五歳児でも、責任の所在くらいは分かる。修繕の費えは銀二匁。大した額ではない。だが前世なら、会議のたびに備品を壊す役員は、経理から長い文書を受け取ることになる。この時代では「勇ましい」で済む。済ませてはいけない。
しかも、正則は評議の後に飲んでいた。評議の最中にも飲んでいた。評議の前にも飲んでいた。つまり、ほぼ一日中飲んでいた。
「正則殿は昨夜、酉の刻から亥の刻まで、清正殿の宿所にて御酒。その後、御自邸に戻られ、さらに二升」
三成が、朝一番に報告した。
「なんで、しってるの」
「酒蔵の払い出しの記録にございます」
そこか。政務の男は、他人の酒量まで帳簿で把握している。
「よって、正則殿への酒の払い出しを、止めるべきかと存じます」
正しすぎる。そして、絶対に失敗する。
「だめ。ぜんぶとると、もっと、おこる」
「では、量を半分に」
「かってに、きめない」
三成が黙った。相手の話を聞けと言われたのは、つい先日のことだ。忘れてはいない。ただこの男は、相手の話を聞いたうえで、相手が間違っていると判断すれば、正しく止めに行く。そこが問題なのだ。
酒は、正則にとって嗜好品だけではない。戦場から戻った兵と話す場所であり、死者の名を聞く場所であり、酔ったふりをして弱音を吐く場所だった。それを全部取り上げれば、正則は酒を失うだけではない。話す道を失う。
「まず、まさのりに、きく」
三成は、明らかに納得していない顔で頭を下げた。以前なら、納得しないまま実行していた。今は、一度止まった。誤差の範囲かもしれないが、進歩は進歩だ。
正則は、朝から酒臭かった。
「殿下! 昨日は御前を騒がせ、申し訳ございませぬ!」
声が大きい。頭も深い。反省はしている。二日酔いでもある。
「まさのり。さけ」
正則の顔が固まった。隣で清正が目を閉じた。三成は、紙を開いた。
「昨夜の払い出しは」
「言うな!」
「二升三合」
言った。
「三成!」
「記録でございます」
「記録なら何を言うてもよいのか!」
「事実を隠せば、記録ではございませぬ」
始まってから三呼吸で燃え上がった。俺は手を上げた。
「きょうから。ひょうぎのまえは、さけ、だめ」
正則の口が開いた。
「ひょうぎちゅうも、だめ」
さらに開いた。
「おわったら、のんで、いい」
「殿下!」
喜ぶな。続きがある。
「でも、つぎのひ、しごとができなかったら、さけを、へらす」
正則は、しばらく考えた。
「仕事ができれば、飲んでもよいのでござるな」
そう来たか。
「できまする!」
自信だけはある。三成が、紙をめくった。
「正則殿は先月、酒宴の翌日の評議に三度遅参。決裁の文書を二度紛失。一度、清正殿の文書に御自分の花押を押しておられます」
清正が横を向いた。肩が震えている。
「なぜ黙っておった!」
「面白かったゆえ」
「清正!」
「事実にございます」
三成が燃料を注ぐ。俺は、規則をもう一つ足した。
「こわしたものは、こわしたひとが、はらう」
正則の拳が、空中で止まった。机を見た。俺を見た。拳を膝に戻した。
制度は人の性分を変えない。だが、行いの値段は変えられる。
「……最後の一つは、酒と関係がないのでは」
「おおあり」
清正が噴き出した。三成の口元も、ほんの少し動いた。
その日の評議は、酒なしで始まった。
正則は、最初の半刻、一言も話さなかった。
代わりに、懐から盃を取り出した。朱塗りの、よく使い込まれた盃だった。正則はそれに白湯を注がせ、両手で包んで、ちびりと口をつけた。
「まさのり。それ、なに」
「白湯でござる」
「さかずき」
「器は、酒ではござらぬ」
形だけでも、ということらしい。三成が、何か言いたそうに正則の盃を見た。規則には「酒を飲むな」とは書いてあるが、「盃を持つな」とは書いていない。三成の顔に、規則の穴を見つけた者特有の苦悶が浮かんでいた。
「……規則に、器の定めを加えるべきでは」
「いらない」
俺は先に止めた。白湯を盃で飲む大名を取り締まる国は、たぶん長続きしない。
正則は白湯を三杯おかわりした。そして、しきりに厠へ立った。
「まさのり。いけん」
「ございませぬ」
ある顔をしている。三成が「では次へ」と言いかけたのを、俺は止めた。
酒がないと言葉が出ないのではない。酒がなければ、本音を言った責任を自分で引き受けなければならない。酔っていた。覚えていない。腹が立っていた。その逃げ道が、今日はないのだ。
「まさのり。きのう、なにが、いやだった」
正則の手が、膝の上で動いた。やがて、小さな声が出た。
「……三成が、足りぬ、と申したのが」
「足りぬ?」
「米が足りぬ、船が足りぬ、と。……わしには、死んだ者に、足りぬと申されておるように聞こえた。おまえたちの命は、勘定に足りぬと」
部屋が静かになった。酒もない。怒鳴り声もない。逃げ道もない。だから、言葉がそのまま残った。
三成は、すぐには反論しなかった。長い間があった。
「……そのようなつもりは、ございませなんだ」
「分かっておる」
「されど、そう聞こえたのなら、拙者の言葉が足りなかった」
正則が、顔を上げた。三成は、紙を見たまま続けた。
「足りぬのは米と船であって、死んだ者ではございませぬ。次からは、そう申しまする」
和解ではない。だが昨日まで、正則の怒りは酒と拳の中にあった。今日、初めてそれが一文になった。
評議が終わると、正則が立ち上がった。
「殿下。今宵は、飲んでもよろしいので」
「いい」
正則の顔が明るくなった。
「明日の評議は、卯の刻にございます」
三成が言った。正則の顔が暗くなった。清正が笑った。俺も笑った。
夕方、正則が俺の部屋に来た。今度は、酒の匂いがしなかった。懐から、折りたたんだ紙を出す。
「拾様。……権兵衛の母から、返事が参りました」
数日前、俺が祐筆に手を添えてもらって書いた、あの手紙の返事だった。父の代わりに、ありがとう、と書いた手紙だ。
正則は、紙を開いて読み上げようとした。二行目で、声が詰まった。代わりに、俺に紙を渡した。
字は、たどたどしかった。村の寺の僧に書いてもらったのだろう。
――倅が、福島様のお役に立ちましたこと、太閤様の若様から直々にお言葉を賜りましたこと、この上なき誉れにございます。倅の墓に、若様のお手紙を供えました。今年の麦は、よう実っております。
最後の一行だけ、墨の色が違った。母親が、自分で書き足したのだと分かった。
――ごんべえ よかったな
正則は、俺の前で胡座をかいたまま、天井を見上げていた。泣いてはいなかった。泣かないように、天井を見ていた。
「……酒が、欲しゅうござるな」
「いまは、だめ」
「分かっており申す」
正則は、紙を丁寧にたたんで、懐の一番奥にしまった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.1% → 94.8%
酒を止めたら、会話が始まった。だが、止めた酒の代わりに話せる場所を作らなければ、人はどこか別のところで壊れる。
その夜、三成の部屋の灯は、子の刻を過ぎても消えなかった。
覗いてみると、三成は、正則が紛失した二通の決裁文書を、控えから書き直していた。その横には、酒蔵の払い出しの新しい帳面。さらにその横に、評議の手順書。帰還兵の名簿。確かめ役の割り振り。
全部、俺が頼んだ仕事だった。
「みつなり。ねて」
「これが済みましたら」
「どれが」
三成は、積み上がった紙を見回した。答えなかった。
【人物評価・補足:石田三成】
疲労 74 → 81
俺は、自分がこの男に何を積み上げてきたのか、その数字で初めて見た気がした。この男がいれば、実務は回る。そう喜んだのは、つい数日前のことだった。




