第19話 石田三成という男
【豊臣家滅亡まで 残り5,948日】
廊下で始めた話し合いは、夜半を過ぎても終わらなかった。
利家は眠っていた。三成は話し、清正は反論し、正則は三度立ち上がって、二度は清正に座らされた。残りの一度は、俺が正則の袴の裾にしがみついた。
五歳児の身体は、大人の喧嘩を止める道具としては、かなり弱い。だが、踏み越えれば豊臣秀頼を蹴ることになる。政治的には、とても強い障害物だった。
「拾様を盾にするな!」
清正が正則を叱った。
「わしが置いたのではない!」
「では、なぜ殿下の前で立つ!」
「腹が立ったからじゃ!」
正直である。
一方の三成は、最初から最後まで、背筋を伸ばして座っていた。紙を膝に置き、二人が怒鳴るたびに、黙って次の論点を待っていた。怒っていないように見える。傷ついていないようにも見える。相手を見下しているようにさえ見える。
俺には、表示が見えた。
【人物評価・補足:石田三成】
傾聴 四十二
雑談 三
非公式調整 十八
謝罪経験 零
疲労 七十四
雑談、三。謝罪経験、零。
人間にずば抜けた数字がある場合、だいたい別のどこかが壊れている。劉禅のころにも、そういう人間を何人も見た。三成の場合、壊れている場所が、よりによって人と人の間だった。
そして、疲労が七十四あった。この男は、秀吉が倒れてから、まともに眠っていないのだ。
「では、本日の論点を三つにまとめます」
まとめる力は高い。
「第一に、内府殿の縁組への対処。第二に、利家様御不在の折の評議の手順。第三に、朝鮮からの帰国兵への兵粮。……ただし、清正殿と正則殿の御主張には、根拠となる書付がございませぬ」
終わった。また始まる。
正則が立つ前に、俺は袴の裾をつかんだ。
「すわる」
「しかし!」
「すわる」
正則は座った。清正が、三成を睨んだ。
「書付がないのは、戦場から戻ったばかりだからだ」
「御帰国から、既にひと月が経っております」
「兵を国へ帰し、傷を負うた者を見舞い、死んだ者の家を回っておった」
「それを記していただきたいと申しております」
「死人の家で、帳面を開けと申すか!」
「開かねば」
三成の声は、少しも変わらなかった。
「次の兵粮も、次の恩賞も、同じ誤りを繰り返しまする」
清正が黙った。
三成は正しい。清正も正しい。死者の家で、泣く遺族の前で、数を聞く者は必要だ。そして、それをする人間は、必ず嫌われる。
三成は、豊臣政権が見たくないものを、見て、書いて、集める役だった。税の不足。兵粮の遅れ。手柄の水増し。戦死者。逃亡者。借金。嘘。それらを、正しい言葉で報告する。正しい言葉は人を救うこともある。同じくらい、人を傷つける。
あの帳面を、俺は思い出した。びっしりと並んだ名前。三成は、死者を忘れているのではない。忘れないように、一人で書き続けている。だが、その姿は、誰にも見えていない。
「みつなり。きよまさの、はなし」
「記録いたします」
「ちがう。まず、きく」
「聞いております」
「さいごまで」
「最後まで、聞きました」
「とちゅうで、ただしく、するな」
正則が、吹き出した。
「それじゃ!」
清正の口元も、わずかに動いた。三成だけが、笑わなかった。
「誤りを、そのままにせよと」
「あとで、なおす。いまは、きく」
三成は、目を閉じた。一度だけ。
「……承知いたしました」
「清正。朝鮮の兵粮のこと、初めから話して」
清正は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと話し始めた。
海を渡った兵のこと。雨と泥。濡れて腐った米。届かない荷駄。命令では前進、現場では一歩も動けない日々。
そして、蔚山の城のこと。
冬だった。普請の途中の城に、明と朝鮮の大軍が押し寄せた。城には、ほとんど米がなかった。水もなかった。
「紙を煮て、食わせた。壁の土を、しゃぶらせた。……夜になると、城の外へ水を汲みに出た者が、凍って戻ってこぬ」
清正の声は、淡々としていた。淡々としているほど、聞いている方の喉が締まった。
「馬を潰した。その血を、皆で分けた。わしの小姓が、最後に、腹が減ったと言うて死んだ。十五だった」
誰も口を開かなかった。正則が、膝の上で拳を握りしめていた。
「援軍が来たとき、城にいた者の半分は、立てなんだ。……その間、わしのところに届いた書付には、兵粮は『所定の通り送付済み』とあった」
三成の筆が、止まった。
三成は、何度も口を開きかけた。そのたびに閉じた。代わりに、紙に何かを書きつけていた。正則が横から覗き込む。
「何を書いておる」
「反論にございます」
「書くな!」
「申してはおりませぬ」
「後で言う気じゃろう!」
「必要とあらば」
また揉めた。だが、清正は話を続けた。すべてを話し終えたとき、障子の外が白み始めていた。
三成が、紙を閉じた。
「清正殿。一つだけ、お尋ねしたい」
「一つだけだぞ」
「釜山から西へ、兵粮を運んだ道筋について」
始まった、と俺は身構えた。だが、それは反論ではなかった。質問だった。
清正は少し驚いた顔をして、それから廊下の板に、指で線を引いた。
「ここだ。ここで、荷駄が止まる。川が溢れる」
三成が身を乗り出した。二人は、同じ線を見た。
仲良くなったわけではない。許したわけでもない。ただ、同じ問題を見た。今夜は、それで十分だった。
「拾様」
三成が顔を上げた。
「一つ、申し上げても」
「うん」
「最後まで聞けば、相手の誤りが増えまする」
俺は額を押さえた。
「でも、わかることも、ふえる」
三成は、真剣に考え込んだ。
「差し引きは」
「するな。ひとの、こころに、そろばん、つかうな」
正則が大笑いした。清正も、声を出して笑った。三成だけが、真顔で頷いた。
「承知いたしました」
本当に分かったのだろうか。
【人物評価・補足:石田三成】
傾聴 四十二 → 四十三
一つだけ、上がった。
その時、利家の部屋から咳が聞こえた。
三人が、同時に立ち上がった。三成が先に襖を開け、清正が湯を取りに走り、正則が廊下の者たちをどかした。誰も、役目を決めていなかった。
それでも、三人は同じ方向へ動いた。利家がいるからだ。まだ、今は。
利家の咳が収まり、玄朔が「眠られました」と告げると、三人は廊下へ戻った。朝の光が、板の上に斜めに差し込んでいた。
気がつくと、三成が壁にもたれて、目を閉じていた。膝の上には、反論を書き連ねた紙が載ったままだった。筆を握った指が、ゆるんでいた。
眠っていた。秀吉が倒れてから、この男が人前で眠るのを、俺は初めて見た。
正則が、何か言おうとして口を開いた。清正が、手でそれを制した。
清正は、黙って自分の羽織を脱ぎ、三成の肩に掛けた。三成は目を覚まさなかった。
「……起こすな」
清正は、それだけ言った。
「おぬし、あやつを嫌うておるのではなかったのか」
正則が、小声で言った。
「嫌うておる」
清正は、三成の寝顔から目をそらした。
「長浜の台所で、こやつはいつも最後に飯を食うて、最後に寝ておった。皆の椀を数え終わるまで、寝なんだ。……あのころから、少しも変わっておらぬ」
正則は、しばらく黙っていた。それから、自分の羽織も脱いで、三成の膝の上に放り投げた。
「風邪でも引かれて、書付が遅れては困るでな」
二枚の羽織に埋もれて、政務の男は、昼近くまで眠り続けた。
目を覚ました三成は、肩と膝の羽織を見て、しばらく固まっていた。それから、二枚を丁寧に畳み、誰のものかを小姓に尋ねた。答えを聞いて、また固まった。
礼を言いに行ったのかどうかは、知らない。ただ、その日の三成の書状は、いつもより一刻遅れて出た。
いつか、利家がいなくても、この三人が同じ方向へ動けるようにする。そして、そのために最初に直さなければならないのは、豊臣家の制度ではなかった。雑談三の、あの男だった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.7% → 97.2%
傾聴が一つ上がって、滅亡確率が〇・五下がった。費用対効果だけ見れば、この国で一番割のいい投資だった。




