第18話 死亡フラグは消えない
【豊臣家滅亡まで 残り5,949日】
翌朝、利家は食事を取らなかった。
粥を一口。湯を二口。それだけで、顔を背けた。
「むかむか、する?」
「少々」
「おなか?」
「張っております」
「いたい?」
「痛いというほどでは」
玄朔が、腹のどこかと尋ねた。利家が手を置く場所は一定しない。押すと嫌がるところがある。熱は高くない。脈は弱い。足の腫れが、昨日より増えていた。
昨日は評議に出していない。酒も少ない。薬も整理した。眠る時間も作った。それでも、悪くなる。
俺は病状簿をめくった。何か見落とした。何かできるはずだ。食事を変える。薬を変える。腹を温める。鍼を試す。医師を増やす。
「ぜんいん、よぶ」
「呼びませぬ」
玄朔が静かに首を振った。
「よぶ!」
「昨夜、御薬を足さぬと決めました」
「でも、わるい!」
「悪い時ほど、皆が何かをしたくなりまする」
玄朔は、俺の目の高さまで身をかがめた。
「それが、御身体をさらに悪うすることがございます。何もせぬのではございませぬ。昨夜と比べる。苦しさを減らす。水を少しずつ差し上げる。急な熱や、強い痛みや、お言葉の乱れを見逃さぬ。そして、今要らぬ薬を足さぬ。すべきことをするために、したいことを、我慢いたしまする」
目を閉じたまま、利家が言った。
「玄朔殿。拾様を、よう止めてくだされ」
「としいえ!」
「わしを長う生かすより、拾様を太閤殿下のようにせぬ方が、難しゅうございますでな」
病人にまで、心配されている。
「ちちうえと、ちがう」
「存じております」
利家は目を開けた。
「されど、人を救いたいと思う者ほど、人の言葉を聞かなくなることがございます」
俺は、黙った。今まさに、玄朔の言葉を聞かずに医師を全員呼ぼうとした。救いたいから、自分だけが正しいと思いかけていた。
「……どうする?」
俺は玄朔に聞いた。玄朔は利家に向き直った。
「まず、何が最も苦しいかを伺いまする。御痛みでございますか」
「いや」
「吐き気は」
「少し」
「息苦しさは」
「横になっておれば、さほど」
「御不安は」
利家が、笑った。
「それを医師へ申して、治りまするか」
「治らずとも」
玄朔は答えた。
「お一人で持たずに、済みまする」
利家は、少し驚いた顔をした。長い沈黙があった。
「……不安に、ございます」
初めて、そう言った。
部屋の隅に控えていたまつが、音もなく利家の傍らへ寄った。そして、布団の上に出ていた夫の手を、両手で包んだ。
「……四十年、初めて聞きました」
まつの声は、少し笑っていた。
「戦に出る朝も、お城を追われた日も、殿は一度も、不安などとは申されませなんだ」
「言えば、おまえが困ると思うた」
「困りませぬ。一緒に困るだけにございます」
利家は、何も言わなかった。ただ、まつに包まれた手を、振りほどかなかった。
槍の又左。秀吉の友。五大老。家中の誰もが、この人の顔を見て安心する。その人が、不安だと言った。
俺は利家の手を握った。
「いる」
「何がでございます」
「ぼく、いる」
利家の指が、少しだけ握り返してきた。
「……それは、心強うございます」
昼までに、吐き気は少し治まった。湯が飲めた。粥も二口食べた。玄朔は、処方を大きくは変えなかった。俺は何度も口を出しかけ、そのたびに病状簿を見た。確かめたことと、考えたこと。
俺が今考えていること。このまま死ぬ。俺のせいで死ぬ。もっと何かすれば助かる。どれも、確かめたことではない。怖いだけだ。
午後、視界に表示が出た。
【前田利家 残存寿命予測】
前回 四百十七日
現在 約一年
延命効果 不確実
戻った。伸びた日数が、消えた。
「なんで」
声が出た。誰も答えない。表示にも、説明の欄はない。
食事を変えた。薬を整理した。休ませた。記録した。手を洗わせた。評議を減らした。何が足りない。何を間違えた。
医療は、経営計画ではない。施策を実行すれば数字が必ず良くなるわけではない。人の身体は報告書を読まないし、目標値に従わないし、未来を知る俺の都合にも従わない。
分かっている。分かっていても、止まらなかった。
「もどせ」
何も起きない。
「よんひゃく、じゅうなな。もどせ!」
利家が、目を開けた。
「拾様。何を、戻すのでございます」
答えられなかった。喉が詰まった。
「……ぼく、しっぱい、した」
利家は、しばらく黙っていた。
「わしは、昨日より悪うございますか」
「うん」
「今朝よりは、少し落ち着いておられます」
玄朔が言った。
「ならば」
利家は、俺を見た。
「今日のところは、半分は成功でございましょう。明日の命まで約束しようとなさるから、今日の成功が、小さく見えるのでございます」
言葉を、一つ一つ選ぶように話していた。
「拾様。わしを救えなんだとしても、この幾日かで作ったものまで、失敗にしてはなりませぬ」
薬の記録。清潔の手順。熱を申し出る道。病人を責めない決まり。利家の仕事を分ける試み。どれも、利家の死の予定を消してはいない。だが、他の誰かを救うかもしれない。
「としいえも、すくう」
「はい」
利家は、否定しなかった。
「されど、わしだけを救う国にしては、なりませぬ」
夕方、利家が眠ると、隣の部屋で三成が待っていた。
「本日の評議は、しない」
「御容体は承知しております。されど、内府殿のもとへ相談に向かう大名が増えております。待てませぬ」
病も、政も、こちらの支度を待ってくれない。
「きよまさと、まさのりも、廊下に。……別々に、お待ちでございます」
部屋を出ると、右に三成がいた。左に清正と正則がいた。三成は書状を、清正は薬包を、正則は酒を持っていた。全員、利家の見舞いに来たのだ。
「酒は、御身体に障ると」
三成が言った。
「見舞いの品に口を出すな!」
「見舞いで悪うしては、本末転倒にございます」
「おぬしは、利家殿の友か!」
「友でなければ、害を止めてはならぬのですか」
俺は、二人の間に立った。小さい。壁としてはほとんど役に立たない。
「しずか」
三人が黙った。襖の向こうで、利家が眠っている。この人がいなければ、この三人は話せない。この人がいなくなったら、どうなる。
「みんな、すわる。ここで」
「廊下で、でございますか」
「ここ」
「何を話すのです」
「としいえが、いないとき。だれが、きく。だれが、かく。だれが、きめる。だれが、はんたい、する」
正則の顔が真っ赤になった。
「縁起でもござらぬ!」
「しなない!」
俺は叫んだ。声が震えた。
「でも、いないときは、ある」
病で休むとき。加賀へ帰るとき。眠るとき。そして、いつか。人には、必ずいないときがある。
最初に座ったのは、三成だった。廊下の板の上に、正座した。清正が、その向かいに座った。正則は長く立ったままでいたが、やがて大きな音を立てて座り、酒の包みを横へ置いた。
「れんしゅう。としいえが、やすむ、れんしゅう。まず、やくを、きめる」
「役、でございますか」
「きく、ひと」
誰も手を挙げなかった。しばらくして、清正が低く言った。
「……わしが聞く。戦場では、物見の報せを聞くのが、わしの役目だった」
「かく、ひと」
三成が、黙って紙を膝に広げた。誰も異を唱えなかった。この役だけは、最初から決まっていた。
「はんたい、する、ひと」
「わしじゃ」
正則が即座に言った。
「どうせ反対するなら、役目として反対した方が、気が楽じゃ」
意外にも、筋が通っていた。
「きめる、ひと」
三人が、顔を見合わせた。誰も名乗らなかった。当然だ。それが一番難しい。
「きょうは、ぼく。れんしゅうだから」
話は、すぐに揉めた。清正が聞き終わる前に正則が反対し、三成が書く手を止めて反論しかけ、俺が止める。そのたびに、役目を思い出させる。だが、三人とも立ち去らなかった。
襖の向こうで、利家が目を開けた気配がした。声はかけなかった。今夜だけは、眠ったままでいい。
この国を、利家一人の腕から、畳一枚ぶんだけ下ろすことができた。死亡予定は、まだ消えていない。だが、期限が来ていないだけだと、俺は考えることにした。
【本日の豊臣家滅亡確率】
98.4% → 97.7%
利家の身体は、何もよくなっていない。下がったのは、廊下の板に座った三人の分だった。
話し合いは、夜明けまで続いた。そしてその夜明けに、俺は、石田三成という男の、一番人に見せたくない数字を見ることになる。




