第17話 崩れ始めた絆
【豊臣家滅亡まで 残り5,950日】
清正が朝鮮から戻ったのは、年の暮れだった。
秀吉の死は、帰国する船の上で知らされたという。伏見の城へ上がった清正は、俺の前で平伏したまま、しばらく顔を上げなかった。
「殿下の……お顔を……」
大きな背中が、震えていた。
「もう一度だけ、拝みとうございました」
十歳にもならぬころから秀吉と北政所に育てられ、虎之助と呼ばれて、長浜の台所で飯をかき込んでいた男である。海の向こうで飢えと寒さに耐えている間に、育ての親は死に、その死は隠されていた。
泣き声は、廊下の端まで響いた。誰も止めなかった。
俺は、清正の頭に手を置いた。震えが、掌に伝わってきた。
「ちちうえは、きよまさを、まっていました」
本当かどうかは分からない。だが、あの夜、返す返すと書いた人が、この男の名を思わなかったはずはない。
清正は、額を畳にこすりつけたまま、やがて声を殺して、長いあいだ泣き続けた。
その清正が、今、三成と正則と一緒に、俺の部屋の襖を開けた。
先頭は福島正則だった。顔が赤い。酒ではない。たぶん、怒りである。その後ろに石田三成。顔色は少しも変わっていない。変わらないから、余計に腹が立つのだろう。さらにその後ろに、加藤清正。日に焼けた顔に、額の傷。腕を組んだまま、一言も発しない。何も言わない者が、一番怒っている。
五歳児の身体が、正しく危険を判断して、一歩下がった。
「拾様の御前である。声を慎まれよ」
三成が言った。
「おぬしに言われる筋ではない!」
正則の声が大きくなった。
「なに?」
俺が尋ねると、正則は膝をついた。怒っていても、俺には礼を取る。豊臣家への忠義は本物なのだ。それが、話をいっそう難しくする。
「内府殿が、伊達殿らとの縁組を進めておられる。それを、この男が罪人のように申すのでござる!」
「掟に反する恐れがあると申し上げたまで」
「恐れとは何だ!」
「まだ正式な裁きをしておらぬ、という意味にございます」
「ならば、罪人ではないと申せ!」
「疑いのある方を、疑いがないとは申せませぬ」
正しい。そして、腹が立つ。
しかも、その縁組の中には、正則自身の家も入っている。正則の養子に、家康の養女が嫁ぐ話が進んでいるのだ。三成の言う「罪人の列」に、正則の名が並んでいる。怒るのは当然だった。
「きよまさ?」
「……掟を守るべきことは、分かっております」
清正は、三成を見ずに言った。
「されど、太閤殿下がお隠れになった途端、内府殿を縛るためだけに掟を持ち出したように見える」
「掟は、誰を縛るためのものでもございませぬ」
「ならば」
清正の声が、低くなった。
「朝鮮で、我らが求めた兵粮の決まりも、同じように守っていただきたかった」
部屋の空気が変わった。
婚姻の話ではなかった。海の向こうの補給。功績の数え方。届かなかった米。死んだ兵。処理されずに積み残された感情が、新しい議題を借りて、一度に噴き出してきた。組織の対立は、今の議題だけでは起きない。
「その件は、既に記録を出しております」
「記録!」
正則が畳を叩いた。
「死んだ者は、紙の中におらぬ!」
三成の顔が、固まった。
「……死者の名も、記しております」
「そういうことではない!」
正則が立ち上がった。清正がその腕をつかむ。
「座れ。拾様の御前だ」
「この男が!」
「分かっておる。分かっておるから、座れ」
正則は、清正の手を振り払わなかった。仲間の言葉なら聞く。三成の言葉は聞かない。中身ではなく、誰が言うかで決まる。
同じ言葉を、聞ける相手の口から言い直させる。それも、利家が担っていた仕事だった。
俺は、その場で小さな評議を開くことにした。廊下で喧嘩を続けさせるよりは、ましだ。
利家は呼ばなかった。家康も呼ばなかった。家康のことを家康抜きで話すのは公平ではない。だが呼べば、利家のいない席で家康が中心になる。どちらも危ない。
結果は、予想通りだった。
浅野長政は事実を確かめるべきだと言い、増田長盛は大老の間で先に調整すべきだと言い、長束正家は例外を許せば誰も掟を守らなくなると言った。全員が正しく、だから結論が出なかった。
「だれが、きめる?」
沈黙。大老の案件である。だが家康本人が大老で、利家は病床で、毛利も上杉も宇喜多も遠い。決める仕組みがない。
「利家殿に、お出まし願えばよろしい」
正則が言った。全員が、同じ方を向いた。病人を休ませるための話し合いが、病人を呼ぶという結論に向かう。
「だめ」
「では、決まりませぬ」
「きょうは、きめない。いえやすに、じじつを、きく」
「返答の期限は」
「みっか」
「長うございます」
「短うございます」
三成と清正が同時に言った。一瞬だけ、息が合った。
「ふつか」
根拠はない。二人の間を取っただけだ。利家なら、同じ結論でも、皆が納得できる言葉を選ぶだろう。俺には、それができなかった。
退出するとき、正則が三成の横で小さく言った。
「おぬしは、内府殿を敵にしたいのだ」
「福島殿は、敵でなければ何をしてもよいとお考えのようで」
清正が、二人の間に入った。評議は終わった。対立は、始まった。
家康の返事は、その日の夕方に届いた。二日の期限に、半日で答えてきた。
《太閤殿下の御遺命を軽んずる心はない。天下安寧のため、諸家の縁を固める相談を受けたまで。正式な取り決めは、拾様および大老の御意向に従う》
完璧だった。何も認めていない。何も拒んでいない。しかも、秀頼の権威を立てている。三成が反論すれば、秀頼の権威を疑う者に見える。
「正式の縁組は、大老の合意まで保留。……内府殿へ、御礼も添えねばなりませぬ」
三成が、不満そうに筆を走らせた。負けた気がした。だが礼を言わなければ、家康が「従う」と言ったことを否定することになる。
【豊臣政権 組織診断】
大老合議機能 四十一 → 二十八
石田三成・武断派 相互信頼 十九 → 十二
前田利家への調停依存度 八十六 → 九十一
利家を評議に出さなかった。身体は守った。その代わり、利家がいないと何も決められないことを、全員に見せてしまった。休ませるほど、必要とされる。
その夜、自分の部屋を出ると、廊下の先の奉行衆の詰所に、まだ灯がついていた。
三成が一人で、分厚い帳面をめくっていた。俺に気づくと、慌てて居住まいを正そうとする。
「それ、なに」
三成は、少しためらってから、帳面をこちらへ向けた。
名前だった。びっしりと、名前が並んでいた。隊の名。国。死んだ日。死んだ場所。残された者の名。
「朝鮮で死んだ者の、名にございます。分かった限り、でございますが」
「ぜんぶ?」
「分からぬ者の方が、多うございます」
三成は、帳面の端を指でなぞった。
「福島殿は、死んだ者は紙の中におらぬと申されました。……その通りにございます。紙の中にしか、おらぬようにしてはならぬと、拙者も思うております」
三成の声は、いつもと同じように平らだった。だが、帳面を閉じる手つきだけが、ひどく丁寧だった。
「まさのりに、いえば」
「言うて、どうなりまする。拙者が言えば、言い訳にしか聞こえますまい」
三成は、それ以上何も言わなかった。
正しいことを言う男は、苦しいことだけは言わない。誰にも見せずに、帳面の中にしまい込んでいる。
それから利家の部屋へ行くと、利家は眠っていた。呼吸が浅い。足の腫れは、朝より少し強い。
枕元に、見舞いの品が置かれていた。薬種。干した果実。温かな布。添え状には、一行だけ。
《御無理なきよう》
家康からだった。利家を休ませたいのか。休ませることで、自分の出番を増やしたいのか。たぶん、どちらもだ。人は、一つの理由だけでは動かない。
俺は利家の手を握った。熱はなかった。だが、冷たかった。
部屋を出ると、廊下の先で、詰所から出てきた三成と、見舞いに来たらしい清正がすれ違うところだった。二人は目も合わせず、反対の方向へ歩いていった。
同じ城にいる。同じ秀頼を守ろうとしている。同じ秀吉に拾われ、同じ台所で飯を食った。それでも、互いに声をかけない。
絆は、切れるときに音がしない。話さなくなったときから、少しずつ、もう切れ始めている。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.9% → 98.4%
翌朝、利家は粥を一口しか食べなかった。




