第16話 わしより家中を見よ
【豊臣家滅亡まで 残り5,952日】
家康の面談の求めは、断った。正確には、日を延ばした。
使者の前で、五歳児が泣いたのである。
「としいえ、ねる」
それだけ言って、淀殿の袖に顔を埋めた。半分は演技で、半分は本気だった。
【特殊スキル:五歳児特権(号泣)】
使用回数 0 → 1
効果 面談の一日延期
副作用 延期した分の請求が、後で来る
副作用まで書いてあるのは、親切なのか、嫌がらせなのか。
家康からの返事は、その日のうちに届いた。
《何より御養生を第一に》
物分かりがよすぎる。怖い。
家康は、利家が一日休むと誰が困るかを知っている。困った者は、伏見へ行く。家康は何も奪わない。相談を受けるだけだ。だが相談を受ける者のところに話が集まり、話が集まる者が、次に決める者になる。
分かっていた。それでも俺は利家を休ませた。初めて伸びた四百十七日を、失いたくなかった。
翌朝、玄朔の診察の前に、利家が俺を呼んだ。
「おなか?」
「昨日と同じにございます」
「あし?」
「腫れております」
「ごはん?」
「まだ食うておりませぬ」
「ねた?」
「よう眠りました」
一つずつ聞く。一つずつ答える。最後に、利家は大きな息を吐いた。
「拾様。わしは、病人でございますな」
「うん」
「されど、前田利家でもございます」
「しってる」
「御存じないように見えまする」
怒っていた。脈を取らなくても分かった。
「半刻だけ、わしの話を聞いてくだされ。横になって申しますゆえ」
利家は本当に横になり、天井を見たまま話し始めた。
「徳川殿は、伏見で諸大名との縁組を進めておられます。伊達、蜂須賀、福島」
大名同士が勝手に婚姻を結んではならない。秀吉の遺した掟である。命令は残っている。だが、命令した者はもういない。
「治部は、それを止めたい。清正や正則は、治部が徳川殿を罰するために太閤殿下の掟を使っておると思うておる。治部に、そのつもりはない。されど、つもりがないことと、そう見えぬことは、別にございます」
利家は、毛利の様子見、上杉の遠さ、宇喜多家中の揺れを、一つずつ語った。五大老と言っても、五人が同じものを見てはいない。
話を聞きながら、俺の目は利家の足に行っていた。昨日より腫れているか。同じか。
利家が、それに気づいた。
「拾様。わしの足ではなく、天下をご覧くだされ」
「でも、としいえ、しぬ」
口から出た瞬間、利家の顔が止まった。言ってはいけない言葉だった。
「……誰が申しました。玄朔殿か」
「ちがう」
「夢をご覧になったか」
「……うん」
嘘だった。利家は、しばらく俺を見ていた。
「いつでございます」
答えられない。
「わからない」
「ならば」
利家は、穏やかに言った。
「今日、生きておる者を、明日の死人として扱うてはなりませぬ」
胸に刺さった。
俺は利家を救おうとしている。だが死の予定表を見て、今の利家から仕事を取り上げ、役目を取り上げ、自分で選ぶことまで少しずつ取り上げていた。患者を守ることと、患者を支配することは、驚くほど近い。
「……ごめん」
「拾様が謝られると、わしが悪者のようですな」
利家は手を伸ばして、俺を褥の横に座らせた。
「わしは、死ぬのでございましょう」
「しなない」
「皆、死にまする」
「いま、しなない」
「それでよろしい」
利家は、目を閉じた。
「今日、死なぬよう養生いたします。今日、国が壊れぬよう話もいたします。どちらも、いたしましょう。ただし、わしの手は二本しかない。拾様が、手伝うてくだされ」
「なに、する?」
「わしの代わりに、聞くのでございます」
利家は、三つの仕事をくれた。
三成の話を聞く。結論ではなく、何を恐れているかを聞く。清正と正則の話を聞く。不満ではなく、何を失ったかを聞く。家康の話を聞く。何を望むかではなく、何が起きると困るかを聞く。
「なかよく、させる?」
「させてはなりませぬ」
意外だった。
「仲が悪いことは、罪ではございませぬ。話せぬことが、危ういのでございます」
劉禅として、何度も同じことを学んだ。仲良くする必要はない。同じ組織で、互いの仕事を壊さなければいい。
「藤吉郎はな」
利家は、天井を見たまま、少し笑った。
「口ばかり達者な男と言われておりましたが、まことは、聞くのが天下一でございました。敵の言い分も、百姓の愚痴も、わしの酒の上の繰り言も、最後まで聞いた。聞いて、それから、相手の一番欲しいものを、一番安う渡すのでございます」
秀吉の人心掌握は、話す力ではなく、聞く力だった。俺は、あの寝所で見た人物評価を思い出した。交渉外交、九十九。
「されど、天下を取ってからは、聞かぬようになりました。聞かずとも、皆が従うようになりましたゆえ」
利家の声が、少しだけ沈んだ。
「唐入りを止められなんだのは、わしらの咎でもございます」
「それから、誰が決めるかも、決めてくだされ」
利家は、珍しく笑わなかった。
「わしがおる時は、皆、わしの顔を見まする。わしがおらぬ時は、互いの顔色を見て、誰も決めませぬ。わしが決めてしまったから、わしがおらぬ時に、誰も決められぬのです」
自分の成功が、組織の失敗を作る。劉禅の晩年に、俺自身が陥りかけた罠だった。
「わしの代わりを探してはなりませぬ。一人でわしの代わりが務まる者を選べば、その者が次の天下人になりまする」
家康しかいない。
「仕事を、分けるのでございます。聞く者。記す者。決める者。反対する者。決まらぬ時に、日を改めると申す者。一人でしておった仕事を、五人へ分ければよい」
簡単に言う。難しい。だが、正しい。
「いっしょに、つくる」
「急いでくだされ」
「いきる」
「生きておるうちに、という意味にございます」
「ずっと」
利家は、答えなかった。
その夜、俺は乳母が寝たあとで、こっそり灯をつけた。利家の病状簿の写しを、布団の中で読むためだった。
観察。推定。処置。変化。昨日より腫れが増えたのか。食事が減ったのは、面会のせいか、薬のせいか。読んでも読んでも分からない。分からないから、また最初から読む。
襖が開いた。
淀殿が立っていた。寝間着の上に、薄い打掛を羽織っている。
「拾」
叱られると思った。だが淀殿は、黙って俺の手から紙を取り上げると、灯を吹き消し、俺の布団に一緒に入ってきた。
「ははうえ」
「母と、約束しましたね。二人とも、いなくならぬようにいたしましょう、と」
「……はい」
「拾が眠らねば、拾がいなくなります」
暗闇の中で、淀殿の腕が俺を包んだ。
「利家殿のことを案じるのは、よいことです。けれど、拾が倒れたら、利家殿は御自分を責めましょう。父上が亡くなられたあと、あの方がどれほど御自分を責めておられるか、母には分かります」
俺は、何も言い返せなかった。
利家を休ませようとして、俺は自分が休むことを忘れていた。人に言うことは、自分にはなかなかできない。秀吉も、利家も、俺も、同じだった。
「ははうえも、ねますか」
「今宵は、眠ります。拾を見張らねばなりませぬゆえ」
淀殿の胸の音を聞きながら、俺はいつの間にか眠っていた。
その日から、俺は約束を守ろうとした。守ろうとして、守れなかった。
翌朝、利家の食事が減った。俺は三成との話を午後へ延ばした。午後、利家に微熱が出た。清正との話を翌日へ延ばした。翌日、熱は下がったが、腹の張りを訴えた。家康への返書も延ばした。
一日だけ。利家が落ち着いてから。
【豊臣政権 危機指標】
前田利家への調停依存度 八十六
徳川家康への相談集中 上昇
石田三成・武断派 相互不信 上昇
主人公の政治介入 延期中
一日だけ。その言葉は、組織が崩れるときに一番よく使われる。落ち着いてから決める。忙しくなくなってから引き継ぐ。危機が去ってから備える。危機は、備えがないから起きるのに。
俺は病状簿を閉じ、三成を呼ぶよう命じた。
その時、廊下の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「なぜ内府殿には許されて、我らには許されぬ!」
福島正則だった。続いて、三成の冷たい声。
「掟に、福島殿だけ除くとは書かれておりませぬ」
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.8% → 97.9%
一日だけ、を三回重ねた請求書だった。
間に合わなかった。家中を見よと言われて、まだ幾日も経っていない。その家中の方から、俺の部屋まで壊れにやってきた。




