第162話 六割の中身
【豊臣家滅亡まで 残り1,384日】
清正の弔いが終わる前に、「戦の評議」を開いてほしいという願いが出た。
出したのは、城の若い家来たちだった。二十人ほどが大野治長の前に頭を揃え、額を床にこすりつけたという。
治長は、俺が決めた「反対役」だ。評議では必ず一度、わざと反対する。その治長が、困った顔で書院に来た。
「徳川の兵の置き方が変わり申した。西国から名のない書状がまた増えております。浪人も、大坂に集まり始めております。……そして、主計頭様が亡くなられた」
忠義の家来が死ぬと、人は悲しむ。悲しみながら、空いた席を誰が埋めるかを考える。政は、喪に服してくれない。
「開きまするか」
「開いて」
「よろしいので」
「止めたら、廊下で開かれる。廊下の評議は、書き留めが残らない」
治長は、ほっとしたような、がっかりしたような顔をした。反対役の出番が、いきなりなくなったからだ。
【緊急クエスト:戦の評議を、戦にしない】
【期限:明日の評議が終わるまで】
【失敗した場合:城の中の空気が、戦へ傾く】
クエスト、ときた。前の世でやった遊びの画面みたいな顔をしやがって。
評議の前の晩、勘定方の与市を呼んだ。
「浪人長屋の名簿と、城の家来の名簿と、町の火消しと川普請の組の名簿。全部、揃えておいて」
「戦の評議に、火消しの名簿でございまするか」
「戦になったら、誰が、どこからいなくなるのか。それが分からないと、六割も四割も弾けない」
与市は黙って蔵へ向かい、夜明けまでかかって名簿を三つ揃えてきた。合わせて千二百人あまり。
評議の間の隅に、その束を置いた。誰も手に取らなかった。まだ。
評議の間に絵図を広げたのは、後藤又兵衛だった。
黒田家を飛び出した、天下に聞こえた槍の名人。関ヶ原のあと流れ流れて大坂に来て、今は浪人長屋の頭をしている。若い者の喧嘩を拳骨一つで黙らせ、夜回りを組み、稽古を仕切る。城の若い家来たちが一番話を聞きたがる男でもあった。
「仮に、徳川と戦うとしたら」
その一言で、空気が変わった。
止めなかった。戦わないためにも、戦ったらどうなるかは知っておかなきゃいけない。知らない者は、知っていると思い込んでいる者に負ける。
又兵衛の指が、絵図の上を走った。
「大坂から、京へ。京から近江の瀬田の橋を落とし、東海道を止める。その間に、西国の大名が旗を上げる。江戸と京のつなぎを断てば――」
指が、ぴたりと止まった。
「勝ち目は、六割」
若い家来たちの目が、光った。
分かる。戦の図は美しい。線がまっすぐで、敵と味方がはっきりしている。井戸の札や、浪人の帰る先の欄や、紐の帳面より、ずっと分かりやすい。
分かりやすいものは、危ない。
「六割ならば」
身を乗り出したのは、若い家来の一人だった。前に廊下で、浪人の仮の宿の話をしていた若者だ。
「戦う値打ちが、ございまする!」
その顔を見た。戦場を知らない顔だった。
六割というのは、十人のうち六人が生きて帰り、四人が帰らない数だ。たぶん、この若者にはそう聞こえていない。「勝つ方が、ちょっと多い」くらいに聞こえている。
前の世の会社なら、六割で勝てる買収は悪くない話かもしれない。でも、店を一軒失うのと、何万人が死んで町が焼けるのとは、残りの四割の重さが違う。
蜀の皇帝だった頃、国の方針を一行で決めたことがある。《領土を増やさない。ただし、失わない》。悔しかった。今でも少し悔しい。でも、あの一行が蜀を残した。
「又兵衛。六割の、中身を」
又兵衛の眉が、ぴくりと上がった。それから、正直に答えた。
「最初の一撃がうまくいく見込み、七割」
「家康本人を退かせる見込み」
「五割」
「諸大名が、最後までこちらに付いている見込み」
「四割」
「戦のあと、五年、国を静かにしておける見込み」
又兵衛が、黙った。
黙ったまま、絵図を見ていた。浪人長屋で若い者を黙らせてきた男が、自分の出した数に黙らされていた。
「……二割に、届きませぬ」
部屋が、しんとした。
戦に勝つこと。天下を取ること。国を治めること。三つは、同じじゃない。
【徳川と戦った場合】
最初の戦の勝ち目 61%
戦のあと国を治められる見込み 18%
戦を選んだ場合に、豊臣家が二十年残る見込み 24%
画面の数字は、俺にしか見えない。だから俺は、又兵衛の口から出た数を、祐筆にそのまま紙に書かせて、全員に回して読ませた。
紙が手から手へ渡るたびに、顔が一つずつ、静かになっていった。
「六割で、勝てる」
「……はい」
「でも、勝ったあとで、八割しくじる」
誰も、すぐには答えなかった。
評議が終わりかけたところで、弥七が書状を一通持ってきた。九度山からだった。
昌幸が死んで、まだひと月。信繁は喪の中のはずだ。
《大坂にて、戦の数を弾く評議ありと、聞き及び候》
噂、速すぎるだろ。九度山まで、何里あると思ってるんだ。
《一つだけ、申し上げ候》
《勝てると申す数には、兵を帰す道が、入っておらず候》
《帰す道を入れて、弾き直されよ》
《四割に、なり申すべく候》
又兵衛が、書状をひったくるように取って読んだ。長いこと読んでいた。
「……真田め」
低い唸り声だった。
「会うたこともないくせに、わしの算盤の穴を突きおる」
又兵衛は筆を取り、絵図の上に線を一本書き足した。大坂から国々へ、兵が帰っていく道。それから、数を弾き直した。長い間、弾いていた。
「……四割、二分」
真田の言った通りだった。
六割が、四割になった。若い家来たちは顔を見合わせて、誰も口を開かなかった。
「清正は、最後に、兵を帰してくれって言った」
俺は言った。
「だから、兵を出すときは、帰す道を先に決める。それが豊臣家の、一番目の決まり」
又兵衛が、筆を置いた。
「……加藤殿は、わしが黒田を出たとき、一度だけ書状をくれた」
誰に言ったのでもない声だった。
「《槍の腕は、よし。帰る家を、作れ》と。……わしは、読んで、破った」
又兵衛は、絵図をゆっくり畳んだ。
そのとき、隅に置いた名簿の束に、ようやく誰かが手を伸ばした。
四十過ぎの、浪人の頭の一人だった。一枚めくる。二枚めくる。十枚目で、手が止まった。
「……火消しの組の頭の名が、ござる」
「うん」
「この者が戦に出れば、町の火は、誰が消しまするか」
誰も答えなかった。男は名簿を元の場所に戻した。最初に取ったときより、ずっと慎重な手つきだった。
【緊急クエスト:戦の評議を、戦にしない】
【結果:達成(ただし、ぎりぎり)】
ぎりぎり、は余計だ。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.8% → 95.5%
評議のあと、治長がそっと寄ってきた。
「拾様。本日、拙者は反対役として、一度も反対いたしませなんだ」
「うん。気づいてた」
「反対するより先に、又兵衛殿が、ご自分で黙ってしまわれましたゆえ。……反対役の要らぬ評議が、一番よい評議にござる。ただし毎度こうでは、拙者の扶持が心配になりまするが」
廊下の角で、あの若者が待っていた。
「殿。四割二分でも、戦う値打ちがないとは、申せませぬ」
「うん」
「では」
「値打ちがあるかどうかは、四割の中に入る人の名前を、全部書いてから決めて」
若者は何か言いかけて、やめた。頭を下げて去っていく背中が、角を曲がる前に一度だけ止まった。振り返りはしなかった。
いつの間にか、隣に又兵衛が立っていた。
「……あの小僧、槍の筋は悪うない」
「戦に出したい?」
「出したくない。筋の良い者から、先に死ぬ」
又兵衛は、浪人長屋の方へ歩いていった。
その夜、あの若者が長屋で名簿を借りて、朝まで読んでいたと聞いた。
そして同じ夜、城の台所で、誰かがこう言っていたらしい。
――六割で、勝てるそうじゃ。
四割二分の方は、誰も口にしていなかった。




