第163話 一番危うい数字
【豊臣家滅亡まで 残り1,363日】
六割という数が、城の中を走り回っていた。
知らせより速く、命令より速く。台所で、厩で、詰所で、湯殿で。噂というやつは、一番都合のいいところだけを運ぶ。
《徳川に、勝てる》
《六割と、出た》
《西国は、動く》
《大御所は、老いた》
戦のあとに国を治められる見込みが十八しかないこと。又兵衛が自分で四割二分に弾き直したこと。兵を帰す道の線。そっちは誰も口にしない。数にも、好かれる数と嫌われる数があるらしい。
三日後には、尾ひれがもう一枚ついていた。
《真田が、六割と申した》
申してない。むしろ六割を四割に直した張本人だ。なのに噂は、一番響きのいい名前を勝手に借りていく。
案の定、九度山から書状が来た。
《拙者の名にて、六割が、走りおる由》
《拙者、申しておらず候》
一行あけて。
《……されど、名を借りらるるは、拙者の名が、左様に使いやすきゆえにて候》
《申し訳、なく候》
謝らなくていいのに。あの人は、自分の名前が勝手に英雄の話にされていく重さを、もう分かり始めている。
【戦を始めたくなる気持ち 城の中 82】
八十二。熱すぎる。
俺は、月に一度、駿府の家康に送っている「知らせの帳面」に、全部書いた。
又兵衛の六割。真田の直した四割二分。治められる見込みの十八。城の中で噂がどう走っているか。
隠せば、駿府には噂だけが届く。噂は、六割しか運ばない。
二十日後、駿府から返書が来た。どうせいつもの二文字だと思った。家康の返事は、たいてい《読んだ》だけだ。
《読んだ》
ほら。
と思ったら、その下に、もう一行あった。
《四割二分、わしの弾きと、同じ》
背中に、冷たいものが走った。
あの爺さんも、弾いていた。豊臣と戦ったらどうなるか。帰す道まで入れて。そして、まったく同じ答えに辿り着いていた。
六割の噂なんて、最初から信じていなかったのだ。七十近い老人が、駿府の奥の間で、黙って算盤を弾いている姿を思い浮かべて、ぞっとした。
評議で、皆に聞いた。
「六割が、どうして一番危ないのか、分かる人」
誰も答えなかった。
「三割なら、みんな諦める。九割なら、みんな『どこでしくじるか』を探す」
評議の間を見回した。
「六割は、自分が勇気を出せば届く数に見える。反対する者が、臆病者に見える。だから、反対が消える」
若い家来の何人かが、目をそらした。図星だったらしい。
評議のあと、又兵衛が珍しく、しょげた顔で廊下の隅に座っていた。大きな体を丸めて、叱られた犬みたいだった。
「……わしが、六割などと言わねばよかった」
「又兵衛が弾かなかったら、誰かがもっと雑に弾いてたよ」
「雑に弾いても、六割じゃ」
「うん。でも又兵衛は、中身を正直に言った。四割二分まで、自分で弾き直した」
又兵衛は鼻を鳴らした。
「おぬし、駿府に、わしの算盤の穴まで見せたそうじゃな」
「穴を見せたら、穴を塞ぐ手伝いをしてくれるかもしれない」
「大御所が、か」
「たぶん、しない。でも、穴を突いてくるのは、少し遅くなる」
又兵衛は呆れたように笑って、少しだけ背中が伸びた。
その夜、千姫が俺の部屋に来た。
家康の孫で、秀忠の娘。七つで大坂に嫁いできた俺の妻は、十五になっていた。昔は木馬を抱えてきたものだが、今は膝の上で両手を揃えている。
「殿。……祖父上に、勝てるのでございますか」
子供の無邪気な問いじゃなかった。妻として。徳川の孫として。聞いていた。
「戦場では、勝てるかもしれない」
「そのあとは」
「分からない」
「では、勝ったことには、ならないのでは、ございませぬか」
十五の姫が、評議の間の誰よりも正しかった。
千姫は少し黙ってから、もう一つ言った。
「もし殿が祖父上に勝たれたら、わたくしは、どちらの家の者として、喜べばよいのでございますか」
答えられなかった。
千姫は、答えを待たなかった。
「……喜べませぬ。どちらが勝っても」
障子を閉める音が、いつもより静かだった。
どちらが勝っても喜べない人が、この城にいる。たぶん、一人じゃない。徳川から千姫についてきた侍女たち。親戚が江戸にいる家来。関ヶ原で兄弟が敵味方に分かれた家。
勝ち目の数字の中に、その人たちの顔は入っていなかった。
帳面の端に、書き足した。
《どちらが勝っても喜べぬ者の数も、数えること》
数え方は、まだ分からなかった。
次の日、母の部屋に寄った。
母は、六割の噂をもう聞いていた。聞いても、少しも嬉しそうではなかった。
「残りの四割で」
母は庭の方を見たまま、静かに言った。
「あなたが死ぬのであれば。……母には、十分に、大きい数でございます」
天下。名誉。豊臣の正しい血筋。それを誰より強く口にする人が、俺の死だけは、見込みで扱わなかった。
ようやく分かった。母は、戦いたいんじゃない。徳川に頭を下げたあとで殺されることの方を、戦うことより恐れているのだ。父に腹を切らされた、従兄の秀次のように。
評議に戻って、新しい決まりを作った。
《戦の勝ち目だけを、知らせてはならぬ》
《戦のあとの治め方、民の損、家来の離れ、跡継ぎの生き残りを、必ず、並べて書くこと》
《兵を帰す道を、必ず、入れて弾くこと》
若い家来たちは露骨に嫌な顔をした。勝てるかどうかを聞いているのに、勝ったあとの面倒まで答えさせられる。宿題が三倍になった子供の顔だった。
でも、それが治める者の仕事だ。戦場の勝ちだけを見れば、戦はいつだって魅力的に見える。
その晩、寝床に入ってから。
そして、自分の数字が勝手に開いた。
【主人公の、戦を始めたい気持ち 13】
……は?
十三。零じゃなかった。
心当たりは、あった。二条城で、あの老人の目に見据えられたとき。ほんの一瞬だけ、思わなかったか。この人がいなくなれば。この人を退かせられれば。
十三は小さい。でも、数字は放っておくと育つ。
前の世で見た。うまくいっている店の主が、ある日、隣の店も買えると気づく。最初は十三くらいの思いつきだ。それがひと月で三十になり、半年で七十になる。気づいたときには、もう止まらない。
帯の内側には、母に書かされた懐紙が入っている。
《天下を取りたくなりしときは、まず母に申すこと》
十三のうちに言いに行こう。百になってからじゃ遅い。
夜更けに、淀殿の部屋を訪ねた。母は灯りの前で、清正の弔いのための経を写していた。
「母上。約束の、ことです」
筆が止まった。
「……少しだけ。天下を、取りたくなりました。十三くらい」
「十三」
「百のうちの、十三です」
母は長いこと、俺を見ていた。怒るか、泣くか。どっちかだと思った。
母はどちらもしなかった。筆を置いて、俺の手を取った。少し冷たい手だった。
「……よう、申しました」
「怒らないんですか」
「殿下は、一度も申されませなんだ。十三のうちに。……百になってから、決めてから、申されました」
母は、父のことを言っていた。朝鮮に兵を出すと決めた日のことかもしれない。
「十三のうちに申せる者は、百には、なりませぬ」
視界の端で、封印スキルの空欄が、一度だけ瞬いた。
【主人公の、戦を始めたい気持ち 13 → 9】
四つ、下がった。言っただけで。
「……母上。明日も、言いに来ていいですか。数が、上がったら」
「下がっても、いらっしゃい」
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.5% → 95.3%
部屋を出るとき、振り返った。母は帯の中から自分の写しの懐紙を出して、灯りにかざしていた。それから端に小さく、書き足した。
《十三 申しに来たり》
母はまた筆を取り、経の続きを写し始めた。
廊下に出ると、遠くの詰所から、若い家来たちの笑い声が聞こえた。夜更けに笑う理由なんて、そう多くない。
翌朝、治長が青い顔で書院に飛び込んできた。
「拾様。城の中に、名簿が出回っておりまする。……戦を望む者たちの、名簿にござる」




