第160話 勝った者が三人
【豊臣家滅亡まで 残り1,484日】
二条城から戻った次の朝、大坂城に、三通の知らせが届いた。
一通目。
《秀頼公、天下人の威風を、示されし由》
二通目。
《内府様、豊臣家の恭順を、確かめられし由》
三通目。
《会見、終始、穏やかにて候》
同じ場所。同じ話。同じ膳。それなのに、勝った者が、三人いた。
「会見とは、便利な戦でございますな」
且元が、三通を並べて、溜め息をついた。
「血が流れず、皆が、勝ったと申せまする」
「困るのは」
言った。
「皆が、本当に、勝ったと思い始めること」
城下では、秀頼が家康を圧した、ということになっていた。京では、家康が秀頼を従わせた、ということになっていた。江戸では、豊臣家は当分、安泰だ、という触れが回っていた。
そして、大坂城の中では、若い家来たちが、前より大きな声で、話し始めていた。
「秀頼公ならば、徳川に、頭を下げる要は、ない」
「大御所の方が、先に、座ったそうじゃ」
「天下は、まだ、豊臣のもの」
頭を、抱えた。
会見の目当ては、戦を遠ざけることだった。それなのに、味方の戦う気が、上がっていた。前の世で言えば、銀を借りる話し合いがうまくいったら、家中の者が、勝手に相手の家を乗っ取る相談を始めたようなものだった。
淀殿は、三通の知らせを、全部読んだ。そして、一通も、信じなかった。
「勝ち負けを申す者は、会見を、見ておりませぬ」
「母上は、どう、見ました」
「内府は、あなたを、見定めました」
「秀頼は」
「内府を、見定めました」
「じゃあ、どっちが、勝ったの」
淀殿は、少しだけ、笑った。
「まだ、どちらも、死んでおりませぬ」
戦国の物差しは、重かった。
評議の間では、治長と且元が、三通の知らせを挟んで、珍しく、言い合っていた。
「三通とも、写しを取って、城じゅうに回すべきにござる。どれも、半分しか、本当ではないと、皆に見せれば」
治長が言うと、且元が、首を振った。
「回せば、皆、自分の好きな一通だけを、覚えまする。……天下人の威風の一通だけが、残りましょう」
「では、回さぬと」
「回さねば、噂だけが、残りまする」
二人とも、正しかった。
「……回して。三通、全部、一枚の紙に、並べて」
言った。
「一枚に並べたら、どれか一つだけを覚えるのは、難しくなる。三人が三人とも勝ったって、並べてみたら、おかしいって、分かるでしょう」
且元と治長は、顔を見合わせた。それから、同時に、小さく、頷いた。
【二条城の会見の評価 まだ定まらず】
【徳川の警戒 86 → 88】
【豊臣の家来の期待 71 → 83】
期待。ふつうなら、上がって喜ぶ数字だった。
だが、期待は、叶わなければ、不満になる。期待は、使いたい者が現れれば、旗になる。
知らせの写しの一番下に、一行、書き足した。
《会見の目当ては、豊臣の天下を取り戻すことに、あらず》
《両家の間の、話の道を、保つことなり》
且元が、慎重に、聞いた。
「……皆に、伝わりましょうか」
「伝わらない」
即答した。
「だから、何度でも、言う」
勝った話は、一日で広がる。戦わない話は、何度も言わなければ、残らない。
昼前、廊下で、若い家来たちに、囲まれた。
「殿! 大御所が、先に座ったとか」
「うん。秀頼が、譲ったから」
「譲られたので」
若い家来たちの顔が、少し、曇った。
「天下人は、先に、座らない。先に、譲る」
言った。
「先に座った方が、あとで、座らせてもらったと、書かれる。……先に譲った方は、譲ったと、書かれる。どっちが、強いと思う」
若い家来たちは、顔を見合わせた。
一人が、首をかしげた。
「……それは、勝ったので、ございまするか」
「分からない。でも、負けてはいない」
それで、納得したのかどうかは、分からない。だが、その日の午後、廊下の噂が、一つ、変わった。《秀頼公、大御所に、席を譲らせたり》。
譲ったのは、秀頼の方だった。
昼過ぎ、千姫が、書院に来た。顔が、少し、赤かった。
「殿。祖父上は、わたくしのことを、何と、申されておりましたか」
「元気か、って」
「……それだけで、ございまするか」
「あと、困らせてはおらぬか、って」
千姫の眉が、きゅっと、上がった。
「困らせて、おりませぬ」
「うん」
「殿は、何と、お答えに」
言うべきか、迷った。迷っている間に、顔に出たらしい。
「……何と、お答えに」
「……秀頼が、困らされております、って」
千姫は、しばらく、黙っていた。それから、ぷいと、横を向いた。
「次に祖父上にお会いになるときは、わたくしが、先に、お話しいたしまする」
耳が、赤かった。千姫は、そのまま、書院を出ていった。
治長が、帳面から顔を上げずに、言った。
「……会見で一番、怒っておられるのは、姫様でございますな」
「うん。勝った人が三人いて、怒った人が一人いた」
一枚に並べた三通の写しは、次の日、城の掲げ札に、貼り出された。
若い家来たちが、その前に集まって、読んだ。一人が、首をかしげた。
「……殿が勝って、大御所が勝って、どちらも勝っておらぬ」
「皆、勝っておるではないか」
「皆が勝った戦など、あるものか」
誰かが、笑った。つられて、何人かが、笑った。
その日から、廊下の噂は、少しだけ、静かになった。
夕方、九度山から、書状が届いた。会見の話を、もう、聞いたらしい。
《大御所に、紐のことを、申されし由》
《拙者の紐、二条の城まで、名が届き申し候》
《父、たいそう、笑い申し候》
最後の一行で、少し、ほっとした。昌幸は、このところ、床に伏せっていると聞いていた。笑える日が、まだ、あるのだ。
夕餉のあと、淀殿が、ぽつりと、聞いた。
「……内府は、老いましたか」
「はい。小さく、なってました」
母は、しばらく、黙っていた。
「殿下も、最後は、小さくなられました」
「……うん」
「小さくなった天下人は、怖うございます」
母は、箸を置いた。
「残りの日が少ないと知った者は、急ぎまする。殿下も、そうでございました。……急いで、唐入りを、なさいました」
家康の、あの独り言が、耳に残っていた。わしは、二十年は、生きぬ。
急ぐかもしれない。あの人も。
その夜遅く、廊下に、足音が響いた。走ってくる音だった。
足音は、一度、廊下の角で、止まった。息を整えているのが、分かった。それから、また、走り出した。
弥七だった。もう、小姓という年では、なかった。それでも、急ぎの知らせを持ってくるのは、今も、この男だった。
「拾様。……肥後より、急ぎの使いが」
使いは、泥だらけだった。船と馬を、乗り継いできたという。差し出された書状の字は、清正の字ではなかった。家来の、震える字だった。
《主、肥後へ下る船中にて、病を発し候》
《熊本の城に着き候えども、熱、下がらず》
《食、通らず》
《時に、人の見分け、つかず候》
目の前に、赤い数字が、出た。
【加藤清正 体の具合 重し】
会見の勝ち負けを、話していられる時は、終わった。
「……道悦を」
「すでに、呼んでございます」
弥七が、答えた。
熊本は、遠い。船で、何日もかかる。
秀頼は、行けない。豊臣の当主が、大坂城を出て、肥後まで下る。それは、戦の支度と、同じ意味を持つ。駿府が、見逃すはずがなかった。それに、母との約束もある。
行けない。
行けないことが、こんなに、重いとは、思わなかった。
「道悦と、見届帳と、薬を。それから」
少し、考えた。
「船着き場の、あの侍を、付けて」
「救うた者の数を、数えておる、あの者で」
「うん。あの人なら、清正に、何を見せればいいか、分かる」
【本日の豊臣家滅亡確率】
94.9% → 95.2%
道悦たちの船は、夜明け前に、出た。
見送った船着き場の端で、若い侍が、振り返って、叫んだ。
「拾様! 何か、加藤様に、お伝えすることは!」
叫び返した。
「休んでって! 今度こそ、って!」
船は、朝靄の中に、消えていった。




