第158話 二度半の毒見
【豊臣家滅亡まで 残り1,501日】
「なりませぬ」
母は、言った。
思った通りだった。いや、思ったより、早かった。秀頼が「二条」と言い終わる前に、もう、言っていた。
「まだ、わけを」
「聞くまでも、ございませぬ」
「母上」
「内府は、あなたを、見たいのでは、ございませぬ」
母の声は、落ち着いていた。怒鳴ってはいない。それが、かえって、怖かった。
「測りたいのです」
「何を」
「殺すべきかを」
部屋の空気が、止まった。
千姫も、そこにいた。十五になっていた。徳川の孫。豊臣の妻。この話から、逃げられない人だった。
「……祖父上は」
千姫が、言った。
「殿を、殺しませぬ」
母が、千姫を見た。厳しい目だった。だが、千姫は、目を逸らさなかった。
「なぜ、分かるのです」
「分かりませぬ」
千姫は、正直に答えた。
「ですが、会わねば、祖父上は、まわりの者が語る殿しか、知りませぬ」
清正と、同じことを言っていた。見ない敵は、大きくなる。千姫は、家康を知っている。家康のまわりの者たちも、知っている。
「祖父上は、強い者を、嫌うのでは、ございませぬ」
千姫は、続けた。
「分からぬ者を、恐れまする」
母は、黙った。
家康の用心深さを、一番分かっているのは、たぶん、母だった。だから、反対していた。
「行きます」
言った。
「母上。秀頼は、徳川を、信じるから行くんじゃありません」
「では、何のために」
「信じなくても、話せる道を、作るために行きます」
母は、秀頼を見た。
「言葉で、内府を、変えられると」
「思ってません」
「ならば」
「言葉で、お互いの、思い違いは、減らせます」
「思い違いで、なかったら」
「そのときは」
言った。
「敵だと、確かめられます」
母の眉が、動いた。
敵を、見誤らない。味方と決めつけない。敵とも決めつけない。会う。聞く。書き留める。その上で、備える。
母は、長い間、黙っていた。それから、帯に、手をやった。
帯の中には、あの懐紙がある。天下を取りたくなったら、まず、母に言うこと。
「……秀頼」
「はい」
「今、天下を、取りたいと、思うておりますか」
「思ってません」
「内府に会えば、思うかもしれませぬ」
「そしたら、帰って、母上に言います」
母は、目を閉じた。
六年前、同じ部屋で、この人は、刃の話をした。秀頼を刺して、わたくしも死ぬ、と。扇を、折った。
今は、扇を、握っていなかった。
「……六年前、わたくしは、刃の話を、いたしました」
母は、目を開けた。
「今度は、条件の話を、いたしまする」
胸の中で、何かが、ほどけた。
「守りは」
「清正と、浅野紀伊守」
母の顔が、変わった。
「肥後殿は、病んでおられまする」
「本人が、望みました」
「ならば、止めるのが、主でございましょう」
正しかった。答えられなかった。
清正を、休ませたい。だが、清正は、この会見を、自分の仕事だと思っている。人を休ませるのは、簡単ではなかった。休ませることが、その人の誇りを、奪うこともある。
「……一緒に来るのは、認めます。でも、道中の指揮は、浅野殿に渡す。清正は、秀頼の隣に、いるだけ」
母は、また、目を閉じた。長い沈黙だった。
「条件が、ございまする」
「何でしょう」
「膳の毒見を、三度」
「二度で、いいでしょう」
「三度」
「二度」
「三度」
親子の交渉だった。最後に、決まった。
二度半。
意味が、分からなかった。だが、母は、それで、納得した。
それから、道中の宿。守りの者の顔ぶれ。医者。食べ物。水。逃げ道。別の道。二条の城の中の、座る場所。どこまで、秀頼がその場で返事をしてよいか。もしものときに、誰が、何を継ぐか。
全部、決めた。
「……母上。会見に行く支度っていうより、戦に行く支度ですね」
「同じでございます」
即答だった。
違う、と言いたかった。だが、この時代、政の話し合いと戦は、隣り合わせだった。
細かいことを決める評議には、治長が、反対役として、張りついていた。
「道中の宿、伏見。……伏見の宿の裏手は、竹藪でござる。藪から、鉄砲で狙われまする」
「じゃあ、別の宿」
「別の宿は、川べりにて。……川から、舟で、狙われまする」
「どこなら、狙われないの」
「どこも、狙われまする」
治長は、真顔で言った。
「狙われぬ宿は、ござらぬ。狙われたときに、どこへ逃げるかを、宿ごとに、決めておくのでござる」
弥七が、宿ごとの逃げ道を、紙に書き出していった。竹藪の宿は、表から。川べりの宿は、裏から。弥七は、書きながら、ぼそりと言った。
「……真田殿の、逃げ道の図の書き方を、真似ておりまする」
九度山の男の図の描き方が、いつの間にか、大坂城の小姓頭の手に、移っていた。
評議が終わってから、千姫が、小さな袋を、差し出した。
「これは」
「祖父上が、お好きな香にございます」
「……賄賂」
「違いまする」
「じゃあ」
「話すことが、なくなったときに」
千姫は、言った。
「香の話を、なさればよろしいかと。祖父上は、香の話になると、長うございます」
雑談だった。昔、三成に教えようとして、なかなか身につかなかった技だ。今度は、秀頼が、使う番だった。
「助かる」
「殿」
千姫は、少しだけ、笑った。
「祖父上に、勝とうと、なさらぬよう」
千姫は、少し、首をかしげた。
「……お返事が、ございませぬな」
「考えてる」
「では、考えておられる間に、もう一つ」
千姫は、指を一本、立てた。
「祖父上は、負けそうになると、爪を噛まれまする。……殿が勝ちそうになったら、祖父上の指を、ご覧くださいませ」
「……爪を噛んだら」
「すぐに、香の話を」
十五の姫の兵法だった。
返事が、できなかった。
勝つ。何に。礼儀か。威厳か。政か。家康に、秀頼が大きくなったと、見せたい気持ちはあった。豊臣は、まだ終わっていないと、思わせたい気持ちも、あった。
それが、一番、危なかった。
供の顔ぶれが決まりかけた頃、後藤又兵衛が、書院に、どかりと座り込んだ。
「わしも、連れて行け」
「駄目」
「なぜじゃ」
「黒田家を飛び出した浪人を、大御所の城に、連れて行けない」
「槍は、置いていく」
「槍じゃなくて、顔が、駄目」
又兵衛は、自分の顔を、両手で、撫でた。
「……そんなに、怖いか」
「怖い」
弥七と、治長と、若い侍が、同時に、頷いた。
又兵衛は、しばらく、不満そうに唸っていた。それから、懐から、小さな袋を、一つ、出して、放ってよこした。
「持っていけ。浪人長屋の、若い者どもが、銭を出し合うて、買うた守りじゃ」
袋には、住吉の社の、守り札が、入っていた。
「……あいつら、自分で、渡しに来ればいいのに」
「来られぬ。顔が、怖いゆえ」
又兵衛は、にやりと笑った。
【二条城の会見まで 十七日】
【徳川の警戒 83】
【豊臣方の期待 86】
【主人公の、見せたい気持ち 28】
低くなかった。
家康より先に、自分を、警戒しなければならなかった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.1% → 95.3%
夜、千姫が、もう一度、部屋に来た。
「殿。……わたくし、昼間、伯母上に、口答えを、いたしました」
「うん」
「祖父上は、殿を殺しませぬ、と。……分かりませぬのに」
千姫は、膝の上で、両手を握っていた。
「もし、殿に、何かあったら。わたくしが、殿を、祖父上のところへ、行かせたことに、なりまする」
「千のせいじゃない」
「わたくしの、せいでございます」
千姫は、顔を上げた。
「ですから、わたくしも、決めました。……殿が、お帰りになるまで、毎朝、伯母上と、同じ膳を、いただきまする」
「どうして」
「伯母上が、お一人で、殿を待たれるのは、お辛うございましょう。……わたくしも、殿を、待ちまする。同じ膳で」
十五の姫は、自分の立場の重さを、全部、分かった上で、そこに、座ろうとしていた。
その夜、清正に、使いを出した。《二度半》の毒見のことを、伝えるためだった。
使いは、清正の返事を、四行で、持って帰ってきた。
《二度半、承知》
《半分の方は、わしに任されよ》
《わけは、当日》
《土は見た》
四行目が、変わっていた。




