第155話 宛名のない書状
【豊臣家滅亡まで 残り2,255日】
慶長十四年の春、書院の机の上に、書状の山ができていた。
「……これ、全部」
「御成長を、祝う書状にございます」
治長が、山の一番上から、一通、取り上げた。十六になった豊臣の当主に、方々から、祝いの言葉が届いていた。大名から。寺から。公家から。商人から。
「全部、祝い?」
「大半は」
大半。つまり、残りは、違う。
「読んで」
治長が、一通、開いた。
「《太閤殿下の御威光、再び天下を照らす時、近し》」
やめて。
「次」
「《豊臣御嫡流の御成人、天下万民の、待ち望むところ》」
待たないで。
「次」
「《徳川の世は、仮の宿にて候》」
誰だ。こんな危ない例えを書いたのは。
「差出人は」
「……記されておりませぬ」
最悪だった。名のない、天下取りの応援の書状。前の世なら、名を隠した書き込みのようなものだ。だが、この世では、一通の書状が、そのまま、謀反の証になる。
治長の手が、かすかに、震えていた。反対役の手が、震えるのを、初めて見た気がした。
「……焼きまするか」
「焼かない」
「されど、もし、駿府の目に触れれば」
「焼けば、届かなかったことには、できる。でも、誰が、何を期待しているのかも、分からなくなる」
写しを取らせた。元の書状は、封をして、蔵に入れた。写しには、届いた日と、届けた者の顔と、使いの来た方角を、書き添えさせた。
「それから、同じ数の写しを、もう一組」
「……もう一組」
「駿府への、月ごとの知らせに、入れる」
治長の顔から、血の気が引いた。
「こ、このような書状が届いたことを、わざわざ、内府様に」
「うん。《大坂は、こういう書状を、望んでいない。届いたので、お知らせする》って」
隠さない。だが、利用させない。いつものやり方だった。
書状を送った者が、豊臣を担ぎたいのか、豊臣を罠にかけたいのか、それは分からない。分からないからこそ、先に、見せる。
名のない書状は、全部で、十一通あった。与市が、それを、机の上に、一列に並べた。
「……拾様。この十一通、書いた者は、たぶん、三人でございます」
「どうして分かるの」
「紙が、三つに分かれまする。京の紙屋の紙が五通。奈良の紙が四通。残る二通は、堺の、南蛮船の荷を包む紙の、切れ端にて」
与市は、紙の端を、灯りに透かしてみせた。
「墨も、違いまする。京の五通は、墨が薄い。急いで書いたのでござろう。奈良の四通は、字が上手すぎまする。祐筆の手でございます」
「堺の二通は」
「……字が、下手でございます。されど、一番、本気でござる」
治長が、横で、呆れたような、感心したような顔をしていた。
「勘定方は、紙の匂いまで、嗅ぎ分けるのか」
「長盛様が、帳面の紙で、どこの蔵の帳面か当てておられました。拙者は、その真似をしておるだけでございます」
名のない書状にも、名はあった。紙と墨と、字の癖に。
写しを取り終えたとき、数字が、開いた。
【豊臣家に寄せられている望み】
天下を取り戻す 64
徳川を倒す 48
戦のない世を保つ 59
大坂が栄える 73
少しだけ、ほっとした。全員が、天下を望んでいるわけではなかった。
だが、数字には、続きがあった。
【望みの揃い具合 12】
低かった。低すぎた。
豊臣家を応援する者たちは、同じ豊臣家を、見ていなかった。ある者は、秀吉の天下を望む。ある者は、徳川への仕返しを望む。ある者は、商いが続くことを望む。ある者は、浪人の働き口を望む。
そして、皆が、自分の望む豊臣を、秀頼に、演じさせようとしていた。
その日の夕方、書院の外の廊下で、若い侍たちが、写しを取っている祐筆の手元を、こっそり覗き込んでいた。
「……仮の宿、とな」
「うまいことを言う」
「いずれ、宿を、明け渡させる日が」
秀頼が廊下に出ると、侍たちは、蜘蛛の子を散らすように、いなくなった。一人だけ、逃げ遅れて、柱の陰で、固まっていた。十七、八の若者だった。
「宿を明け渡させて、そのあと、どうするの」
若者は、真っ赤になった。
「……そ、それは」
「誰が、宿の主になるの」
「と、殿が」
「宿の中にいる人たちは」
若者は、答えられなかった。
「答えられなくて、いいよ。今日は」
若者は、深く頭を下げて、走っていった。背中が、ひどく、若かった。
夕餉のあと、淀殿に、《仮の宿》の書状の写しを、見せた。
喜ぶかもしれない、と思っていた。豊臣の天下を、誰より強く口にしてきた人だった。
母は、写しを、一度だけ読んで、すぐに、畳んだ。
「……この者は、宿に、住んだことが、ございませぬな」
「どうして」
「仮の宿に住む者が、何を一番恐れるか、知らぬからでございます」
母は、写しを、秀頼に返した。
「宿は、焼かれまする。主が変わるときに。……わたくしは、宿を三つ、焼かれました」
小谷。北ノ庄。そして、秀次の聚楽第。母は、そのどれも、自分の住まいとしては、数えていなかった。焼かれた宿として、数えていた。
「この書状を書いた者に、申しておきなさい。大坂は、宿では、ございませぬ。家でございます、と」
夜、帳面を開いた。
家が生き延びる見込みは、上がっている。蔵には、金銀がある。町は、栄えている。病で死ぬ子は、減った。浪人は、仕事を得た。商人が、戻ってきた。九度山の真田とも、紐でつながっている。
関ヶ原のあと、豊臣は終わった、と言われた。天下は、徳川に移った、と思われた。それでも、大坂は、栄えた。
人は、望みを持つ。
望みは、ときに、一番、危ない燃えぐさになる。
弱ければ、あきらめられる。強くなれば、夢を見てしまう。そして、夢を見た人間は、数字を見ない。
翌月、名のない書状十一通の写しは、月ごとの知らせと一緒に、駿府へ送られた。与市の見立ても、そのまま、付けた。京の紙が五通、奈良の紙が四通、堺の紙が二通。
ひと月して、返書が来た。いつもの二文字だと思った。
《読んだ》
その横に、もう一行。
《堺の二通、字、下手なり。されど、書きし者の顔は、分かる》
与市が、青くなった。
「……駿府にも、紙の匂いを嗅ぐ者が、おりまするな」
「うん。たぶん、もっと鼻がいい」
名を隠して書いた者の顔を、家康は、もう、知っていた。それを、わざわざ、こちらに知らせてきた。お前の家の中のことは、見えている。そう言っているようでもあった。
【大坂の陣が起きる見込み 89%】
【豊臣の旗を担ぎたがる者 81】
最後の数字が、一番、まずかった。
帳面の端に、一行、書いた。
《豊臣家を守ることと、徳川を倒すことを、取り違えない》
去年の春、天守で見た、あの表示と、同じ言葉だった。自分の字で書くと、少し、重さが違った。
【本日の豊臣家滅亡確率】
94.8% → 95.0%
書き終えたとき、襖の向こうで、声がした。
「……殿。まだ、起きておられまするか」
千姫だった。十三になっていた。
「起きてる。どうしたの」
「昼間、廊下で、仮の宿、と申す声が、聞こえました」
襖の向こうで、少し、間があった。
「わたくしは、その宿の、主の孫でございます」
胸が、冷えた。
千姫は、この城で、豊臣の妻として暮らしている。同時に、徳川の孫でもある。仮の宿の話は、千姫にとって、祖父の家を追い出す話だった。
「……ごめん」
「殿が、謝られることでは、ございませぬ」
「うちの家の者が、言ったんだから」
また、少し、間があった。
「では、明日から、あの方たちに、わたくしの前で、同じことを、言うてもらいまする」
「……どうして」
「わたくしの顔を見て、言えぬようなことなら、言わぬ方が、よろしいので」
襖越しの声は、静かだった。十三の姫は、城の中の一番危ない火種の、一番近くに、座っていた。
襖の向こうの気配が、遠ざかっていった。
足音が、廊下の途中で、一度、止まった。それから、侍女を呼ぶ声がした。千姫は、明日の朝、廊下の若い家来たちを、呼び集めるつもりなのだと思った。
【人物評価:千姫】
両家をつなぐ力 96
静かに決める力 90
どちらの家からも人質と見られやすい度合い 88
最後の数字を、消せなかった。




