第153話 強さを見せる相手
【豊臣家滅亡まで 残り2,833日】
夜、淀殿は、秀吉の遺した屏風の前に、座っていた。
金の地に、松。雲。城。そして、小さな人々。豊臣の天下は、絵の中では、今も、続いていた。
「母上」
「座りなさい」
隣に、座った。淀殿は、しばらく、屏風を見ていた。灯りが揺れるたびに、金の雲が、少しずつ、色を変えた。
「あなたは、豊臣を、強うしました」
「まだ、足りません」
「足りぬのでは、ございませぬ」
母は、屏風から目を離さずに、言った。
「強うしすぎたのです」
言い返そうとした。だが、数字が、頭に浮かんだ。家が生き延びる見込みは、上がっている。大坂の陣が起きる見込みも、上がっている。どちらも、上がっていた。
「……父上なら」
言いかけて、止まった。淀殿が、こちらを見た。
父を超えるのではない。父から、卒業する。何年も前に、そう決めたはずだった。それでも、困ると、「父上なら」が、口から出る。秀吉に頼る癖は、決まりの中だけにあるのではなかった。秀頼の中にも、あった。
「太閤殿下なら」
淀殿が、代わりに言った。
「恐れられることを、喜ばれたでしょう」
「……はい」
「恐れられぬ者に、天下は、取れませぬ」
「はい」
「ですが」
母は、秀頼を、まっすぐ見た。
「あなたは、天下を、取るのですか」
答えが、出なかった。
豊臣秀頼として、天下を継ぐ。それが、まわりの望みだった。だが、秀頼が目指しているのは、豊臣家が滅びないことだった。天下を取ることではない。徳川を倒すことでもない。
「……分かりません」
淀殿は、少し、笑った。
「初めて、分からぬと、申しましたね」
「いつも、言ってます」
「口では、申しております。心の中では、申しておりませなんだ」
鋭かった。母親には、数字よりも、見えているものがあった。
「母上は、天下を、取り戻したいですか」
淀殿の目が、また、屏風に戻った。
「取り戻す、というのは、失くした者の、使う言葉です」
「……はい」
「豊臣は、まだ、何も、失くしておりませぬ」
誇りだった。認めたくない心でもあった。そして、危うさを抑える言葉でもあった。全部だった。
「徳川は、豊臣を、滅ぼすと、思いますか」
「わけが、揃えば」
即答だった。
「内府殿が、善い人か、悪い人かでは、ございませぬ。豊臣を残すことが、徳川の得にならぬと分かれば、滅ぼしまする」
筋が、通っていた。
情に流される淀殿。後の世では、よく、そう描かれる。だが、この人は、家が滅びるのを、何度も見てきた。小谷。北ノ庄。秀次の屋敷。人は、一度うまくいったことより、三度、滅んだことの方を、深く覚える。
「じゃあ、どうすれば」
「徳川に、豊臣を残す得を、与えるのです」
「天下を取らないと、誓えば」
「誓いは、人が死ねば、変わりまする」
「縁組は」
「夫婦が死ねば、変わりまする」
「人質は」
「逃げれば、変わりまする」
「じゃあ」
「決まりに、しなさい」
母は、秀頼がいつも言っている言葉を、そのまま、返してきた。
「豊臣を滅ぼせば、徳川も損をする。そういう決まりに、しなさい」
商い。信用。町。寺と神社。朝廷。縁組。国々の大名。豊臣家を、戦の脅威ではなく、消してしまうと皆が困るものに、する。
それは、一つの答えだった。
だが、消せないほど大きくなれば、徳川は、もっと、恐れる。
「……母上。難しすぎませんか」
「天下人の子で、ございましょう」
「五つで、社長にした人が、それを言いますか」
「しゃちょう」
「……忘れてください」
淀殿は、少し笑った。笑ってから、真顔に戻った。
「秀頼」
名で、呼ばれた。拾でも、若君でもなかった。
「強うなることと、生き延びることを、同じと思うては、なりませぬ」
その言葉が、胸に、残った。
強い家。強い城。強い兵。強い蔵。それは、生き延びる力になる。同時に、攻められるわけにも、なる。
「……母上は、秀頼に、弱くなれと」
「いいえ」
淀殿は、首を横に振った。
「強さを、見せる相手を、選べと、申しております」
屏風の中の、金色の城が、灯りの中で、静かに光っていた。
淀殿は、屏風の端の、小さな人の絵を、指さした。城の外で、田を耕している、豆粒のような百姓だった。
「殿下は、この屏風を描かせるとき、絵師に、一つだけ、注文をなさいました。……城より、人を、多く描け、と」
「人を」
「天下の城は、人が見上げてこそ、天下の城じゃ、と」
淀殿は、屏風から、指を離した。
「殿下にも、分かっておられたことは、ございました。……分かっておられて、最後に、忘れてしまわれた」
【人物評価:淀殿 更新】
危うさを見抜く力 95
血筋を守る心 98
損を覚えている力 100
強さの見せ方を知る力 88
屏風の前を立つ前に、淀殿が、一つだけ、言った。
「秀頼。約束なさい」
「何を」
「天下を取りたくなったら、まず、わたくしに、申しなさい」
「……止めるんですか」
「止めるかどうかは、聞いてから、決めまする」
母は、真顔だった。
「殿下は、朝鮮に兵を出すとき、誰にも、先に申されませなんだ。……決めてから、申されました。決めてからでは、誰も、止められませぬ」
「約束します」
「言うだけでは、足りませぬ。書きなさい」
淀殿は、懐紙を一枚、差し出した。そこに、書いた。《天下を取りたくなりしときは、まず母に申すこと》。
母は、それを、丁寧に畳んで、自分の帯に、しまった。
その夜、真田信繁への頼みの書き付けを、書き直した。
川。逃げ道。危うい時の備え。そこに、一行、書き足した。
《駿府と江戸への、定めての知らせ》
大坂が、何を作ったか。どこに、誰を置いたか。どんな稽古をしたか。全部、こちらから、先に、知らせる。見られる前に、見せる。
送る前に、与市が、宛名を書きながら、手を止めた。
「……拾様。これは、九度山への、書状でございますね」
「うん」
「内府様の見張りが、読まれまする」
「うん。読まれていい」
与市は、筆を持ったまま、秀頼を見た。
「主が、家来に、己を止めよと頼む書状を、徳川が読む。……よろしいので」
「いい。むしろ、読んでほしい」
止める役が、九度山にいる。それを、駿府が知る。豊臣の中に、戦を止める仕組みがあると、徳川に見せることになる。
与市は、しばらく考えて、それから、頷いた。宛名を、いつもより、丁寧に、書いた。
ひと月して、九度山から、返書が来た。
《敵に、手の内を、見せ申すか》
書き返した。
《敵に、せぬためにて候》
また、返書が来た。
《敵になりたる時は、いかがなされ候》
長い間、筆が、止まった。それから、書いた。
《その時は、左衛門佐殿が、秀頼を、止められよ》
《戦いたくなった秀頼を、止められよ》
九度山からの返事は、ひと月以上、来なかった。
来たときには、たった一行だった。
《承知つかまつり候》
名将の仕事が、一つ、増えた。主を勝たせることではない。主が、勝てる戦に飛び込もうとするのを、止めること。
たぶん、それが、一番、難しい仕事だった。
最初の月ごとの知らせは、その翌月、駿府に送った。
浪人の数。持ち場。稽古の日と、中身。紐の買い付け。九度山とのやり取りの、あらまし。全部を、一冊の帳面にまとめた。与市が清書し、且元が、表紙に署名した。
返事は、来なかった。
二月目も、送った。返事は、来なかった。
三月目の知らせを送った十日後、駿府から、短い書状が届いた。家康の字だった。
《読んだ》
それだけだった。
「……それだけでございますか」
且元が、拍子抜けした顔をした。
「うん。でも、読んでる」
読んでいる、と、わざわざ書いてきた。それが、家康の返事の全部だった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
94.2% → 93.9%
一行だけの返書の端に、もう一つ、小さな字が、書いてあった。
《焼酎、壺二つ、所望》
前より、一つ、増えていた。且元が、頭を抱えた。
「……老父の養生、でございますな」
「うん。養生が、倍になった」




