第146話 母の刃
【豊臣家滅亡まで 残り3,630日】
北政所の輿が、大坂城に着いたのは、雨の日だった。
京から来る道は、ぬかるんでいたはずだ。それでも、北政所は、輿から降りると、まっすぐ台所をのぞいた。焼き味噌の太郎に、何か一言、言った。太郎が、慌てて頭を下げた。それから、広間に入ってきた。
変わっていなかった。変わっていないように、見せていた。
広間の上座には、秀頼が座った。その斜め後ろに、淀殿。脇に、且元と治長。
北政所は、下座に座って、深く頭を下げた。
「将軍家よりの使いとして、参りました」
声は、静かだった。
「新しい将軍様に、祝いを申し上げるため、秀頼殿に、京へお上りいただきたい。……それが、内府様の、お望みにございます」
家康は、将軍を譲っても、内府と呼ばれていた。いや、呼び名など、どうでもよかった。天下を動かしているのが誰かは、城の鼠でも知っていた。
淀殿は、何も言わなかった。
扇を、膝の上に置いたまま、動かなかった。
「母上」
小さく、声をかけた。返事は、なかった。
北政所が、顔を上げた。淀殿を、まっすぐ、見た。
「茶々殿」
呼び方が、変わった。
「上洛は、礼にございます。臣として上るのではない。親戚として、祝いに上る。……そう、内府様も、仰せでございます」
「親戚」
淀殿が、初めて、口を開いた。
千姫がこの城に来て、豊臣と徳川は、親戚になった。それは、本当だった。
「親戚のもとへ、祝いに上った者が、帰ってこなんだのを、わたくしは、見ております」
広間の空気が、固まった。
北政所の顔色が、変わった。誰のことを言っているのか、分かったのだ。
関白、豊臣秀次。秀吉の甥。秀吉の跡継ぎとして、関白になった男。伏見へ呼ばれて、上った。そのまま、高野山に送られた。腹を切らされた。妻も、子も、側の女たちも、三条の河原で、殺された。
十年前のことだった。秀頼が、まだ生まれて二年の頃の話だ。
呼んだのは、太閤。秀吉だった。
「……あれは」
北政所の声が、かすれた。
「あれは、殿下の」
「殿下の、でございます」
淀殿は、はっきり言った。
「殿下でさえ、そうなさいました。甥御に。……跡継ぎに。なれば、内府殿が、なさらぬと、誰が申せましょう」
誰も、答えられなかった。
淀殿は、扇を、手に取った。それから、ゆっくり、立ち上がった。
「北政所様に、申し上げます」
声が、震えていなかった。震えていないのが、怖かった。
「無理に、秀頼を、上らせよと仰せなら」
扇の先が、秀頼の方を向いた。
「秀頼を刺して、わたくしも、死にまする」
広間の誰も、息をしなかった。
且元が、額を畳につけた。治長は、腰を浮かせかけて、止まった。
北政所は、長い間、淀殿を見ていた。それから、ゆっくり、頭を下げた。
「……内府様に、そのまま、お伝えいたします」
北政所は、使いとして、最後の言葉を言った。それから、顔を上げて、少しだけ、声の調子を変えた。
「ここからは、使いではなく、ねねとして、申します」
淀殿が、北政所を見た。
「茶々殿の申されること、わたくしが、一番、よう分かっております。……秀次の子らの顔を、わたくしも、忘れてはおりませぬ」
北政所は、それだけ言って、広間を出た。
広間を下がると、廊下の柱の陰で、治長が、うずくまっていた。
「……治長」
「拾様。拙者は、反対役にござる」
治長は、顔を上げなかった。
「御方様が、刃のことを申された時、拙者は、何も申せませなんだ。反対も。お止めも。……ただ、腰を浮かせただけで」
「うん」
「反対役が、一番大事な時に、黙っておりました」
治長の拳が、床の上で、震えていた。淀殿を守る心、百。その男が、淀殿の言葉の前で、動けなかった。
「治長が黙ってたのは、母上が、本気じゃないって、分かってたからでしょう」
治長は、ようやく、顔を上げた。
「……分かっておりました。分かっておったゆえ、なおさら、申せませなんだ。御方様は、本気でないことを、本気の顔で、申されねばならぬほど、怖かったのでございます」
反対役は、その夜、一晩じゅう、淀殿の部屋の前の廊下に、座っていたという。
その夜、北政所は、城に泊まった。秀頼は、廊下で呼び止められた。
「拾」
「はい」
「母を、責めてはなりませぬ」
「責めません」
北政所は、秀頼の顔を、じっと見た。
「……そなたは、行く、と申すつもりでありましたろう」
図星だった。
行けば、家康は喜ぶ。豊臣は、徳川に従う家として、はっきり形になる。戦の見込みは、下がる。数字で考えれば、行くのが、正しかった。
「母上が、刃のことを、申されたので、言えませんでした」
「それでよい」
北政所は、少しだけ笑った。
「正しいことより先に、母の怖さを、聞きなされ。……殿下は、それを、最後まで、なさいませんでした」
夜更けに、淀殿の部屋を訪ねた。
母は、灯りの前に、座っていた。扇が、膝の上で、二つに折れていた。広間では気づかなかった。握りしめて、折ったのだ。
「……母上」
「怖い思いを、させました」
淀殿は、秀頼を見なかった。
「刺すなど。……刺せるはずが、ございませぬ」
「知ってます」
「ならば、なぜ、あのようなことを、申したのか」
淀殿は、自分に聞いていた。
「……城から出た者が、帰らぬのを、何度も、見ました」
小谷の城から、父の長政は、出なかった。北ノ庄の城から、母のお市は、出なかった。城を出て、帰らなかった者もいた。城に残って、帰らなかった者もいた。母は、どちらも、見てきた。
「秀頼。あなたは、行くつもりでしたね」
「……はい」
「行けば、戦が遠のく。そなたは、そう考えたのでしょう」
「はい」
淀殿は、ようやく、秀頼を見た。
「その見通しには、秀次殿のように、帰らぬ者のことも、入っておりますか」
答えられなかった。
【人物評価:淀殿】
損失記憶 100
血統防衛 98
城を出る者への恐れ 測れず
数字は、そこだけ、測れなかった。
「行きません」
言った。
「代わりに、別の形を、考えます。豊臣が礼を尽くしたと、将軍様にも、世の中にも、分かる形を。母上が、怖くない形を」
淀殿は、長く、黙っていた。それから、折れた扇を、そっと、脇に置いた。
「……そのような形が、ございますか」
「探します。いつもの、仕事です」
明け方、且元を呼んで、紙を二枚、並べた。
一枚目には、将軍家が欲しいものを書いた。豊臣が、新しい将軍を祝ったという、形。世の中に見せる、礼。
二枚目には、豊臣が、譲れないものを書いた。当主が、城を出ないこと。母が、怖くないこと。
「この二つが、重なるところを、探します」
「重なるところ、でございますか」
「うん。欲しいのは、上洛そのものじゃない。上洛で見せたい、形の方。……形だけなら、別の運び方が、あるかもしれない」
前の世で、何度もやった交渉の、基本だった。相手が口で言っていることではなく、その奥で欲しがっているものを、見る。
且元は、二枚の紙を、しばらく見比べていた。
「……祝いの使いを、こちらから出すのでは、足りませぬ。向こうから、どなたかを、お迎えする形なら」
「それ。それで、いこう」
次の朝、家康に、書状を書いた。
《秀頼、母の病ありて、城を離れがたく候》
《されど、新しき将軍家を祝う心に、偽りなく候》
《願わくは、内府様の御子のうち、秀頼と年の近きお方を、大坂へ遣わされたく候》
《秀頼、城の大手まで出て、お迎え申すべく候》
こちらから、行けない。ならば、来てもらう。来た者を、豊臣の当主が、城の外まで出て迎える。礼は、尽くす。城は、出ない。
半月して、返書が来た。
《六男、上総介を、遣わす》
松平忠輝。家康の六男。秀頼より、一つ上の十三だった。
家康は、刃の話を、どこまで聞いたのだろう。聞いた上で、この形を、飲んだ。
【本日の豊臣家滅亡確率】
94.6% → 94.4%
返書の端に、また、家康の字で、一行、あった。
《母御を、大事にせよ》
その一行を、淀殿には、見せなかった。見せたら、また、扇を折りそうだったからだ。




